誰も居ないその扉に語りかけるな

2時35分、仕事は終わらないが諦めてそろそろ寝てしまおうか。先日のGOOD ON THE REEL伊丸岡さんの一報には驚いた。すぐに襲ってきた言いようのない悲しみのそばでSNSを眺めながら、無意識のうちに昨年に報じられた別の音楽家のニュースと比べてしまう自分がいて、世間的に有名にならないと偉大な音楽家が亡くなってもさして話題にならないんだなと感じてしまった。最低だった。自分が毎日聴いて憧れ焦がれた事実も、世の中の大勢にとってはどうでもいいどころか耳にすら入らないのだ。お知らせの中にも書かれていた通り、心の中で静かに見送るというのが、今できる精一杯の弔いなのだと思う。何も考えないようにしながら1日に何回か、彼の作った音楽を聴いては、何にも頼りようのなかったあの頃を思い返している。

年が明けてから間もない頃には、年末に八代亜紀が旅立っていたというニュースもあった。体調を崩して休養していたのは知っていたが、まさかこんなに早くに亡くなるとは想像していなかった。まだ幼かった頃、一緒に浸かった浴槽の中で祖父が口ずさむ舟唄が響いた浴室や、大晦日の夕方にテレビから流れていた歌番組を思い出す。現代はあらゆる光景を映像として残せるからか、八代亜紀の歌う姿も随分と流れていたように思う。映像にしろ音源にしろ、人が生きた事実が形として後世に残り続けるのは素晴らしい。

こんなことを書いておいて言うのも気が引けるが、こうやって人が亡くなってから、「ショックだ」「驚いた」などと書き残すのはずるいように思う。体調によるものであれば、それは本人以外にはどうにもできない事実なのかもしれないけれど、そうでない場合には、その声が届いていれば違う未来があったかもしれないと考えれば尚更だ。事が起きてからもう誰もいないアカウントに語りかけるのは、後出しじゃんけんなんかよりもずっとずるく、どこか醜さすら感じてしまう。生きている時にあたたかく声を寄せるというアクションが、自分以外の誰かにとってより良い選択をしてもらい続けることや、誰かの人生を豊かに彩ることに繋がるのだとしたら、それはいつか周りまわって自分の人生を生きていくということになるだろうか。

誰かが亡くなったその背景に怒りを感じるような部分があったとして、その感情はもちろん尊重されて良いものだとは思うが、きっとインターネットに発信して何かを対象に攻撃する動きのほとんどは、無関係者によって行われているのが現実だろう。相手の姿が見えず、自分の姿も見せないような世界の中で、実生活で溜めこんだ鬱憤を晴らすために無関係な誰かを攻撃してはいけない。たまたま目にした出来事に対して、タイムリーに意見を表明することばかりに囚われなくてもいい。言葉にしない人が何も考えていないわけではなければ、言葉にした人が人一倍考えているわけでもない。言及しない思いやりも大切にしたい。

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