資本主義とトランス/アイデンティティ(1)頑張らなくていいよ、と言えない世界で

 こんばんは。夜のそらです。
 非常に体調が悪く、少しのあいだ入院して、また退院して戻ってきました。病院という場所ではたらく独特のジェンダーの空気については、また書ければと思います。

 この記事では、まだ書く内容を頭で整理できません。書きたいことは、資本主義的な社会を生きることと、トランス(非シス)として生きることのあいだの関係についてです。分量が多くなったので、前半(1)と後半(2)に分けて書くことにしました。この記事は、前半です。

1.ゆりりんさんの動画

 はじめに、1つの動画の紹介させてください。3分ちょっとの動画なので、ぜひ全体を見てほしいです。

 動画は、ゆりりんさん。ご本人は「ニューハーフ」という名称を使ってご自身のことを自己紹介しておられます。
 最初にこの動画を観たとき、わたしは0:50あたりから、涙が止まらなくなりました。ほんとうに涙が枯れるほど泣きました。そのあと、何回も何回もこの動画を観ました。みなさんにも動画を観てほしいです。でも、言葉でも紹介したいので、50秒あたりからの、ゆりりんさんの言葉を書き起こします。

16歳の時に、わたしは、大きな決断をしました。
自分の身体は男の子だけど、 女の子として、 生きていく、生活していく。そう決断して、  24年、、24歳に、いま、なりました。
なりました? 11月4日で24歳になることができました。
でもいますごい、なんだろう…  悩んでて、色んなことを悩んでて…。
正直…、うーん、、消えたら楽なのかな?って思うときもあります。

でも、みんなに心配かけちゃうし、みんなもつらいことあるよ?って、
もっと貧しい人もいるんだよ?って、言われます。

でもわたしは………… 今まで、頑張ってきたつもりです。

でも、まだまだ頑張りが足りない、、、…かな?
だから絶対に、わたしは負けません。だからみんなも、、負けないで、戦っていこうね。絶対負けないで、戦っていこう。
ありがとう。、またね。  (上のURLの動画より)

ゆりりんさんは、とても優しい方です。お友達が生活保護の申請するのを手伝ったり、その友達の精神疾患のことを不動産屋さんが馬鹿にしたりするのに怒ったりする方です。

でも、優しいゆりりんさんでも、そしてもしかしたら、優しいゆりりんさんだからこそ、沢山つらい思いもしてきた/しているのだとも思います。チャンネルを観ればわかりますが、先々月には自殺未遂もされています。上の動画でも、ゆりりんさんは「消えた方が楽なのかな」と言っています。

でも、そういう希死念慮の気持ちに対して、周りの人から向けられた言葉があった、とも紹介しています。
「もっと辛い人もいるよ」、「もっと貧しい人もいるよ」。
それはつまり、「もっと頑張りなよ」という言葉です。

ゆりりんさんはそれに対して、「わたしは、頑張ってきたつもりです」と泣きながら応えています。

わたしはこの箇所で、涙が止まらなくなりました。
そして真っ先に、「もう頑張らないで。頑張らなくていいよ」という風に感じました。もう、これまできっと信じられないくらい頑張ってきたんだろうから、もう頑張らないで、と思いました。

ゆりりんさんが何を「頑張ら」ないといけなかったのか、わたしには詳しく分かりません。トランスのことかもしれないし、仕事のことや、住まいのこと、家族のことかもしれません。もしかしたら、その全部かもしれませんし、それらのことが複雑に絡まっているのかもしれません。
でも、泣きながら「頑張ってきたつもりです」と、言わないといけない状況にゆりりんさんがいることが、わたしは辛くて仕方がありませんでした。

もう頑張らなくていいよ、と心から思いました。Youtubeの動画のコメント欄にもそうコメントしようと、何度も思いました。

でも、すぐにこうも感じました。
「頑張らないで」と言うことも、わたしにはできない。頑張らないと生きていけない世界で、頑張って生きていこうとしている人に、「頑張らないで」なんて言えない――。だって、頑張らないと生きていけないのだから。

2.頑張らなくても生きていける世界へ

 頑張らないと生きていけない世界なんて、本当は嫌です。そもそも、頑張ったら結果が付いてくる、という発想自体が、マジョリティ的だと感じます。頑張って結果を出すという競争・ゲームは、すごく不公平に運用されているからです。頑張っても結果が返ってこないように、不平等な扱いを受けている人々がおり、そもそも「頑張る」ためのスタートラインにつくことのできる人は、恵まれた人々だけです。
 女子大の医学部の入試差別は、頑張っても結果が不公平にリターンされる、そういう差別の例だと思います。それだけでなく、そもそも「女子は勉強なんてできても意味がない」といったような差別的な刷り込みも、今の社会にはまだまだあります。「頑張る」ゲームに参加できるような自信や自己肯定感、自分の能力への信頼感を持っていることは、それだけですでに社会の中で特権を持っていることなのです。
 受験競争という話で言えば、ジェンダーだけでなく、お金のある家に生まれたか、貧しい家に生まれたか、という貧富の差も、大きく関与しています。私立の学校や塾に通うなんて想像もできないような経済状況にある人と、そういうものにアクセスできる人がいて、そこに「公平=フェアな」競争が存在するはずがありません。
 それだけでなく、受験競争に限らず、そもそも「頑張る」ことで得た結果(だけ)がその人のものである、という発想が、とても能力主義的で、最悪だと思います。さっき見たように、能力を発揮できる環境が与えられていない人や、能力を持っていてもリターンを得られない人がいるのは、不公平で差別的だとは思います。でも、もし世の中の「頑張りゲーム」が公平で、フェアな競争になっていったとしても、やっぱり「頑張って結果を出した人だけがよい人生を送れる」というゲーム自体が、わたしは嫌です。どれだけ競争のルールを公平化したとしても、個々人のもつ能力は絶対に公平にはなりえないし、能力が高い人と、能力が低い人のあいだで人間としての価値が違っているという考え方が、そもそも嫌です。
 そして何より、頑張った人が報われるというキラキラの世界は、実は膨大な搾取によって成立しています。一人一人が、それぞれの場所で「頑張る」とき、その一人一人の「頑張り」によって一番利益を受けているのは、社会の中でごく僅かな人です。一人一人の労働者が「頑張」って、その報酬を受けとって、それは正当な報酬に見えるけれど、そこで生み出されたものの少なくない部分が、巡り巡って大企業の資本家たちにかすめ取られています。でないと、彼らの資産がこんなに意味不明なまでに膨らんでいるはずがありません。個々人が「頑張る」ことは、それ自体では美徳に見えます。でも、「頑張る」ことをよしとする倫理のロジックは、労働者たちを「頑張らせる」ことで利益を得ている、資本主義社会の特権階級の人々にもっとも都合のよい倫理でもあります。わたしは、そんなものを肯定したくありません。
 頑張った人が報われる世界。それは、不平等で不公平なルールが支配している現状の世界よりも、確かによい世界だと思います。でもそれは、わたしにとっての理想の世界ではありません。わたしは、「頑張った人が公平に報われる世界」よりも、「頑張らなくても生きていける世界」に住みたいです。能力の有無や、頑張るという努力の有無、そんなもので人間が切り刻まれて、命や生活を値踏みされて、その個々人の「頑張り」を利用して一部の人たちが集中的に富を貯めこむ世界なんて、わたしは嫌です。

3.頑張る以外に生きる術がない

 でも、今の世界は、そんな世界でしかありません。頑張らなくても生きていける世界はおろか、頑張った人が公平に報われる世界すら、夢物語に見えます。冷戦後の世界しか生きていないわたしには、資本主義社会とは別の世界をイメージすることすら、できません。
 それに、こうして「頑張ること」が求められる世界をこれだけ嫌いながらも、自分の人生を振り返ったとき、わたしは「頑張り」続けてきた、という風に反省せざるを得ません。
 わたしは東京や大阪から遠く離れた地方に生まれ、育ちました。ブログで何度も書いてきたように、そこは、わたしの生きる場所ではありませんでした。だからわたしは、頑張って勉強して県外の大学に進学しました。自分の地元からすれば、かなり「偏差値の高い」大学でした。当時のわたしは、貧乏な家に生まれたことを呪い、裕福な家に生まれて塾や予備校、私学に行ける他の受験生たち、模擬試験を受けられる受験生たちを恨んでいました。こんなの平等なルールじゃない、ずるい、と感じていました。(そもそも、わたしの家は「勉強をする」ということ自体が疎まれ、馬鹿にされる場所でした。そして、「勉強ができる」ことで父からは頻繁に悪態を吐かれました。学校の勉強ができたって社会で何の役にも立たない、本当に大切なことは学校では勉強できない、勉強ができない奴の方が本質的には賢い、お前も勉強する暇があれば働いて金になることをしろ、と絶えず絶えず言われました。島田紳助的な世界観と言えば伝わる人には伝わるでしょうか。)
 でも、そんな環境でも「頑張る」ことができたのは、わたしの特権でした。わたしが女性として生きていれば、わたしはそこまで頑張れなかったかもしれませんし、そもそもわたしの勉学の能力の大部分は生まれついた才能によるものです。それに加えて、大学に進学・卒業したことで、社会の中での特権を新たに持つことになりました。わたしは頑張って地元を離れ、頑張って「よい大学」に進学し、頑張って東京に拠点を移したことで、東京で働いて生きることができるようになりました。でもその過程で、わたしは頑張って頑張って、既存の不公正な世界のなかでの特権を使ったり、特権を新たに得たりして、生きています。

 それでも、、、、、では、わたしはどうしたらよかったのでしょうか。どうしたらよかったのでしょうか。あんな地元で、わたしは生きていくことなんてできません。AセクでAジェンダーで、ジェンダー表現が安定しない人間なんて、あんな場所では生きていけません。わたしのいとこは5人くらいいるけれど、みんな結婚して子どもがいます。そんな場所で、生きていくことなんてできません。

 わたしは、大学進学後も頑張り続けました。学費を払うために居酒屋でひたすらバイトをして、体調を崩して飲食をやめたあとは、道徳的にあまり褒められたことではない仕事を引き受けて食べ繋いでいました。家賃が払えなったときは、大学近くのレンタルボックスに全ての持ち物を入れて、色々な場所を転々としながら寝泊まりしました。仕事の忙しい人の家に、全ての家事をする代わりに泊めてもらっていながら卒業論文を書きました。就職してからも、東京で生き続けていくために頑張って働きました。
 頑張らないと生きていけない世界なんて、嫌です。頑張った人が報われる世界と言ったって、不公正と差別が満ち溢れています。頑張った「成果」が独り占めされるという発想自体、そもそも嫌いです。でもわたしは、頑張る以外に生きる術がありませんでした。頑張って頑張って頑張り続けること以外に、生きていく方法があったように思えません。頑張れること自体が特権なのはわかります。頑張った「成果」と称して、わたしが特権を持っていることも認めます。わたしのようには「頑張れ」ない人がいることだって、知っています。でも、わたしには頑張る以外に道がありませんでした。誰も、わたしを助けてくれなかったし、誰も、頑張る以外に生き延びる術があるなんてことは教えてくれませんでした。わたしには、何もしなくても存在を受け入れてくれる「家族」がいません。頑張らなくても生きていける場所が、ありません。地元を離れて、東京で生きていくしか、わたしには選択肢がありませんでした。でも東京に出るためには、わたしは頑張るしかなかったし、東京で生き続けるには頑張るしかありません。頑張って勉強して、頑張って働いて、頑張って貯金していたおかげで、わたしはいまなんとか(休職中ですが)生きています。

 どうしたらよかったのでしょうか。頑張り続けてきたわたしは。そして、上で紹介した動画のゆりりんさんは。これまでのわたしと、ゆりりんさんに、なんて声をかけたらいいのでしょうか。

「頑張らなくてもいいよ」と言うべきなのでしょうか。「頑張れるのも特権だよ」と言うべきなのでしょうか。

 個人がバラバラに切断されて、個人の「能力」と「頑張り」によってその人が評価され、競争されて、そのなかで大企業のトップだけがひたすら富を貯めこんでいく。そういうネオリベララルな資本主義社会なんて、わたしは滅びてほしいです。でも、頑張っていくしか生きていく術がないマイノリティは、そのなかで頑張ることで、何とか命をつないでいます。
 頑張ることがよいことだ、とは全く思いません。でも、頑張ることでしか生き延びる術がないマイノリティに、「頑張らなくてもいいよ」とは、わたしは言えません。「この不正な社会の中で頑張るべきではないよ」とも、わたしは言えません。頑張るしか生きる術がない、そう思わされていること自体、本当に嫌ですが、でも、実際に頑張るしか生きる術がない人が、世の中にはいるのです。

 ゆりりんさんは、目からあふれそうなほど涙をためて「でもわたしは今まで、頑張ってきたつもりです。」と言ったあと、「でも、まだまだ頑張りが足りない…かな?」と言っています。
 ゆりりんさんが頑張らないといけない世界が、わたしは憎いです。ここまで頑張っても、それでもなお「まだ頑張りが足りないかな」とゆりりんさんに言わせている世界が、憎くて仕方ありません。
 でもわたしは、「頑張らないでいいよ」とは言えません。わたしは、ゆりりんさんに何ていったらよいのか、わかりません。上の動画にも、コメントしようとずっと思っていますが、いまだにできていません。

4.頑張って世界を変える?

 ゆりりんさんは動画で、「まだ頑張りが足りない…かな?」と言った後に、次のように言っています。

だから絶対に、わたしは負けません。だからみんなも、、負けないで、戦っていこうね。絶対負けないで、戦っていこう。

頑張らないと生きていけない世界で。
生きていくことがそれだけで「戦い」になってしまう世界で。
絶えず戦っていないと生きていけない世界で。
ゆりりんさんは「負けない」と言っています。そして、動画を観ている私たちに、「負けないで、戦っていこう」と言います。

トランスジェンダーの存在が「いないこと」になっている世界で、頑張って生きていくこと。それだけで、それは戦いになってしまいます。そうしてトランスたちが生きて、生き延びて、戦っていけば、世界はもう少しだけよくなるのかもしれません。

わたしは、頑張る以外に生きる術がないマイノリティが少しでも減るように、そんな世界を望んでいます。
でも、そんな世界を作るために、私たちは頑張らないといけないのかもしれません。頑張って生きて、戦わないと、頑張らなくても生きていける世界は来ないのかもしれません。

でも、そんな皮肉ってあるでしょうか。頑張って頑張る以外に生きる術がない世界を変えるために、頑張り続けないといけないなんて。頑張らないと生きていけない世界で、まだ、もっと、頑張らないといけないなんて。

わたしはまだ、ゆりりんさんの動画になんとコメントしたらいいのか分かりません。

※後半(2)も書きました。続きなのでよろしければお読みください。