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バスに乗りこんで空を裏切る


夜行バス

4列

去年の夏頃から月に1度のペースで東京に行っている。いつも利用するのは夜行バスだ。はじめの頃は4列シートのバスを予約していた。4列のバスでは、座席が通路を挟んで左右に2列ずつ並んでいる。隣の席とくっついているから、友人や恋人と同乗する場合はいいけれども、赤の他人とわずか数センチの距離、場合によってはゼロ距離で一晩を過ごさねばならないというのは、なかなかに落ち着かないものである。体格が小さければまだいいのかもしれない。でも、わたし自身、身長が179センチあるくらいなので、隣にも大きなひとがやってきたらお互いに狭い思いをしながら眠らねばならない。隣人が肘掛けをちょっと越え出てきたくらいでも苛立ちは募るし、脚を大きく開かれたりしたら、それを小突いたりなんていう小競り合いも起きてくる。自他境界に過敏になるのだ。でも、自分も相手も、新幹線や3列シートの夜行バスなどは選ばず、節約して行くべきところを目指す点においては一緒であるし、そのために互いに今は我慢しようとしているところは了解している。こういった他者との「共生」の厳しさが最も鋭利な形で現れていると感じるのは、詩人・石原吉郎がソ連の強制収容所で過ごした経験である。引こう。

一日の労働ののち、食事に次いでもっともよろこばしい睡眠の時間がやってくる。だが、この睡眠の時間にあっても、〈共生〉は継続する。とくに収容所生活の最初の一年、毛布一枚の寝具しか渡されなかった私たちは、食罐組どうしで二枚の毛布を共有にし、一枚を床に敷き、一枚を上に掛けて、かたく背なかを押しつけあってねむるほかなかった。とぼしい体温の消耗を防ぐための、これが唯一つの方法であった。いま私に、骨ばった背を押しつけているこの男は、たぶん明日、私の生命のなにがしかをくいちぎろうとするだろう。だが、すくなくともいまは、暗黙の了解のなかで、お互いの生命をあたためあわなければならないのだ。それが約束なのだから。そしておなじ瞬間に、相手も、まさにおなじことを考えているにちがいないのである。

石原吉郎「ある〈共生〉の経験から」(講談社文芸文庫『石原吉郎詩文集』より)

この「結束」とは、「お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯」であると石原吉郎は言う。

これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。

(同前)

安易に「孤独」などと、「連帯」などと、口にするな。自らが他者を侵犯しており、他者がわたしを侵犯してくるという、具体的な暴力を捨象したうえでの「連帯」などありえない。相互に侵犯しあわざるをえないという「孤独」に沈潜することなしにはどんな連帯もありえない。

石原吉郎の経験はいわば極北だ。だが、たしかに夜行バスのターミナルにも殺伐とした空気が漂っている。それは、誰もが来るべき数時間を耐えるべく、己の輪郭へと閉じこもっていくからなのだろう。けっして無傷でも、よろこばしくもない「連帯」のために。そして、そんな「連帯」は嫌だから、と、ひとは4列ではなく3列を、夜行バスではなく新幹線や飛行機を選ぶ。


3列

この頃はさすがに4列の「連帯」がしんどくなってきて、3列の「連帯」を選んでいる。夜行バスはしんどいけれども、うつらうつらしながら深夜のサービスエリアでふかす煙草は嫌いじゃないし、早朝にバスタ新宿に着いてから珈琲貴族エジンバラでモーニングを食べて(モーニングはコーヒーのおかわりが無料!)1,2時間ぼーっとするのも悪いもんじゃない。だからまだ夜行バスという「連帯」を選び続けている。

夜行バスに乗っているときは、よくデジャブが起こる。日常的にもデジャブを感じることはあるけれども、夜行バスの車中で半醒半睡の状態のときはやっぱり頻度が高いと思う。なんかこの座席で、こんな想念が浮かぶんだよな、と思っていたら、ほんとうにその想念が浮かぶ。周りの座席のひとたちの特徴も、たしかに一度見たとおりだと感じる。初めて乗ったはずのこの車両なのに。デジャブといえば、思い出すのが大岡昇平の『野火』である。

 歩きながら、私は自分の感覚を反芻していた。既知の感じに誤りがあるのはたしかとしても、記憶の先行のような機械的な作用からではなく、私の感覚の内部に原因を探したいと思った。
 私は半月前中隊を離れた時、林の中を一人で歩きながら感じた、奇妙な感覚を思い出した。その時私は自分が歩いている場所を再び通らないであろう、ということに注意したのである。
 もしその時私が考えたように、そういう当然なことに私が注意したのは、私が死を予感していたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行うことを無限に繰り返し得る 、、、、、、可能性に根ざしているという仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたい 、、、、、、、、という願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す 、、、、希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。
 「贋の追想」が疲労その他何等かの虚脱のときに現れるのは、生命が前進を止めたからではなく、ただその日常の関心を失ったため、却って生命に内在する繰り返しの願望が、その機会に露呈するからではあるまいか。

大岡昇平『野火』(新潮文庫)(傍点は原文ママ)

デジャブなんて、日常の経験においては、おもしろいもの以上のものではない。ここでこうなるということがわかっているから、あえてそうではない選択をしたりして、でもその選択さえもデジャブの中に含まれていたりして、不思議なものだなぁ、と考えて終わりである。同席している友人に、この場面デジャブなんだよ、と言ってみたりしても、そうなんや、以上の返答は期待しようもない。でも、『野火』における「私」にとってはそうではない。彼は敗残兵として、命からがら逃げ延びようとしている立場だからだ。だから、彼はそこに「倫理的」な意味を見出そうとする。何度も未来に繰り返したい、という願望が達成されないから、それを過去に投射することで生きようとしているのだ、と己を納得させずにはいない。吉本隆明はこの「私」の解釈を、フロイトとベルクソンを倫理的につなぎ合わせたものだとして一蹴している。

〈既視〉はこのばあいにも、極度の疲労によって対象的判断力が低下し、それにともなって外界への意向を喪失し、同時に視覚的な受容と、受容したものを了解することのあいだに〈距たり〉が生じたために〈私が視たもの〉を、あらためて〈私〉が〈視る〉ということにすぎない。だから主人公の〈私〉の疲労困憊ということのなかにしか病理学上の真実はない。

吉本隆明『共同幻想論』(角川ソフィア文庫)

わたしのかんがえでは、この主人公の解釈はちがっている。疲労によって判断力の時間性が変容したために、感覚的な受容とその了解とが共時的に結びつかないで、いったん受容した光景を、内的にもう一度視るということにしか〈既視〉の本質はないからだ。

(同前)

つまりデジャブとは、普段は同時に起こるはずの見ることとそれを了解することが、疲れによって乖離し、一度見たものを、再度見て了解するということだというのである。異郷の地で命を駆り立てられるようにしてなんとか生き延びているときにデジャブを経験しようとも、それは病理学的にはただ「疲れてますね」というだけのことでしかない。疲れがない状態ならこの病因は解決されるので、デジャブは発生しない。

『野火』の主人公である〈私〉にとって〈既視〉体験は、いわば個人の心に現われる〈幻想〉という意味をもっている。個体はこのとき、すでに過去に視たことのあるものが再現されるすがたを、まったくはじめての心の体験のようなものとしてうけとる。繰返したくさん体験したことを、人間はよりおおく心の経験として保存することが真実だとしたら『野火』の主人公が体験したような〈既視〉は、たくさん繰返されたであろう多数の人間の共同的な幻想を個人幻想として体験するという心的な矛盾の別名にほかならない。だからこそ精神病理学は、〈既視〉という共通の述語で個体をおとずれる心的異常の意味をとらえるのである。

(同前)

さて、そろそろ夜行バスの車内に戻ってこよう。わたしが夜行バスでしばしばデジャブを経験するのは、単に疲れていて、起きているか眠っているかわからないような状態にあるからである。そして、そのような入眠あるいは出眠状態にあっては、今までも夜行バスを繰り返し利用してきた乗客たちの共同的な幻想が、わたし個人の幻想として体験されることがある。誰もが殺伐としたターミナルから乗車し、ときに迷惑な客と隣席になったり、誰のおならか、飲食後の呼気か、足の臭いかもわからぬような異臭とともに夜を越したりしてきたのだ。ぐっすり眠れるときもあればほとんど眠れないときもあり、少し体勢が落ち着いてきて眠りに入ろうとしてはトイレ休憩で起こされ、サイレンの音や光にうなされながら到着を待ってきた。数十人の睡り、あるいは覚醒がひと所に集められては移送される。その数多の乗客たちの幻想を体験していたのだ。

バスに乗る

高速バスの利用者数は平成30年では103,503人である。COVID-19のあおりでか、少し減った年もあるけれど、平成20年からは10万人を超える人たちが毎年高速バスを利用しているのである。もちろん、これには昼行便も含まれているから、夜行バスの利用者はそのうちの何割かだろうが、それでも延べ数万人が乗っているという計算にはなるだろう。そして、わたしもその中のひとりだ。誰かの夢をわたしもまた夢見ながら乗っているのである。

会いたいひとがいるから、行きたい場所があるから、わたしたちは夜行バスに乗る。わたしは次は4月27日に向けて夜行バスに乗る予定だ。ライブに出演予定なのである。

場所は東京・六本木。Electrik神社という地下にあるライブバーでJongleurというイベントに出演する。そこではカホンの演奏と詩の朗読をする予定だ。書き下ろしの詩を2篇用意しています。都合のよい方は是非ともお越しください。愉しい夜になることと思う。

Jongleur Vol.2のフライヤー

(なお、本noteのタイトルはaioa「Butter」の歌詞からとっています。)

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