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「膣オーガズムという神話」(Anne Koedt:1970)

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、わたしがラディカルフェミニズム運動について調べたことをまとめているシリーズの一部です。

この記事をTERF(トランスジェンダーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。今すぐ立ち去りなさい。恥を知れ。

 今回の記事では、コート(Anne Koedt)が1970年に書いた「膣オーガズム神話」(The Myth of the Vaginal Orgasm)という論考の紹介をしたいと思います。この論考を紹介する理由は、これが大きな影響をラディカルフェミニズム運動でもっただけでなく、わたしがラディカルフェミニズム運動に興味を持ったきっかけである Asexual Manifesto (Aセクシュアル・マニフェスト)にも関係していると思われるからです。Aセクシュアル・マニフェストは、ラディカルフェミニズム運動内部での、異性愛主義/性愛主義に対する批判の積み重ねから生み出されたものです。そしてコートによる「膣オーガズム神話」批判は、そうした異性愛主義に対する最も有名な批判の1つです。
 わたしは、現代のAセクシュアルとして、世の中の(異)性愛主義的な規範を有害だと感じています。それと同じように、「ふつうの性愛」を歴史上最も厳しく批判してきた勢力として、フェミニズムを挙げないことはできないはずです。現代のポピュラーフェミニズムでは、男性とセックスするのも結婚するのも女性の自由、という「自由」に価値が置かれているように思いますが、フェミニズムの歴史には「ふつうの性愛」としての男性とのPV(ペニス&ヴァジャイナ)セックスを批判的に捉える視点が間違いなくあったはずです。「ふつうの性愛」は、男性優位社会にとって都合の良いものでしかなく、「ふつうの性愛」を通して女性の抑圧が再生産されているのではないか、という視点です。わたしは、「ふつうの性愛」を批判的に捉える現代のAセクシュアルとして、そうしたフェミニズムの遺産から学びたいと思っています。
 誰とセックスするか、誰とセックスしないか、あるいは誰ともセックスしないか。そんなの本人の自由じゃない?本人が勝手に決めればいいことじゃない?と思われるかもしれません。でも、そんな「セックス自由じゃん」の前に、社会の性愛の規範がどうなっているか、それが既存の女性差別とどう関係しているか、フェミニストの先輩たちに学ぶのは意義あることだとわたしは思います。
 これから、コートの論考「膣オーガズム神話」の紹介をします。わたしの理解では、この論考は4つの部分に分かれています。そのためこの記事でも4つのパートに分けて紹介します。網掛けの部分は、わたし(夜のそら)の翻訳です。論考は、Notes from the second year 掲載のバージョンを使いましたので、翻訳部分にはそのページ数を書き添えました。ちなみに、この「膣オーガズム神話」には邦訳があります。『女から女たちへ』という、Notes from the second yearの抜粋訳に、訳されています。自然な日本語にするために思い切った訳出を行っている部分もありますが、文脈を正確に踏まえているので、読みやすさと正確さを両立させた素晴らしい翻訳になっていると感じます。おすすめです。
 なお、コートその人の紹介をしておくと、New York Radical Women から The Feminists、そしてNew York Radical Feminists へと、当時のNYにおけるラディカルフェミニズム運動の興隆の全体を渡り歩いた人物であると言っても過言ではないでしょう。この論考が掲載されいている伝説の雑誌 Note (from the 1st~3rd year)  をファイアーストーンと共に編集した人物でもあります。ただ、現代的な評価をしてもよいのなら、人種とトランスの問題については全くの不見識を当時から示しているので、コートの文章を読むときは、とくにそれらに係るトピックのときは注意して、批判的な視点を持っておいた方がいいと思います。

Warning:この記事には、「膣」「クリトリス」「ペニス」「挿入」等の言葉が出てきます。それらについての細かい描写は一切ありませんが、単語が頻出するのが辛い・気持ち悪い・びっくりする方は、注意してください。

1.性的感性の中枢はどこか

 「膣オーガズム神話」は、女性のオーガズムを巡る1つの常識を疑うことから始まります。それは「膣オーガズム」です。つまり、女性はペニスを膣に挿入されることでオーガズムに至る、という世間の常識をコートは疑っています。それを疑う根拠の一つ目は、世の中では「膣オーガズム」を得られないために不感症だとされている女性があまりに多くいることです。そして二つ目の根拠は、そもそも膣は女性の性的快楽の中枢(center:中核地点)ではない、ということです。

実際には、膣は感受性の高い領域ではないし、オーガズムに達するために作られてもいない。性的な感受性の中枢はクリトリスである。それこそが、女性にとってのペニスに匹敵するものなのである。(37)

男性がペニスへの刺激によってオーガズムに達するように、女性はクリトリスで性的な感覚・快楽を得る、とコートは言います。コートによれば、現在膣でオーガズムを得られないという理由で不感症とされている女性たちは、本当は不感症ではありません。なぜなら、オーガズムをもたらす性感の中枢は膣ではなくクリトリスだからです。
 わたし(夜のそら)の身体にはそれらの器官がなく、そもそも性的感受性自体がとても気持ちが悪いので、コートが言っていることが正しいかどうか何とも言えないのですが、コートはとにかく、全てのオーガズムは本来はクリトリスからもたらされるのだ、と力説します。
 しかし、そうすると気になることがあります。どうして、女性の性感の中枢はクリトリスなのに、「膣オーガズム」の存在がこれほど世の中で信じられており、それを得られない女性たちが誤って不感症などとされてしまっているのでしょうか。

これらのこと全ては、慣習的になされているセックス(conventional sex)と、そうしたセックスにおける私たち〔女性〕の役割についての、興味深いいくつかの問いにつながっている。男性たちは、本質的に膣との摩擦によってオーガズムを得ており、クリトリス領域との摩擦によってオーガズムを得るのではない。クリトリスは外側にあり、挿入行為によって得られるような摩擦を引き起こさないからである。つまり、女性たちは「何が男性たちを喜ばせるか」という点から性的に定義され続けてきたのである。それは、私たちの生物学(biology)がきちんと分析されてこなかった、ということでもある。その代わりに、私たちは「〔性的に〕解放された女性」の神話や「膣オーガズム」の神話――実際にはそんなオーガズムは存在しない――などによって、餌(え)づけされてきたのである。(37-38)

コートは言います。「膣オーガズム」は、何が男性たちを喜ばせるか、という点から定義されているのだ、と。女性の身体のバイオロジーが無視され、「摩擦」の必要という男性のオーガズムのニーズが優先された結果が、「膣オーガズム」という在りもしない神話を生み出し、男性と積極的にPVセックスをする女性こそが「解放された女性」だ、という神話を生み出したのだ、と。
 そうだとしたら、一刻も早く、しなければならないことがある。コートは力強く宣言します。

私たちは、私たちのセクシュアリティを定義しなおさなければならない。私たちは、セックスについての「ふつうの(normal)」考えを捨て去らなければならない。そうして、対人的な性の悦び(mutual sexual enjoyment)を考慮した、新しい道案内(guideline)を創造しなければならない。対人的な悦びについてのこうした〔ふつうの〕考えは、結婚のマニュアル(marriage manual)のなかで惜しげもなく賞賛されているにも関わらず、その論理的な帰結は、そこから導かれていない。もし、現在「標準(standard)」なものとして定義されている、ある種の性的体位(sexual position)が、対人的にオーガズムへと導いてくれることがないのなら、そうした体位はもはや標準として定義されえない。私たちは、このように問いただすことから始めなければならない。私たちの現在の性的搾取(current sexual exploitation)がもつ、この特殊な一側面を変革するような、新しい技巧(new technique)が用いられ、考えだされなければならない、と。(38)

女性はどのように性的な悦びを得るのか。これについての常識(当たり前)を問い直さなければなりません。男性とのPVセックスこそが最もよく性的な快楽を女性に与えてくれると、「結婚」を称賛する世の中のマニュアルには書かれているけれど、それは嘘だとコートは言います。それは、女性たちの性的搾取(sexual exploitation)を正当化するための、男性が作った神話に過ぎないのです。
 コートは最終的に、女性たちが真に「対人的な性的悦び」を得られるようになる「新しい技巧」の創出を待ち望んでいます。しかしその前に、どうしてこんな「膣オーガズム」の神話が信じられるようになったのか、その起源をコートは探ろうとします。

2.誰が女性の身体について知っているのか

フロイトは、クリトリスオーガズムは未成熟な若い世代のもので、思春期になって女性たちが男性たちとの挿入行為を始めるようになれば、女性たちはオーガズムの中枢をクリトリスから膣へと移行させるべきなのだ、と主張した。膣は、クリトリスと同じような、とはいえより成熟したオーガズムを生み出すと考えられたのである。(38)

コートによれば、「膣オーガズム」という神話を浸透させた最も大きな責任者の1人はフロイトです。フロイトは、クリトリスによってオーガズムを得る「未熟な」女性から、男性との対人セックスによって「膣オーガズム」を得るようになる「成熟した」女性へ、という ”性的成長” のストーリーを世の中に広めた責任者です。それも「科学」の名の下でそれを行った点で、大変に罪深いです。ラディカルフェミニズム運動では、知識を女性たちに取り戻す、ということも積極的に目指されました。男性たちが「科学」や「知識」を独占していることは、単に独占状態として悪いだけでなく、女性たちのことについて男性たちの方が「知識」がある、という明らかに誤った結論を導くからです。そんなわけないじゃないですか。
 さて、フロイトがそうした「男性を知らない未熟な女性から、男性によってオーガズムに導かれる成熟した女性へ」という神話を生み出したのには、理由があります。

女性のセクシュアリティについてのフロイトの理論の基礎を形作っていたのは、女性は男性に対して二次的な存在であり、男性との関係で見たとき劣った存在なのだ、というフロイトの心情(feelings)である。(38)

女性は、男性に対して二次的な存在である。男性がいなければ、女性は一人前になれない。そうしたフロイトの信念が、「膣に男性のペニスを挿入されることで女性はオーガズムに導かれる」という神話を生み出した、とコートは言います。(コートによるフロイトの女性蔑視の診断が正しいかどうかは分かりませんが、今ふつうに考えて、フロイト的なあんな意味不明の「性のおはなし」を本当に信じている人なんていないのではないでしょうか。)
 ここからコートは、フロイト派の精神分析家が、いかにして「膣オーガズムに達することのできない女性たち」についての馬鹿げた診断を行っているのかを書きつらねていきます。そこでは、女性が自分の「本当の役割」に適応できないために膣で感じられないのだ、というご都合主義的な「診断」が下され、女性たちが自分を責めるようにさせられています。
 さらにコートは、なぜクリトリスこそが真にオーガズムの中枢なのか、ということを解剖学的な証拠を列挙することによって示そうとします。コートはここで、「どこで感じるべきか」という規範を離れて、「どこで感じているか」を突き止めようとしています。それは、女性の身体について最もよく知っているのは女性であり、男性ではない、というラディカルフェミニズム運動のもっとも大きなテーマを体現するような論述です。現代の科学的知見から見て、コートの言っていることが正しいかどうかは分かりません。でも、当時の先端的な生物学的知識もふんだんに使いつつ、女性の身体を女性が再定義するという、とても大切なことをコートはここで試みているように思います。※詳細を知りたい方は原文をお読みください。

3.「膣オーガズムはある」と言う女性たち

 これまでコートは、「膣オーガズム」が神話にすぎないことを示してきました。そもそも膣は性感の中枢ではないのに、男性側の「摩擦」のニーズが精神分析的に粉飾されて、「膣オーガズム」の神話が広く信じられるようになっているのです。
 しかし、それでもなお「膣オーガズムはある」という風に反発する人もいるだろう、とコートは言います。女性からも、男性からも、その反発が来るだろう。そこでコートは、論考の最後にそうした予想される反発を分析することを試みます。
 はじめに、「膣オーガズムはある」という女性たちからの反発です。これをコートは、2つの観点から分析しています。

・混同(Confusion)
自分たちの解剖学的特徴についての知識がないために、女性たちの中には「ふつうの(normal)」挿入のあいだに感じられるオーガズムは膣が引き起こしている、という考えを受け入れているものがいる。この〔オーガズムの原因についての〕混同は、二つの要素の組み合わせによって生じている。第一に、オーガズムの中枢を位置づけ損ねることによって。そして第二に、男性的に定義された「性的な正常(sexual normalcy)」に適合したいという欲望によって。(39-40)

最初の観点は「混同」です。これは、本当はクリトリスで感じられているオーガズムを、膣で感じられるものとして「間違えている」ということです。しかしそれは、単に感覚の場所を間違えているだけではありません。こうした心理的「混同」は、男性的に定義された「正常」に合致していたい、という欲望によって後押しされているのだとコートは言います。
 2つ目は「欺き」です。

・欺き
男性たちに対して膣オーガズムがあるふりをしている女性たちの圧倒的大多数は、Ti-Graceアトキンスンが言うように、「職にありつくget the job」ためにそうしたことをしている。(40)

膣オーガズムの存在を支持する女性たちのなかには、男性と一緒にいることの利益のために、その存在を欺いている人がいる、とコートは言います。もちろん、コートはそれを「嘘つき」として一方的に断罪しているわけではありません。様々な理由から、男性と一緒にいなければ生きていけないという判断をする女性はいるでしょうし、男たちを騙して「感じるふり」をするというのは、それはそれでしたたかな戦略かもしれません。
 しかし、ありもしない「膣オーガズム」を男たちを欺くための手段として利用する女性がいる一方で、やはりこの神話には有害さの方が大きい、とコートは考えています。

ひょっとすると、膣オーガズムというこのごっこ遊び全体(this whole charade)がもたらす最も憤慨すべきそして危険な結果は、完全に健康的に性的(perfectly healthy sexually)であった女性たちが、「自分たちは健康的に性的ではない」と教え込まれたことかもしれない。女性たちは、こうして性的にはく奪された状態に置かれたことに加えて、責められるべきことなど何もないのに、自分たちのことを責めるよう言われてきたのである。(40)

ここに至ってもはや、コートは「膣オーガズム」があるかのようになされている様々な活動・言説を「ごっこ遊び」(charade)と断じています。ありもしないものを「ある」かのようにみんなが行動して、発言する、巨大なパロディだと言います。しかしその「ごっこ遊び」は、現実的な有害さを持っています。女性たちは、クリトリスという「真の性感の中枢」をないがしろにされることで「性的にはく奪された状態」に置かれてしまい、それに加えて、自分は不感症なのだ、感じられないのは自分が悪いのだ、という風に自己嫌悪にさせられているからです。

4.膣オーガズム神話を男性たちが手放さない理由

 今度は、「膣オーガズム神話」を男性たちが手放そうとしない理由です。そして、その理由の分析をもって、この論考は幕を閉じます。コートによれば、男性たちが「膣オーガズム」を手放そうとしない理由は6つに分析できます。順にみていきましょう。

1.性的挿入がいい(Sexual Penetration is Preferred )
 これはシンプルですね。ペニスは摩擦を通じて刺激・快感を得るので、性行為として望ましいのは挿入になります。なので、自分が挿入できる体位であるPVセックスの「正常・標準」としての地位が脅かされてしまうのを、男性たちは嫌がります。

2.女性が見えない(The Invisible Women)

 これはより深刻な問題です。コートによれば、「膣オーガズム」神話の背景には、女性を全人格的な存在としてみなさず、男性にとって利用可能なものとして扱おうとする男性の全般的な考え方があります。そうした態度は、性的な文脈においては、「相手と同じように性行為に参加したいと願う個人」として女性を見なさない、ということに繋がっています。ありていに言えば、女性を性的主体と見なさない、ということです。そうして女性の快楽を軽視する以上、「膣オーガズム神話」が崩れて、それに代わる新たな女性のオーガズムの言説が出てくることを男性は否認しようとします。

3.男らしさの縮図としてのペニス(The Penis as Epitome of Masculinity)

 コートによれば、世の中の女性の抑圧された状況を表現する「男性優位体制(male supremacy)」の神髄は、「女性よりも自分たちは優位な存在である」と信じているという、男性たちの心理的な特権にあります。そして、その心理的な特権を合理化するために、男性たちは肉体的な差異に訴えている、とコートは言います。つまり、男性の声は太く力強いが、女性の声は高くか弱い。男性には筋肉があり屈強としているが、女性には筋肉がなくひ弱である。そして、男性にはペニスがあるが、女性にはない。こうして ”肉体の違い” を動員することによって、男性は「自分たちは女性たちよりも優れた存在なのだ」という心理的な優位を正当化しようとしているのです。
 ここでのコートの主張は、なかなか面白いと思います。コートは、人間の肉体に最初から重大な差異があり、それが男性優位/女性劣位の序列を生み出している、とは考えておらず、「男性は女性よりも優れている」という男性の空虚な信念を正当化するために、”肉体的な差異” が恣意的にピックアップされ、動員されているだけだ、と考えているからです。ここで「髪の毛の本数」や「骨密度」ではなく、筋肉や声質、特定の形状の外性器の有無だけがピックアップされているのは、それが男性の優位性を示しやすい格好の材料だからであり、つまり、ある種の恣意的なピックアップなのです。
 ともあれ、男性が「ペニスのある存在」として女性に対する心理的な優位を根拠づけようとする以上、ペニスを使うPVセックスこそが男性優位体制にとっては都合の良い体位であることになり、そこでは「膣オーガズム」が便利な規範として機能することになります。
 なお、この項目でコートは、男性たちは「ペニスに相当するもの(=クリトリス)」が女性の身体にもあることに恐怖しており、それゆえクリトリスを恐怖している、と言っています。フロイトがクリトリスの存在を無視したり、中近東のいくつかの文化圏でクリトリス切除が行われているのも、そうしたクリトリス恐怖のせいだ、とするのです。現代的にはかなり割り引いて理解しなければならない指摘だとは思いますが、女性差別を正当化するために恣意的に設定した「肉体の差異」が、現実にははっきりとした差異になっていないために、その現実の方を今度は無視したり否定しようとしている、という指摘はやはり興味深いと思います。

そしてこれは、現代のトランス差別を考える際にも手掛かりになる指摘だと思います。トランス女性の存在を有徴化し、「正当な女性」ではない存在、危険な存在として表象しようとする差別者は、いつも「肉体の差異」に言及します。しかし、トランス女性にも多様な身体の持ち主があり、また外科手術や内科的なホルモン療法の影響もあるため、「トランス女性の身体」と「シス女性の身体」には、本当は明確な線引きなどできません。しかし、トランスを差異化し、また異常な・危険な異分子として排除しようとする差別者たちは、その差別を正当化するために「身体の差異」を何とか捏造しようとし、結果として「見えないペニスの存在」や「Y染色体」についていつも語ることになります。肉体的な差異とか、生物学的な差異、といったものが、すでに恣意的に設定された差別的な二元論を正当化するために動員されているのです。現代のトランス排除的”フェミニスト”は、歴史において女性差別と闘うプロセスでフェミニストたちによってとっくに暴かれたレトリック・出鱈目を、自ら反復しているのです。

4.男性的存在が性的に用済みになる(Sexually Expendable Male)
 これもタイトル通りです。「膣オーガズム」が信じられていることで、男性のペニスは女性を気持ちよくさせるものとして位置づけられており、結果的に「摩擦」で快楽を得る男性たちが利益を得ていたのですが、「膣オーガズム」が神話であることが暴かれてしまったら、男性は性的に用済みになってしまい、捨てられてしまいます。(クリトリスに性的刺激を与える仕事は、ペニスはあまり得意ではないでしょうから。)
 コートは言っています。「膣オーガズム」が神話にすぎないことが暴露されていけば、女性が男性とベッドを共にする「物理的=身体的」理由はない、ということが暴かれていく。実際、女性がクリトリスで快楽を得ようとするなら、女性が女性を性のパートナーに選ばない理由はなくなるだろう、と。残るハードルは、それを「選ばない」ようにさせている心理的な理由だけです。コートの異性愛批判は、ここでレズボフォビアへとターゲットを向けています。

5.女性の管理(Control of Women)
 「膣オーガズム神話」は、真に性感を与える器官であるクリトリスの存在を抹消することと軌を一にしています。そしてそれは、女性を性的に自由な存在にさせない、という社会の「女性管理」のロジックの一部なのだとコートは言います。現代では「性の二重規範」と呼ばれていますが、男性は性的に自由で、婚外交渉も責められないのに対して、女性が性的に活発であったり婚外交渉をすることには、否定的な反応が惹起されます。こうして女性の性を不自由にして、男性的な管理の内に置いておこうとする性の規範と、「膣オーガズム」の神話は手を取り合っています。

6.レズビアニズムとバイセクシュアリティ(Lesbianism and Bisexuality)
 
ここは段落全体を引用させてください。そしてこれは、論考の最終段落でもあります。

女性たちがなぜ他の女性たちを恋人として対等に求めることになるのか、ということについての解剖学的な理由〔※クリトリスの刺激は男女どちらでも可能であること〕とは別に、女性たちがまったく人間的な基礎に立って他の女性たちを伴侶に求めようとすることについての恐怖が、男性たちの側にはある。クリトリスオーガズムが既成事実として確立されれば、異性愛という制度(heterosexual institution)は脅かされることになろう。というのも、クリトリスオーガズムの確立は、性的な快楽が男性からも女性からも獲得できる、ということを示しているからであり、そうして、異性愛を絶対的なものではなく選択肢の1つにしてしまうからである。だから、クリトリスオーガズムの確立は、現在の男性―女性的な役割のシステムの限界を超えて、人間的な性愛の関係についての問い全体を開くことのだ。(41)

クリトリスオーガズムがあり得ること、それどころか、女性の本来の性的快楽は「膣オーガズム」ではないこと。そもそも、膣オーガズムが神話であること。クリトリスオーガズムが確立して、それらのことが暴露されることは、異性愛という制度そのものを脅かすことになる、とコートは述べています。それは、単に「異性愛だけでなく同性愛や両性愛もあるよね」という「いろいろあるよね」的な話ではなく、現在の「男性―女性役割」という性別システムそのものを脅かすことに繋がっているのです。
 この社会では、男性の性的ニーズのために女性の身体が利用されています。それだけでなく、そうした性的搾取を私的領域に押し込めつつ、制度的により一層それにお墨付きを与える、結婚制度という名の恐ろしい異性愛の制度が存在しています。そんななか、オーガズムについての神話を拒否することは、そうした制度の根幹にある「男女の性愛の関係」がもつ意味を、全く新しいものにしてしまいます。それは、必然的なものでもなんでもないし、女性には利益なんてないのです。こうして、「膣オーガズム」批判とクリトリスオーガズムの確立は、異性愛的な=女性を抑圧する性のシステムがもつ正当性を脅かすことになります。単にセックスの種類が増えるのではありません。社会で権威を与えられている性愛の関係の、その権威を否定し、「男の役割」と「女の役割」を区別することによって女性を抑圧する、男性優位の社会そのものが、ここで問いただされているのです。
 コートは、「膣オーガズム神話」の批判が「まったく人間的な基礎に立って他の女性たちを伴侶に求めようとすること」へと女性たちを導く可能性を示唆しています。男女の関係には、「男性として/女性として」の性役割システムが介入してしまいます。ただしそれは、女性を抑圧するように機能して、男性に利益を与えていますから、男性たちには都合の良いものです。それとは別に、一人の全き人間(whole person)同士の関係が、クリトリスオーガズムの確立からは導かれるかもしれない、とコートは期待しています。この「全人格的な関係」の出現を、性役割システムを維持することによって自分たちの利益を守ろうとする男性たちは恐れているのです。
 もう、十分お判りいただけたと思います。「膣オーガズム神話」の批判は、ただのセックスの話ではなく、女性差別的な社会を離れて、女性が全き人格としての地位を手に入れることについての話なのです。

5.「膣オーガズム神話」批判から、「対人セックス神話」批判へ

 以上で、コートの論考「膣オーガズム神話」の紹介は終わりです。フェミニズムの立場から異性愛的な制度を批判する、力強い議論が展開されていたと思います。
 とはいえ、コートのこの論考には、いくつもの疑問も浮かんできます。どうしてコートは、「対人的な性の悦び(mutual sexual pleasure)」の話ばかりしているのでしょうか。つまり、対人セックスの話ばかりをしているのでしょうか。どうして、性役割システムを離れた「全き人格」としての関係が、クリトリスオーガズムを中心とした「性行為」のなかで目指されているのでしょうか。本当に、人は性行為の中で相手を人格全体として尊重できるのでしょうか。その外では、無理なのでしょうか。そしてコートは、最初の不感症を巡る議論のなかで、「性的に健康な女性」について何度か語っていますが、ここには「性的であること=健康であること」という、危ない規範を前提としていないでしょうか。
 これらの問いこそ、わたしの大好きな Asexual Manifesto(1972) で展開されている問いに他なりません(それだけではないですが)。「膣オーガズム」神話を批判し、PVセックスを核に置く異性愛の制度が、どのように女性の抑圧に繋がっているのか。それをコートは明らかにしました。 Asexual Manifesto は、その一歩先を行っています。その内実については、また今度の記事で書ければと思います。

*参照:Asexual Manifesto(Aセクシュアル・マニフェスト)

最後まで読んでくださりありがとうございました。生きる意味が分からない、病院に行って家で寝ているばかりの日々ですが、ラディカルフェミニズム運動の勉強をしているときは生きている実感が湧いてきます。