クリスチャン・ボルタンスキーの展示、[Lifetime]の感想

別のアカウントであげた、初日に訪れたときの感想、の再掲です。明日が最終日らしい。明日行きたいな…。もう《黄昏》は真っ暗だろうな…。





 国立国際美術館で行われている、クリスチャン・ボルタンスキーの展示を観てきた。展示の仕方を含めて、本当にいい展示だった。やりきれない思いでいっぱいになりながら、出口を出てすぐ、ベンチに座ってしたためている。

 最も印象的だったのは《ぼた山》に至るまでの展示だ。強く感じたのは一点、人間の肉体もモードに過ぎない、ということだ。《ぼた山》には黒い服が堆く重ねられている。服と服との境目もわからないくらいに重なりあって、そこで大きな山を為している。そして、その天辺にあたる部分には白の照明が当てられている。当然、天辺にも黒い服が置かれているはずなのだが、光が当たっているために、そして、自分の身長よりも高いところにあってよく見えないために、その服が白色であるように見えるのだ。そして、そうではないと分かっているのだけど、それが、どうか白い服であってほしい、という祈りのような気持ちを抱いた。
 山の周囲を巡るように、《発言する》匿名の影たち。「彼ら」に耳を傾けていると、わたしは時間と空間から脱落したのではないか……。そんな気持ちになる。
 モードのように新しいものが生まれ、古いものが底へと埋まっていく。新しいものは、自分を使い古すために生まれる。人間の肉体も同様、刹那の意識を持っているに過ぎず、ぼくたちは一片の布切れだ。

 ぼた山の手前には、《アニミタス(チリ)》と《アニミタス(白)》という作品が左右対称の形で展示されている。左には雪原(?)が、右には海岸(?)があり、そこには無数の風鈴が立てられている。そして揺れている(という映像)。それはまるで枯れ蓮が折れていっせいに水面に花托を向けているかの如くであって、超現実的な印象を受ける。そして、それが蓮であるならば、わたしはそこに浄土を見いだす。
 また、その左右対称に展示された浄土の間を突っ切るように割いて、奥には終わった肉体たちの山《ぼた山》が見える。わたしは死んだらどこにいくのだろうか。その問いが新鮮味を帯びてわたしを襲った。再びこの世のモノとして、ここに形を得てしまう、それから逃れることができないことの恐怖を思い出している。

 もう一歩手前には《モニュメント》のシリーズがある。ひどくぼけた人の顔面の写真がそこにはある。祭壇画のように、あるいは神棚のように、人の顔が「展示」されている。眼窩を黒く埋められたような人の顔、顔、顔、は、より普遍的な顔に近づくとともに、わたしにしゃれこうべを思い出させずにはいない。その誰のかもわからない顔の下には、系統立てられるのを拒むかのようなインクのざらつきが枠にはまって、そこにある。思考が混沌へと追いやられる。混沌に還る。
 そしてまた入口に近づくと、死んだスイス人たちの写真、そして彼らの遺品や遺骨を思わせる錆びた缶箱だ。人間が吊るされている。不安定で、どこにも落ち着くことがない人間。

 《ぼた山》の反対側にある、《ミステリオス》の海と、不気味な音と、白骨化した鯨のところまでやってきて、わたしはようやく「帰ってこれた」ような安堵感に包まれる(でもどこへ?)。だが、少なくともここが現世であることを思い出して、ため息をついた。
 展示を巡っていく過程、背後には、常に《心臓音》が聞こえている。わたしは今鼓動しているこの命から決して目を背けることができない……。

 例のごとく、わたしは美術展でまず写真を撮ることがない。写真に収めることでわたし自身が記憶を美化しないため、そして人に写真を見せて、分かった気になってほしくないためだ。わたしの文章よりも、どうか実際足を運んでほしい。
 大阪では5月6日まで、そのあと東京・国立新美術館、そして長崎・長崎県美術館でも展示がある。是非とも観てみてほしい。人間の生と死を、生きている不条理を、たしかにそこに見ることができるはずだ。日々二つずつ消えていく電球と、ただただ《黄昏》れることになるだろう。

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