THE FEMINISTS(3)規約と哲学
こんばんは。夜のそらです。この記事はTHE FEMINISTSについて解説する記事の3本目です。1本目の記事ではThe Feministsの運動体としての誕生と衰退、また基本的思想を紹介しました。
2本目の記事では、実質的な設立宣言に該当するような時期の文章を翻訳しました。
3本目のこの記事では、前回の続きになりますが、Notes from the second yearに掲載されたThe Feministsの団体文書の続きを翻訳します。Notesのページだと115~118ページ、発行時期で言うと1969年8月8日から8月26日までのあいだに出された文書の翻訳となりますが、それぞれの文書の翻訳順はNotesの原書に由来します。いずれにせよ、この短期間にThe Feministsが精力的に理論的な仕事をすすめ、メンバーシップについての規律を強めていったことが分かります。以下が全訳となりますが、一か所「売春」についてのかなり否定的な記述が登場するため、心構えをお願いします。なお、最後の方に出てくる「膣オーガズム」批判については、すでにKoedtによる「膣オーガズム神話」の解説を書いたのでそちらをご参照ください。Koedtは、当初The Feministsに在籍していましたし、Koedtによる膣オーガズム批判はThe Feministsの中心人物であるAtkinsonも共有していました。
この記事をTERF/SWERF(トランスジェンダー/セックスワーカーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。あなたのような愚かな人間には、わたしの文章は理解できません。すぐに立ち去りなさい。恥を知れ。
Ⅱ 組織的な原理と構造
THE FEMISTSは、女性の迫害についての熱心な研究と、この迫害を根絶やしにするための直接行動にコミットするラディカルフェミニストたちのグループである。
このグループは、これらのTHE FEMISITSの文書に記された私たちの原理を受け入れる女性たちにのみ開かれている。メンバーであることが最初のコミットメントであり、最初の責任でなければならない。グループのためになる活動で、それ以上のものはない。
THE FEMINISTSは、活動グループである。私たちが取り組む理論的な仕事は、女性たちを抑圧する手段を研究することを直接に目掛けている。そうすることで私たちは、私たちの抑圧と闘うための立場と行動とを効果的に立案することができるようになる。そうした研究の他には、議論への参加、個々人に割り当てられたことの完遂、そして活動への参加。これらの全てが等しく重要であり、また義務である。
女性の解放という目標を達成するためには、グループは規律(discipline)を維持しなければならない。私たちの議論や活動を恒常的に阻害し、また妨げるようなメンバーがいるなら、その人は誰でも除名されなければならない。メンバーの除名は、その会合に参加している全メンバーの3分の2以上の多数の決定を必要とする。またその会合についての告知は、少なくとも10日以上前に、全メンバーに通知されているものとする。
〔外部の〕グループの潜入ということも、あり得ないことではない。そのため、ある別のメンバーが潜入者ではないかということが疑わしいと思うのなら、そのメンバーはグループの会合の前に彼女と対面で会ってみるべきである。その潜入行為が、他のグループの必要を満たすためのものであることが立証された時には、その潜入行為を行った者(たち)はすぐさま除名される。
THE FEMINISTSは、仕切る人のいない組織であり、仕事の割り振りはクジによる参加の原理による。私たちの目標は公正な社会であり、そこでは、メンバー全員が平等である。それゆえ、私たちは全てのメンバーの内で知識とスキルを向上させることを目指す。また私たちは、いかなる一人のメンバーや小グループも情報や能力をためこまないようにすることを目指す。
伝統的には、会議長とか大臣といった仕切るためのポスト(official post)は、くじ引きによって決定されていたし、また集まりがあるごとにそのポストは移り変わっていった。会計担当大臣は、きちんと機能するために1ヶ月ごとにくじ引きで選ばれるものである。
(2段落省略)
くじ引きのシステムは、仕事を最大限共有することによって成長を促すものだが、果たすべき貢献に対する責任は、究極的には個人に存する。ある人の成長は、その人がどれだけ貢献をしたかに応じて変わっていく。 1969年8月22日
Ⅲ メンバーシップに要求されること/メンバーシップで得られる利益
THE FEMINISTSを他のフェミニストのグループと区別する特徴の一つは、グループの中のそれぞれの個人の人間的な発達に重きを置いていることである。(…)
(数段落省略)
1.(a)THE FEMINISTSはそれぞれのメンバーがグループに対する等しい責任を持つべきだと考えている。そしてそれは、どのようなときでも、それぞれのメンバーの能力のベストに応じたものであるべきである。
(b)会合に一貫して参加することは、すべてのメンバーにとって最低限の可能なことであり、また責任であると考えられる。
(c)会合に一貫して参加することは、賢明な、つまり責任ある投票にとって本質的なことである。
以上の理由から、任意の一カ月以内に開かれた会合の内、4分の1以上の会合を欠席したメンバーは誰でも、投票権を失う。それは、その人が新たに3回連続で会合に参加し直すまで続く。
こうしたことが3カ月の区切りのなかで、正当な理由(例:雇用や病気など)なしに3回起きた ときには、問題のその人はもはやTHE FEMINISTSのメンバーではないものとする。ただし彼女が望めば、彼女はもう一度メンバーシップを申し出ることができる。
2.(a)THE FEMINISTSは、結婚制度をそれ自体で不平等なものであると考えている。それは、その形式的(法的)側面においてもそうだし、非公式の(社会的な)側面においてもそうである。
(b)私たちはこの結婚制度を、女性たちの迫害を最初に形作るものであると考えている。
(c)私たちはこの結婚制度の拒絶が、理論的にもそして実践においても、ラディカルフェミニストにとっての最初の目印になると考えている。
以上の理由から、私たちはメンバーシップの割当制度を有する。すなわち、私たちのメンバーシップのうちの、3分の1を超えるものが、結婚制度の形式的な(法的な契約として)実例、あるいは非公式の(男と共に暮らすなど)実例となるものであってはならない。 1969年8月8日
Ⅳ プログラムに沿った分析
女性という政治階級(political class of women)は、女の役割(female role)を宛がわれた全ての人々によって――つまり全ての女たち(all females)――で構成される。男女の役割システムは、その役割が一つのグループ(男)によって定義されているために、政治的である。つまり、男たちは力ある階級であり、女性たちは力ない階級である。男たちは、男役割にとっての道具としての諸制度を用いることで、自分たちの支配を行使する。その諸制度が一緒になることで、女の役割を固定化させるシステムを形作っているのである。男と女の〔2つを分断する〕制度は全て、男と女の役割のシステムに由来している。そしてそうした制度は全て、抑圧的である。なぜなら(1)そうした制度は、この役割システムの表現形態であるのみならず、このシステムを永続化させるものでもあるからである。また(2)そうした諸制度は柔軟性がなく、個人が個人であることを破壊させるからである。加えて(3)その諸制度は、抑圧されている者らを分断し(その内部に競争を引き起こし)、また孤立させるからである。
女の役割のなかでは、女性たちはその子育ての能力によって定義される。その子育ての能力こそが、女性の機能だと見なされているのである。母性本能、すなわち子どもを産み育てたいと願う欲求が、女性たちに押し付けられる。「母性本能」という概念は、受容性、無条件の贈与、犠牲、苦しみを意味するが、その概念は女性たちのいわゆる「自然本性nature」を定義づけるために使われており、その概念は男たちによる女たちの搾取の文脈を創造するものである。
私たちは、あらゆる個々の女性による自己-展開(self-development)を探し求めている。このことを達成するために、私たちは、自己-展開を阻害している母性本能という名の神話に基づく諸制度を根絶やしにしなければならない。つまり、女の役割を強化する諸制度を、根絶やしにしなければならない。
私たちは、愛(それは、定義からして制度である)を破壊しなければならない。愛は、賛同と受容とによって一般に認識されている。愛は、傷つきやすさ、依存、占有、痛みへの感受性を促進する。愛は、他者の利益という外部へと彼女のエネルギーを全て差し向けさせることによって、女性の人間的な潜在性の完全な展開を妨げる。家族は、女性たちが自分の欲求とニーズを他者たちの欲求やニーズと同一視することで維持されている。母親らしさ(motherhood)がもたらすのは、花嫁(bride:※語源は「料理人」)としての是認であり、翻ってこの是認のために、母親はあたかも子どもたち自身の身代わりを生きるよう期待される。夫と妻のあいだの愛は、女の側に錯覚を引き起こす。彼女は、与える側でも、受ける側でもある、という錯覚である。彼女は、男からの是認を獲得するために、自己を犠牲にしているのである。愛は、女によって展開されてきたひとつの自己防衛である。これは、彼女が自らの力ない状況を視界に入れないようにするための自己防衛である。愛は恐れから生まれる。現実との接触が、〔女性たちの置かれた〕力なさ〔という状況〕に取って代わるものを何も提供しないとき、その恐れから愛は生まれるのである。愛は、他の男たちからの暴力や暴行から身を守ることである。異性愛(heterosexual love)は、しかしもう一つ別の意味でも錯覚である。異性愛は、男からの是認と、男との同一化を通じて〔女性たちが〕役割システムから逃れ出るための手段ともなるのである。男という存在は、自分自身を人間性〔=人間であるとはどのようなことか〕として(役割を超えて)定義づけている。彼女は、その男というものになりたいと欲望するのである。おのおのの女性の利害関心を、男のそれと一体化させることは、自分が他の女性たちと一つになること、つまり自分を女性という階級のメンバーとして見なすことから彼女を遠ざけてくれる〔=男と同一化していれば自分が女性として置かれた状況をみないで済む〕。
社会ための全ての貢献は、個々人のユニークな発展には何も付け足すことがないが、そうした社会のための貢献は、等しく共有されなければならない。たとえば「妻としての」義務や「母としての」義務が、そうである。子育ては、それが必要なものであるかぎり、全ての人の責任である。子どもたちは社会の一部であり、子どもたちは誰にも所有されるべきではない。生殖のための外部子宮という手段(extra-uterine means)が開発されるべきである。痛みの絶滅は人間的な目標だからである。結婚と家族(marriage and the family)は、根絶やしにされなければならない。
男と女のあいだの友情は、不平等という目下の状況の下では、平等と相互尊重が存在しているかのような見せかけのものである。男の役割が存在し続ける限り、男たちにはその役割を引き受けるという選択肢が手元に残されている。それゆえ、〔男との〕友情という関係性は、女性にとっての危険の一つとなる。実際のところ友情は、是認と支援という女の役割ニーズを再強化している。男性と女性のあいだの真の友情は必然的に、すべての男としての特権を放棄すること、そして男の側での男性優位〔体制〕との自発的な闘いを前提とする。そのときにのみ、私たちは、お互いをユニークな人間存在として評価し、また理解するというモード〔様態〕を全てのひとに拡張することができるようになる。このモードこそが、自由な選択や、依存の-なさ、そして他者たちに領有-されないこと、を説明するに違いないのである。
私たちは、異性愛のセックスという体制を破壊しなければならない。異性間セックスは、男-女役割が顕現したものだからである。身体的な快楽は、セックスによっても、オートエロティックな行為(auto-erotic acts)によっても、どちらによっても獲得されうるのだから、社会行為としてのセックスは、本来は心理学的なものである。その心理学は、目下のところ支配‐受容関係(dominance-passivity)である。男との性的な関係に女が無理やり押し込まれるさいの手段の一つは、彼女の中に想定されている、子どもを産みたいというニーズを充たすという方法によってである。生殖がコントロールされなければならないものだったときに、膣オーガズムという神話が創られた。それは、女が男に性的に依存したものであり続けるために創造られたのである。膣オーガズムの神話は、性的な満足感を得るための第一の手段として、挿入行為を強調する。そして生殖器の領域と、とりわけ膣にこのように強調を置くことは、妊娠を避けるために避妊手段が用いられているときでさえ、子を産むものとしての女の定義を再強化しているのである。
性的な行為のなかで、女性の側の生殖器官に強調を置くというのは、男の側の関心である。というのも、母親が子どもに仕えることになる母親らしさという制度こそが、男に対する女の関係のためのパターン(すなわち他者に彼女の意志を服従させること)を形作るからである。
もし性的な関係が、男による女の抑圧という政治的目標を支えるためにプログラムされているのでないとしたら、そのときには、性役割によって定義づけられることもなく、また搾取もないような、そういった身体的関係に入るための道が個々人にとって明らかになるだろう。身体的な関係は、(異性愛であれ同性愛であれ)個々人のあいだでのコミュニケーションの延長であり、それは、生殖器への強調を必然的には含んでいないのである。
男が自分の意志を理不尽に女に押し付ける。その最も単純で露骨な形態が、レイプである。男の性的な口説きに女がいやいや従っているとき、そこでは常にレイプが起きている。交際期間や結婚のなかでは、レイプが合法化されている。性的な関係は、結婚の契約の一部だからである。
売春(prostitution)は、結婚制度に代わる恐るべき代替物として、男が創り出したものである。男によって考案された、それ以外のいわゆる「代替物」は、どれも売春の原理をモデルにしている。その原理とは、卑しめること(debase)と剥奪(deprivation)との原理である。かくして、(男の定義による)女の本質とは、性的な客体のそれである、ということが明らかとなるが、それこそが女が生き延びるための唯一の手段なのである。セックスの客体であること/母親であること。こうした定義の外側で自分の生存を保つことを許された女はいない。公的な領域で女性たちのためになされている活動は全て、彼女が家庭の中で果たす役割に応用できる態度やスキルだけにしか、関わってはならないのである。
宗教のような政治的制度は、ヒエラルキー的な秩序の哲学に基礎を置き、男による女の抑圧を再強化しているのだから、破壊されなければならない。
これらの諸制度を根絶することが要求しているのは、いくつかのステージに沿って理解された、ひとつのプログラムである。各ステージでは、全ての制度のあいだの相互関係が説明され、それゆえ、そうした制度すべてに対する同時的な攻撃が求められる。男の役割を破壊する私たちの破壊活動から逃避するための逃げ道をすべて閉ざすこと、私たちの戦略にはそれが必要である。対処されなければならない制度の網の目は次の通りである。まずは結婚(および家族、出産、子育て)。しかし結婚を破壊することは同時に、売春(および「自由」恋愛("free" love))と排他的な異性愛セックスの破壊を必要とする。女のための本当の代替物に向けての対策(例えば平等な年収の保障)。そして補償のためのプログラム(例えば優先的な教育と雇用)。 1969年8月15日