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U.S.ラディカルフェミニズム運動を語ることの難しさ

 こんばんは。夜のそらです。
 以前よりお伝えしていた通り、この投稿から、アメリカで1960年代後半から1970年代前半にかけて花開いたラディカルフェミニズム運動について書いていこうと思います。わたしがU.S.のラディカルフェミニズム運動に関心をもった経緯と、この連載で目指していくことについては、こちらの記事に書いたので、お時間のある方はご覧ください。

【警告】アンチフェミ男性やTERF(トランス女性を差別するフェミニスト自認者)が、この記事を読んだり、記事のリンクを共有することを禁止します。速やかにここを立ち去りなさい。恥を知れ。

1.どれがその「運動」なのか?

 さて、この最初の投稿では、ラディカルフェミニズム運動全般について、その全体的な姿をお伝えしようと考えていました。しかし、調べていくにつれて分かったことですが、「ラディカルフェミニズム運動」の全体像を語ることは、非常に難しいということが、すぐに分かりました。
 というのも、この運動を担っていたフェミニスト運動体はいくつもあり、それらの多くは、数年も活動しないうちに活動を終息させる短命のものばかりだったからです。実際、1967年から1973年ごろの、ラディカルフェミニズム運動の時代とされるその数年間だけを見ても、そこで一貫して活動し続けていた団体はありません(※ボストンのCell 16がその唯一の例外かもしれませんが、この団体はニューヨークで活動していた諸団体とは明らかに異なる方向性を持っており、運動の主流とはとても呼べません。実際、日本でCell 16の名前を知っている人は殆どいないでしょう)。そのため、「アメリカのラディカルフェミニズム運動」を代表できるような、ただ1つの団体は存在していないのです。
 それどころか、その「ラディカルフェミニズム運動」を担っていた運動体は、お互いに全く違う考え方を持っていることもあり、互いをライバル視・敵対視することもあったようです。つまり、「ラディカルフェミニズム運動」と一言で言っても、そこには全く思想の異なる団体がたくさん含まれており、いったい何を見れば「ラディカルフェミニズム運動」を理解したことになるのか、よく分からないのです。むしろ、ラディカルフェミニズム運動と最も対立していたのはラディカルフェミニズム運動自身だった、とすら言える気がします。

 加えて、同じ1つの運動体でも、創設者だった主要メンバーが半年くらいで抜けて新しい団体を創ったり、リーダーシップを握っていた人が追い出されて運動体が以前とは全く異なる方向を向き始めたり、といったこともありました。つまり、ある運動体1つをとっても、その思想やスタイルを断定的に語ることは難しいことが多いです(先に触れたCell 16は、活動期間こそ例外的にやや長いですが、時期によって思想はかなり変化しています)。
 そういうわけで、「アメリカのラディカルフェミニズム運動」について、何か全体的な傾向を指摘したり、シンプルに総括したり、といったことは極めて困難です。良くも悪くも、それは後の時代の解釈者による、一種の強引なまとめになってしまいます。(もちろんわたしも例外ではありません)
 さらに悪いことに、このラディカルフェミニズム運動は、リベラルフェミニズム運動などと一緒に「第二派フェミニズム(second wave feminism)」の一部とされているのですが、そこまで大きなくくりになってしまうと、もはや何が何だか分からなくなってしまいます。わたしは、色々な運動体について調べていくのと並行して、「ラディカルフェミニズム運動」や「第二派フェミニズム」についての文章もいくつか読んだのですが、運動体ごとの違いが無視されていたり、非常にとっつきやすい シュラミス・ファイアストーン(Shulamith Firestone)の思想だけが「ラディカルフェミニズムの思想」として紹介されていることも多く、フラストレーションがたまりました。

2.単純化を許さない「運動」

 こうした「ラディカルフェミニズム運動」について語ることの難しさは、それについての「よくある説明」が不正確さを含んでいるということにも表れています。
 これは、ラディカルフェミニズム運動についてときどき見かける説明の1つなのですが、1960年代後半~1970年代前半のラディカルフェミニズム運動は、「リベラルフェミニズムと対抗し、文化派フェミニズムを準備した」、と総括されることがあります。しかし、この総括は様々な点で不十分だとわたしは思います。

3.リベラルVSラディカル

 まず、リベラルVSラディカルという対立軸は、確かに運動の当事者であった女性たちにも意識されていた面もありますが、事態を矮小化し過ぎています。というのも、そもそもラディカルフェミニズム運動はリベラルフェミズムに対する対抗として、そこから生まれた運動ではなく、その出身地は新左翼運動にあるからです。むしろ、NOW(全米女性機構)を代表とするリベラルフェミニスト団体と、ラディカルフェミニストたちは、中絶の制限撤廃(改訂)やERA(男女平等を定める憲法の修正条項)達成のための運動では、しばしば共闘することもありました。さらに、ラディカルフェミニズム運動は総じて「性役割」の根絶を目指し、とりわけ家庭内での不平等を問題視しましたが、それは、NOWのトップでありリベラルフェミニストの大御所であったベティ・フリーダンが『女性の神話』で問題提起したことの一部に他なりませんでした。実際、ラディカルフェミニズム運動のなかで異色の存在感を放ったアトキンスン(Ti-Grace Atkinson)を女性解放運動に本格的に招き入れたのも、このフリーダンです。アトキンスンは間もなくフリーダン(とNOW)の元を離れていきますが、おそらくアトキンスン自身の意識としては、フリーダンに期待したフェミニズムが十分にフェミニズム的でなかったために、NOWを去ったのではないかと思います。つまり、「ラディカルフェミニストとして」のアトキンスンは、「リベラルフェミニストとして」のアトキンスンの延長線上にいるということです。
 以上の諸々の事情から、両者に必要以上に断絶を認めることには慎重であるべきかな、と個人的には思います。

4.ラディカルVS新左翼

 さらに、この「ラディカルVSリベラル」という対立軸は、ラディカルフェミニズム運動が対峙していたその他の対立軸を見えなくしてしまいます。それは、1960年代に大きく進展した、新左翼運動との対峙です。先ほど、ラディカルフェミニズムの出身地は新左翼運動にある、と書きましたが、もちろんラディカルフェミニズム運動に参加した全ての女性が、新左翼運動の出身であるわけではありません。むしろ社会運動の経験のない(カッコつき)「ふつうの主婦」が多く参加したことにこそ、この運動の新しさがあったともいえます。しかし、日本のウーマンリブが新左翼運動を支配する男性中心主義(女性蔑視)からの決別を通して誕生したように、当時のアメリカの新左翼運動に満ち満ちていた男性中心主義は、運動内の女性たちや、運動に共感する女性たちをいらだたせ、女性たちだけの/女性たちのための運動が必要である、という考えを女性たちに抱かせることになりました。
 新左翼の男性たちも、社会の中で女性たちが不遇を被っていることを「理解」してはいました。しかし、彼らの論理によれば、まず大切なのは資本主義の打倒でした。というのも、女性が抑圧されている状況は、資本主義という巨大な問題――そしてそれと結びついた、軍事介入主義を採用するアメリカの政治体制――から生まれ出た【副次的な問題】であり、そのため資本主義的な経済体制を変革(or打倒)すればその問題は自動的に解消されるだろうと、彼らは考えたからです。結果として、女性差別をこのように【副次的な問題】として扱う彼らの態度は、運動の中でエネルギーを蓄えた女性たちの怒りにますます火を点けることになりました。※新左翼運動内で女性差別がトピックとして採り上げられることもありましたが、それはむしろ女性たちを運動から独立させる原動力になりました。

5.ラディカルVSポリティコ

 関連して、ラディカルフェミニズム運動を語るうえで欠かせないのが、Politico(ポリティコ)と呼ばれていた勢力との対峙です。当時の代表的なPolitico運動体であるW.I.T.C.H.がニューヨーク・ラディカル・ウーマン(NYRW)から派生して誕生したように、Politico勢力の女性は、ラディカルフェミニズム運動の初期に分類される運動体のなかにも混在していました。しかし、最終的にPolitico女性たちは「ラディカルフェミニズム」と別の道を歩んだ、というのが現在の歴史的総括では一般的になっているようです。
 Politicoの女性たちは、新左翼運動が男性中心的であることを認め、女性たちだけの運動が必要であるということにもおそらく同意していました。しかし、その女性の運動はあくまでもニューレフトのウィング(新左翼)のなかの一翼に留まるべきだ、とも考えていました。Politicoの女性たちにとって、資本主義がもたらす女性たちの抑圧の存在は「女性にとって」無視できない問題であり、資本主義的な政治=経済体制を変えていくこと、つまり文字通りの意味で「政治を変えること」が、重要な課題だったのです。
 対して、いわゆる「ラディカルフェミニズム運動」を「ラディカル」にしたのは、まさにそのような考え方を捨て去ることによって、でした。つまり、女性の抑圧を【資本主義という根から派生した副次的な問題】とは捉えず、また【資本主義という巨大な幹につながった問題】とも捉えず、それ自体で独立した問題として、女性たちは女性差別を認識したのです。
 それどころか、当時のラディカルフェミニズム運動のなかでは、【女性差別こそがあらゆる問題の根っこ】だ、という発想が積極的に示されました。あらゆる問題の根っこ、あらゆる権力の不均衡の根っこ、あらゆる人間の抑圧の問題の根っこには、男性による女性支配=男性優位体制(male supremacy)が存在する。これが、ラディカルフェミニズム運動を「ラディカル」たらしめていた大きな理由です。よく知られているように、「急進的」であることを意味する英語の「radical」の語源は「roots(根っこ)」です。社会の問題の根っこを、根こそぎ変革する。それが、彼女たちの運動でした。
 両者のスタンスの違いが決定的となったのは、ベトナム反戦運動が展開された時でした。1968年、反戦運動に連なる女性たちが集まり、戦争の停止を求めるデモが連邦議会に向けて行われました。しかしラディカルな女性たちは、それが「平和的で慈悲深い女性」という、伝統的な女性観を無批判に踏襲しているとして強く抗議し、カウンターのデモ「伝統的女性のお葬式」を行いました。また、ラディカルな女性たちには、男たちの政治の中心地である議会へと視線を向けるそのような運動は、男性中心主義的な「大文字の政治」への期待を残した、不徹底なものと映りました。対して、ポリティコ女性たちには、このラディカル女性たちのカウンターは不可解で無意味なものでした。議会政治を正しい方向に変えなければならないときに何をしているんだ、という風に受け止められたのです。
 こうしたポリティコとラディカルの対立は、ニューヨークやボストン、シカゴなど各地で顕在化しました。新左翼運動と協調し、議会政治の改良と経済体制の大幅な変革を目指す女性たちと、【あらゆる問題の根っこ】である男性優位体制(male supremacy)を唯一にして最大のターゲットに見定めるラディカル女性たちの決別は、こうして1968年ごろには決定的なものとなりました。

6.文化派フェミニズム 

 文化派フェミニズム(cultural feminism)について聞いたことのある方は、あまり多くないと思います。それもそのはず、このフェミニズムの潮流は、現在は「失敗したフェミニズム」として否定的に語られることが多く、肯定的に紹介されることはあまりないからです。歴史上の失敗として、反面教師にするか、歴史の闇に埋めておこう、という感じの説明が多いです。

そのため、わたしがこれから簡単に書く「文化派フェミニズム」の紹介は、運動の当事者の方にとっては、侮辱的だったり、公平性を欠くものになってしまうと思います(実際、わたしは文化派的フェミニズムの思想にまったく賛同できないと思いながらこの記事を書いています)。また、「ラディカルフェミニズム運動」と同様、文化派フェミニズムにも多様性があると思います。その点はわたしには分かりません。以上の2点を、あらかじめお詫び申し上げます。

 文化派フェミニズムとは、男性と女性の間にはそもそも「本性として」差異がある、女性は男性とは異なる「文化」をもつ生き物なのだ、という主張を基礎にしています。さきほど「男性優位体制」について触れましたが、文化派フェミニズムの主張をカリカチュアライズするなら、男性が女性たちを色々な面で支配・搾取しているのは、男性がそもそも暴力的で、権力が好きで、自然を破壊しても平気で、思いやりがないから、ということになります。男性とはそういう生き物なのです。対して、女性はそもそも思いやりがあり、平和を好み、自然を愛し、温和です。そんな両者が出会うとどうなるでしょう?どうしても、男性による女性支配が現れてしまいますよね。
 このように、男性と女性は本性的に違う生き物であり、男性が女性と違って暴力的で権力を好むから、現在のような暴力的な女性差別が存在しているのだ、と文化派フェミニズムは考えます。
 対して、女性のもつ本性(nature=自然的素質)はとても優れており、これを開花させることが社会と世界にとって必要なことだ、という主張も文化派フェミニズムからは導かれます。例えば、日本に文化派フェミニズムが出現したとき、それはエコ・フェミニズムという形を取りました。近代的な産業社会は、自然を壊し、人工的な化合物によって、人間の健康を害する。女性たちは、日々の生活の中で土に触れ、ごみを触り、幼い子どもを育て、命と自然の機微に触れている。その女性たちこそが、産業社会の問題に気づき、それを改善することのできる特別な存在だ、と考えられたのです。
 このように文化派フェミニズムは、「文化(culture)」というその名に反して、非常に自然(nature)主義的な側面をもっていました。男性には男性の本性(nature)がある、女性には女性の本性がある、と考えられていたのです。なお、文化派フェミニズムの中では、この「本性」は「原理」とも呼ばれました。男性原理、女性原理、といった感じです。
 文化派フェミニズムのもつ、この自然主義的な側面は、その「男性の本性」の原因を「男性身体」の特定の器官に求めたり、「女性の本性」の原因を「女性身体」の特定の器官に求めたりするという発想とも簡単に接続していきました。男性と女性は、あたかも、生まれながらに違う生き物だ、ということが主張されたのです。

 ここまで読んで、不安に思う方は多いと思います。まず、「それってフェミニズムなの?」という不安があると思います。「女性原理」とか「女性の本性」とか、それってフェミニズムが打破しようとしてきた「女性らしさ」と何が違うのでしょうか。実際、「平和的」とか「思いやりがある」などの女性原理は、女性性のステロタイプをなぞっただけのようにも見えます。もちろん、これまで価値を貶められてきたマイノリティの文化や価値観に積極性を見出すのは大切なことだと思います。それでも、文化派フェミニズムの主張は、女性差別に無防備に加担してしまいそうな気配があります。(このあたりは、江原由美子先生(大ファンです)からの厳しいエコフェミ批判などが日本にもあります)

 第二の不安は、「それってトランス女性を差別する論理になってしまうんじゃない?」という不安があると思います。実際に、その通りだと思います。現在では、トランス女性を差別する/排斥するフェミニストはTERFと呼ばれており、そこにはRadical Feministの文字が含まれているのですが、TERF的なロジックは、文化派フェミニズムの「自然主義=身体主義」と相性がよい側面があり、「現代のTERFの源流は文化派フェミニズムにある」と考える人も一定数いるようです。実際、男性らしさ(にまとめられる攻撃性など)を特定の身体の器官や遺伝子の集合に結び付けることで、トランス女性のことを攻撃的・侵略的な存在として表象すること(――トランス女性を差別するためならこんな馬鹿馬鹿しいこともTERFはします――)とか、トランス女性は「女性身体」を共有していないのだから「女性」ではないと主張すること(――性別が社会の中でどんな風に機能しているのかまるで分かっていない人がトランス女性を差別していることが分かります――)とかのTERF的なロジックは、文化派的な主張と相性がよいです。ちなみに、文化派フェミニズムに属する女性たちは、自分たちのことをしばしば「ラディカルフェミニスト」と呼称します。

7.文化派フェミニズムとラディカルフェミニズム運動

 さて、前置きが長くなりましたが、わたしの問題は、この文化派フェミニズムと、(ボストンやニューヨークで1967~1973年に花開いた)ラディカルフェミニズム運動の関係でした。
 まず、文化派フェミニズムの「誕生」について言うと、この潮流が「いつ」生まれ、「いつまで」続いたのかは、あまり明確には定まっていないのではないかと思います(不勉強だったらすみません)。ただし、ラディカルフェミニズム運動が1970年代前半に急速に衰退したのち、一部のフェミニスト女性たちが文化派フェミニズムに流れていった、というのは、事実の一端を言い当ててはいるのかもしれません。(数量的なことは分かりません)

 ただし、最初に書いたように、「ラディカルフェミニズム運動が文化派フェミニズムを準備した」というのは、2つの点で誤解を招く表現になっているように思います。
 第一に、ラディカルフェミニズム運動においては、文化派フェミニズムとは真逆の主張を掲げている人が多数派であり、両者は到底相容れないものだからです。詳しくは次回以降の記事で確認したいですが、ラディカルフェミニズム運動において問題視された「男性優位体制=女性支配」は、性別ごとの役割(sex role(※ジェンダーロール))によって自らを強化していると、考えられていました。そのため、女性の抑圧を解くために必要なのは、その性役割システムを破壊することでした。これは、当時のラディカルフェミニズム運動のほぼ中核にある考えだと思います。問題は抑圧的なシステムであり、性役割のシステムを破壊すべきだ、ということです。
 そのとき、性別を弁別しつつ役割を紐づける「システム」の外部に「女性本性」がある、などと想定する必要はありませんでした。ましてや、女性や男性の身体の部位や遺伝子がそのシステムを必然的に生み出しているなどと、主張する必要もありませんでした。システムが現実に機能しており、男性たちがそのシステムから利益を得て、女性たちを抑圧しているのなら、システムの破壊こそが目指される目標です。そして、システムを破壊すれば、性役割と必然的に結び付けられてしまっている現在の「女性」や「男性」の概念は、まるごと変質するはずなのです。
 それに対して、文化派フェミニズムの主張では、その性役割システムと相性のよさそうな「女性らしさ」が女性の「本性」に同定されてしまい、あろうことか、それが身体の器官に結び付けられてしまうこともあります。システムの外側に「女性そのもの」のようなものがあると信じられ、それは具体的、実体的、生物学的な基礎を持っていて、なおかつ現実の女性たちはすでにそれを手許に有している、とされたのです。これは、性役割とそのシステムを破壊することを目指し、「女性であること」の意味を根本から変えようとしたラディカルフェミニズム運動の(少なくとも今から遡ってみれば)主流の思想とは、真逆のものでした。そのため、ラディカルフェミニズム運動が文化派フェミニズムを「準備した」という説明は、これだけでは圧倒的に情報不足です。ちなみに、ラディカルフェミニズム運動と文化派フェミニズムがこのように「真逆の」ものであるという認識は、ラディカルフェミニズムの運動の中心地にいたEllen Willisが明示しているものでもあります(Daring to be badの「前書き」より)。
 その一方で、それとは全く逆の理由から、「準備した」という説明には不備があります。というのも、文化派フェミニズム的な思想は、まさにラディカルフェミニズム運動そのものの中にあった、とも言えるからです。例えば、先ほどからちょこちょこ触れている Cell 16では、おそらく初期の理論家であったDunbarやDensmoreが精力的に指導していた時期を過ぎたあたりから、「文化派」的な傾向が目立つようになりました。
 例えばCell 16が1970年に発行した雑誌には、人間の行動パターンはX染色体とY染色体によってかなり決まっており、男性の暴力性はY染色体に由来する、といった主張が臆面もなく掲載されています(No More Fun and Games(1970) , The Women's Revolution: The Political Significance of the Genetic Differences Between Men and Women)。Y染色体は、攻撃的で、不寛容で、知性に劣る傾向を人間にもたらし、それとは反対にX染色体は、平和的で、他者を尊重し、感受性豊かで、多様性に寛容で、知的で、民主主義的な傾向を人間にもたらす、などと書かれているのです。さらに悪いことに、当時「珍しいもの」として発見されたXYY染色体をもつ男性についての(今から見ればおそらく全く科学的でない)研究を参照しながら、Y染色体の数が他の男性よりも1つ多いせいで、XYYの男性は他の男性よりも知能がより一層低く、より暴力性が高く、より犯罪に手を染めやすい、といった差別的なことも平気で書かれています。もう、めまいがします。(この論文では、女性の解放という革命はX染色体の本性を高らかに開花することで実現するのだ、と結論されるのですが、理解不能すぎてiPadを叩き割りそうになりました。)
 また、他にも、Ti-Grace Atkinsonのもとに1968年末~1969年6月にかけて集まった女性たちによって設立されたThe Feministsという運動体は、その運動の創始者であるアトキンスン(Atkinson)を1970年4月に追放することになるのですが、Atkinsonの抜けた後のThe Feministsは、「女性原理」という言葉も使いつつ、明確に文化派的な傾向を強めていきました。全てのヒエラルキーは男性による女性支配につながっている、全ての宗教にはヒエラルキーがある、というAtkinsonの(かなり極端な)当初の主張を離れて、Atkinsonが抜けた後のThe Feministsの女性たちは、一種の神秘主義的な女性宗教を構想したり、「家父長制」に代わる「家母長制」の可能性を探っていたりしました。なお、The Feminisitsは1973年ごろまで活動を続けていたので、Atkinsonがいた期間よりもいなかった期間の方が長いです。
 いま挙げたCell 16とThe Feministsは、間違いなく1960年代後半から1970年代前半の、ラディカルフェミニズム運動に連なる組織です。もちろん両者とも、活動期間の全体を通して、運動体の全員が文化派的な主張をしていたわけではありません。当初のDunbarやAtkinsonの主張そのものは、先に見た「主流派」にどちらかと言えば近く、本質主義的な傾向は薄いと感じます。それに、ある時期以降の Cell16やThe Feministsにあった文化派的傾向が、ラディカルフェミニズム運動全体を代表しているとは、到底言えません。
 しかし、ラディカルフェミニズム運動の一翼をなしていた組織の中で、その時代の内部に、すでに文化派的な主張が存在していた、ということは無視できないと思います。ですから、ラディカルフェミニズム運動が衰退したのち、フェミニストの間で文化派的な運動や理論や目立つようになった、という歴史的事実があるのなら、そこには「準備した」という以上の、もっと継続的で、連続的な関係があったかもしれない、ということは覚えておく必要があるように思います。
 それに、もしかすると、先ほどわたしが書いた「主流の」思想と、「文化派」的な思想が、実は当事者の女性たちのなかでは明確に区別されていなかった、という可能性も(考えたくはないのですが)あるかもしれません。このあたりは、もっと詳しい研究が出るのを待ちたいと思います。※すでにそういう研究や解説があるなら教えていただきたいです※

8.終わりに

 以上で、今回の記事は終わりです。今回の記事では、ラディカルフェミニズム運動の「全体」を語ることの難しさについてお伝えする必要があると思いましたので、そういうことを書きました。
 他にも、ラディカルフェミニズム運動についての説明として、「マルクス主義フェミニズムに取って代わった」というのも見たことがあるのですが、運動体の中には明確なマルキスト女性も普通におり、マルキシズムの徹底こそがラディカルフェミニズムだと考えていた人も部分的にはいましたので、よく分かりませんでした。ただし、わたしはマルクス主義フェミニズムを調べる余裕がなかったので、この説明の妥当性については今回はノーコメントにさせてください。

 さて、このようにラディカルフェミニズム運動の「全体」について語るのはとても難しいのですが、とはいえ、全体の共通点のようなものはないわけではないですし、そのような共通点を指摘する方もたくさんいます。そのため、次回の記事ではそういう共通点について細々と書きたいと思います。

 あまり生産性のない記事をここまでお読みくださり、ありがとうございました。ちなみに、今回の記事については、これを書くために参照した文献や雑誌の数があまりに多いので、出典は省略させていただきます。次回以降は、出典もご紹介しながら記事を書きたいと思います。お許しください。
 ちなみにこれだけ「単純には語れない」と書いておきつつ、自分なりに限界までシンプルにラディカルフェミニズム運動を説明する記事も書きました。「結局なんなの?」と思う方はご覧ください。