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三服文学賞の授賞式で和多屋別荘を訪れました

佐賀県に嬉野市という街がある。400年の肥前吉田焼、500年の嬉野茶、1300年の嬉野温泉という、歴史ある文化が共存している内陸の街である。人口は約25,000人。ここは山あいにある盆地であり、まるで器のようだ。このくぼみにすっぽりと収まったが最後、もうここを離れたくなくなるような心地のいい場所である。

第2回三服文学賞で大賞をいただき、その授賞式のために、嬉野の中心地にある和多屋別荘さんにお呼ばれした。授賞式については佐賀新聞さんが記事にしてくださっている。

2泊3日というスケジュールだったが、その期間中たくさんアクティビティを用意していただいていたので、ずっと動き回っていた。大阪に戻ってきて数日になる今、やっと振り返る心持ちになっている。三服文学賞の大賞には副賞として「三服作家」という1年間のライターインレジデンス権が用意されている。この権利は執筆のために活用させていただこうと思っているので、今回はそのための嬉野という街の下見も兼ねている。


well-being

和多屋別荘は「嬉野WELL-BEING」というテーマを掲げており、ここでしか体験することのできないプログラムを展開している。今回はその中から「茶考」「色写経室」「創香室」という3つを体験させていただいた。簡単に説明すると、「茶考」は5種類のお茶を愉しむプログラムで、お菓子や食事はほとんど出されず、お茶を味わうことに主眼が置かれているもの。「色写経室」は、さまざまなインクを好みによって混ぜ合わせて、事前に選ばれた9種類のテクストを書き写すというもの。「創香室」は、天然素材を混ぜ合わせて自分の匂い袋を作ることができるという体験で、作った香りは持ち帰ることができる。参加してみた感想を以下に書き残しておきたい。和多屋別荘を訪れるひとは参加できるはずなので、嬉野旅行の参考にしていただけたら幸いである。

茶考

お茶の栽培をするためにわざわざ東京から嬉野に移住した友人とともに参加した。暗めに調光された部屋のおかげで、お茶を味わうことに集中することができる。ここではお茶の種類や熟成方法、淹れ方等が書かれた紙片を見せられるのだが、それを持ち帰ることはおろか、写真に収めることも禁じられている。だからわたしはそれを思い出しながらこの文章を書いている。5種類のお茶の間には、塩の欠片や梅の砂糖漬け、焼きのりや生チョコレートが提供された。どれもほんの少しなので、集中して味わわざるを得ない。それぞれのお茶がサーブされる合間に小声で友人と会話はしたけれども、この場にいたら、いつものようにしゃべることは似つかわしくないように思われてくる。土井善晴さんは「声に出すと、人間の「ものを味わう」という観察の時間は終わるのです」というが、ここでお茶に集中しようと思ったらどうしても口を噤まずにはいられないと思う。このときは、茶考をわたしたち2人のためだけに開いてくれたということもあって、担当のDさんとはゆっくり会話することができた。この日の晩、和多屋別荘内のDさんが立つバーにも行くことになるのだが、彼とは仲良くなることができて、次、嬉野に来るのが楽しみになっている。そして、大阪に帰ってからも、ペットボトルを買うんじゃなくて、なるべくなら自分でお茶を淹れて飲みたいと思っている。Dさんとの会話で印象的だったのが、お茶を淹れる間に生まれる待ち時間は、日常に余白を生むきっかけになる、というものだ。意識的に気分をリセットさせるのは難しくても、お茶を淹れたら自然と瞑想的な時間が生まれる。そのことを思うと、お茶を淹れるというのは、ただ喉の渇きを潤すための液体を用意する行為ではないということがわかってくる。

色写経室

初日、茶考が終わって色写経室へ。9色のインクを組み合わせて、これまた9種類の文学テクストから1つを選んで「写経」する。わたしが大きく影響を受けている作家の作品も中にはあったが、実際に写経することにした作品は別のものだ。ほぼ即決だった。理由は、そのテクストが「見ず、」で終わっているからである(あるいはこの読点によって始まっているからである)。何の作品かというのはわかるひとにはわかるかもしれない。これから参加される方の楽しみを奪いたくもないので、あえてここでは作品名は伏せておく。この体験も、茶考と同じく、どちらかというと、穏やかなトランス状態、静かな脱自を目指すものであると思う。写経というともとは仏典を書き写すことで、仏典の研究や修行を捗らせるためのものであった。つまり、あくまで参照できるテクストの物理的な数を増やすための手段であった。しかしながら写経にはそれ自体が催す作用というものがある。実際にテクストを書き写すということをやってみたことのあるひとはわかると思うが、その内容の理解が格段に深まる。筆者よりも筆者になることだと言ってもいいかもしれない。わたしにも読んだ本から抜粋して書き溜めておくためのノートがあるが、そこに書き写すことで、文章がわたしに、あるいはわたしが文章に受肉していく。吉増剛造さんも文章を写経していたことがあったと思うけれども、写経は、他なるものの声を聴こうとするときに、あるいはある種の「イタコ」として他なるものの声を代弁しようとするときに、その、他なるものを出来させるための技術でもあるのだろう。写経することでわたしは、わたしから、すこしだけ、遊離していたような気がする。

創香室

嬉野2日目、授賞式のあと、夕方ごろから創香室を体験させてもらった。担当は色写経室でもお世話になったHさん。絹のように物腰のやわらかな方である。創香室では、調香師・堀田龍志さんが開発したレシピをもとに、天然素材の香原料とオイルを混ぜ合わせることで、オリジナルの匂い袋を作ることができるというもの。用意された5種類のレシピは、一日の時間の経過にもなぞらえられている。わたしはなんとなく「夜」の気分だったのでMoon Jazzをベースにすることにした。丁子(クローブ)の香りが好きなのでこれを多めにし、せっかく嬉野にいるからと煎茶も少し加えた。すり鉢でゴリゴリすり砕いていくと、だんだんと材料が混ざった匂いが立ち昇ってくる。もうこれでよい、というタイミングでHさんに渡して封をしてもらって完成。香りが強く出てくるまで2日ほどかかるらしい。大阪に戻ってきた今は、名刺入れに忍ばせている。わたしは香水が好きで、お気に入りのものを気分や時間帯によって使い分けているが、香りを作るという体験をしたのは初めてだった。レシピとは、これらを混ぜ合わせたらよい、という積極的な意味合いと同時に、ここに書かれていないものは入れない方がよい、というネガティブな意志をも含みもっているものである。だからわたしは、レシピを逸脱するのにはかなり慎重になってしまったし、Hさんにも、これを入れようと思うんですがどうでしょうか、と何度も尋ねながら作らせてもらった。料理だと足し算の美学で、ある程度旨いものは作れるかもしれないが、香りの場合は、旨み成分を重ね合わせていくというよりは、何を差し引くことで何を際立たせるか、という絶妙なバランス、たとえるならゼロサムゲームの中で均衡を得るポイントを探すという機微が必要になってくるのだろう。

being

beingにwellがついたり、あるいはその逆でill-beingなんてのを考えてもいいんだけれども、いずれにせよ、ただあるということに「よい」「わるい」という形容がなされるのは人間だけである。動物や植物のような生き物を考えてみても、それらの生物たちはただあることに安住している。その生が脅かされたり、逆にどこまでも肥えたり、繁っていったりすることはあるにしても、そこに善悪という価値は生まれない。well-beingもill-beingも、極めて人間的な表現だ。よくありたいと思っているからといってよくあれるわけでもないだろうが、どうせあるならよくありたいと思うのは人間の性だろう。わたしにもそういった価値の傾斜はある。つまりそれは五感のバランスを取り直すということであって、葦田不見と命名したときから、視覚優位、可視主義への抵抗ということを考えていた。今は眼が、見るという機能が肥大しすぎている。見ることの限度を知るということが、今日における、よいあり方(well-being)ではないかと思っている。そして、これは和多屋別荘の嬉野WELL-BEINGとも響きあうように思う。茶考は味覚に、創香室は嗅覚にバランスの比重を傾けるということであろうし、色写経室も、目で読むということから、体で書いて読むということへの、つまりは視覚から触覚、体性感覚への重心の移動だということができると思う。これはある意味、当然のことでもあろう。和多屋別荘のような旅館に行くということは、来訪者はいつもの生活からの束の間の脱却を期待しているわけで、あれも見てこれも見なきゃいけないというようないつもの状態から身をほどきたいひとたちにとって、wellなあり方とは、一時的とはいえ、目を閉ざすこと、見ないことだからだ(スマホを閉じろ!)。わたしも3種類の体験を経て、一時的に身体のバランスを取り直すことができたように感じた。そして、これは観念ではなく、実践としてなされないといけない、なされつづけないといけないことなのだということを再認識した。

三服文学賞の授賞式

嬉野滞在の2日目、11時から第2回三服文学賞の授賞式があった。そこでわたしは受賞作であるエッセイ「水のからだ」を朗読させてもらった。その様子は以下のInstagramのライブアーカイブから視聴することができるので、是非とも見てほしい。

今回書いたエッセイは、ひとの営みを、器を行き来する水にたとえたものである。器自体も変化の渦中にあるという意味で、水一元論ということができるかもしれない。さて、そんなエッセイを読むわたしという器も、声という形で何らかの「液体」を発しており、それが聞いてくださった方のうちに着水して、波紋を拡げていくというふうに言えるのだろう。そしてこの朗読が行われているのも、和多屋別荘という2万坪の敷地を持った旅館という器であるし、わたしたちは入れ子状になった器をあっちからこっちへ、こっちからあっちへと飛び跳ねていく融通無碍な水の戯れである。ニーチェやバタイユなら、そこに「力」を見たのかもしれないが、わたしにはそれが水に、見ずに見えていたのだった。

さいごに

嬉野がどんなにいい場所か、ということを語るには、わたしはあまりに早足で過ごしすぎたかもしれない。もっと長居してはじめて嬉野という地に惚れたと述べることが許されるのだろう。本当はまだ書き足りない。初日に寄った居酒屋で食べたカワハギとイカの刺身が格別に美味しかったことや、和多屋別荘の露天風呂で雨に打たれながら入った温泉が至福だったこと、ずっと眠っていたくなるような心地のよい客室のこと、選書の素晴らしい本屋「BOOKS&TEA 三服」のこと、歩いているだけで愉しい和多屋別荘のつくりのことなんかを書きたいのだけれど、それはもう行ったひとだけが味わえばよいことなのかもしれない。わたしは擱筆すべきだろう。

授賞式が終わり、ライターインレジデンスの権利がもらえる1年が始まった。本格的に滞在制作するのは来年からになるだろうが、早くも嬉野という深い器のような地に戻りたい気持ちである。


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