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Redstockings(3)変わるべきは女性ではない:「レッドストッキングス・マニフェスト」を読む

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、ラディカルフェミニズム運動体であるレッドストッキングスについて書く3本の記事のなかの3つ目です。
 1/3の記事では、レッドストッキングスという団体がどのような団体だったのか、どのような思想を持っていたのかを書きました。

2/3の記事では、「レッドストッキングス・マニフェスト」をご紹介しました。すでにいくつかの邦訳がありますが、2020年のAセクシュアル+Aジェンダーとして、このマニフェストを0から訳しました。

最後の(3/3の)この記事では、2/3で紹介したこのマニフェストを、1/3で書いたレッドストッキングスの思想の点から読み解いていきたいと思います。引用に入れている網掛けの部分は、全て2/3の記事 ↑ からの訳文の引用です。「レッドストッキングス・マニフェスト」を「RM」と省略して書いて、パラグラフ番号を末尾に書きます。(例:「RM Ⅲ」など)
 ただ、わたしは大学でフェミニズムを学んだり、女性史の研究論文になじみがあるわけではありません。ずっと、独学でラディカルフェミニズム運動を勉強してきました。そのため、間違った説明をするかもしれないことをご了承下さい。なお、この「レッドストッキングス・マニフェスト」だけに限りませんが、ラディカルフェミニズム運動における「マニフェスト」を読み解くにあたっては、Radical Feminism, Writing, and Critical Agency: from Manifesto to Modem , by Jacqueline Rhodes. Albany: SUNY Press, 2005.から少しだけ示唆を得ました。全体的にポストモダンな感じで、理解できなかった点も多いですが、過去のラディカルフェミニズムの「マニフェスト」を21世紀に読み解くという行為をどう理解するかについて、面白くてプラスになった気がするのでご紹介しておきます。

この記事をTERF(トランスジェンダーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。今すぐ立ち去りなさい。恥を知れ。

1.女性という階級

個々別々に繰り広げられてきた、先立つ政治的な闘いの諸世紀を経て、女性たちは男性優位体制(male supremacy)からの最終的な解放を手にすべく一つになりつつある。このように一つになること、そして私たちの解放を手にすること。レッドストッキングスはそのことを自らの使命として誓うものである。(RMⅠ)

→ ここは、1967年頃から盛り上がってきたラディカルフェミニズム運動の「勢い」を感じられる箇所です。そして、レッドストッキングスが一貫して「男性優位体制」の打倒を目指すことがはっきり宣言されます。

女性は、一つの抑圧された階級である。私たちの抑圧は全面的で、それは私たちの生活のあらゆる面に影響を及ぼしている。私たちはセックスの客体として、子孫を残すための〔畜産の〕種畜として、家の召使いとして、そして安い労働力として、搾取されている。私たちは劣った存在として考えられており、その存在の唯一の目的は、男性たちの生活の質を高めることだとされている。 私たちが人間であるということが否定されているのだ。(RMⅡ)

→ 男性優位体制は、レッドストッキングスでは階級の問題として理解されていました。もとはマルクス主義に由来する「階級」の言葉を、女性の抑圧を理解するために用いることには、ラディカルフェミニズム運動内部でも批判があったのですが、レッドストッキングスにはもともとマルクス主義に近い人物が理論の柱となっていたとされるので「階級」の語が使われます。
→ 男性優位体制においては、男性をサポートしたり、男性に都合よく利用されたり、という役割が一方的に「女性」にあてがわれます。そのことで、女性が「人間であること」が否定されているのです。ですから、レッドストッキングスの目的はこの「人間であること」を回復すること、になるでしょう。また、こうした「人間であること」の回復は、別の場所では「誠実さ」をもってお互いに関係すること、とも言われています(RMⅤ)。

男性たちはみな、経済的、性的、そして心理的な利権を男性優位体制から得ている。男性たちはみな、女性たちを抑圧してきたのである。(RMⅢ)

→ ちなみに、女性の抑圧という事態をレッドストッキングスが複数の点から理解していたことは注目されてよいでしょう。社会の中にある不均衡な権力(パワー)の集中、ということでは、財産や社会的地位の問題が見えやすいのですが、RMはそれだけでなく「性的」特権や「心理的」特権を挙げています。女性たちを使って自分の性的なニーズを満たしたりすること。この「性」の問題を政治的な問題として扱った点は、とてもラディカルフェミニズム運動らしいと思います。また「心理的」特権として、自信をもって自分の人生を生きられる特権も、問題化しています。女性たちは、自信をもって自分の自我を生きられないように、ディスエンパワー(弱体化)させられている、と考えたのですね。こうした心理面への注目も、リベラルフェミニズムが必ずしも拾い上げられなかった、重要なことだと思います。
→ なお、こうした「心理的特権」への注目は、レッドストッキングスを抜けたあとFirestone(ファイアーストーン)が設立したニューヨーク・ラディカル・フェミニスツ(NYRF)のマニフェスト「エゴの政治学」にはっきりと継承されていくことになります。

2.個人的なことではない、政治的なこと

私たちは、私たちを抑圧する者たちと非常に長いあいだ親しく暮らし、互いにバラバラに切り離されてきたので、私たちは私たちの個人的な苦しみを政治的な状況の問題として理解することから遠ざけられ続けてきた。このせいで、幻想が生まれた。女性と、彼女の男とのあいだの関係は、二人の特殊な人格のあいだに生まれる相互作用の問題であり、そこに問題があるとすれば、それは個々のレベルで切り抜けることができるのだ、という幻想が。(RMⅡ)

→ ここは、個人的なことは政治的なこと、というラディカルフェミニズム運動の哲学をシンプルに表現している箇所です。それと同時に、あたかも「個人的な問題」であるかのような見せかけを与えて、女性たちの抑圧が矮小化されてきたこれまでの状況について、「私たちを抑圧する者たちと非常に長いあいだ親しく暮らし」てきたからだ、と原因が分析されています。女性が男性と結婚し、「家庭」という排他的なユニットを作ってしまうので、他の家で女性がどんな風に思っているのか、お互い伏せられてきたのです。
→ 結果として、家庭の中で女性が経験する抑圧的な状況は、「個々人の家庭の問題」のように誤認されてきました。この「幻想」を喝破するレッドストッキングスの姿勢は、公的領域への女性の進出を目指すリベラルフェミニズム的な戦略とは異なり、私的領域での女性の状況に目を向けようとする、ラディカルフェミニズム運動らしさを表していると思います。

3.すべての問題のルーツ

私たちは、私たちに対する抑圧の行使者として、男性たちを同定する。 男性優位体制は、最も古く、そして最も基本的な支配の形態である。その他のすべての搾取と抑圧(例えばレイシズムや資本制、帝国主義)は、この男性優位体制の延長線上にある。男性たちが女性たちを支配し、少数の男性たちがそれ以外を支配する、ということである。(RMⅢ)

→ ここは、レッドストッキングス、ひいてはラディカルフェミニズム運動における、問題還元的な思想が明確に表れている箇所です。RMの主張によれば、レイシズムや資本制、帝国主義など、権力(パワー)を特定の集団だけに集めて、社会の中に不均衡・不正義をもたらすもの(=差別)はすべて、男性優位体制に由来しています。
→ ラディカルフェミニズムにおけるこうした問題還元的な姿勢は、現在ではインターセクショナリティの観点から厳しく批判されていますが、こうした還元主義は、ラディカルフェミニズム運動が新左翼運動から生まれたことに関連しています。これまでの記事でも書いてきた通り、ラディカルフェミニズム運動は新左翼運動から誕生しました。しかし、新左翼運動のなかでは何よりも資本主義という大きな問題がターゲットとされており、女性たちの置かれている状況はその「大きな問題」の一部か、あるいは「大きな問題」から派生して生まれる「小さな問題」だと認識されていました。結果として、女性に固有の困難に取り組もうとするなら、「もっと大きな問題があるだろう」「大きな問題を見失うな」と、女性たちはいつも後回しにされてきたのです。つまり、あらゆる問題(≒差別)の根っこに資本制があり、そこからすべての問題が派生しているのだから、その根っこを絶たなければ女性差別もなくならないよ、と考えられていたのです。
→ 上に見られるような問題還元的な思想は、そうした新左翼運動の「資本制=すべてのルーツ」説をひっくり返したものです。RMは、あらゆる問題の根っこにあるのは資本制ではなく男性優位体制だ、という説を示すことで、新左翼運動的な思想を転倒させたのです。
→ いつか詳しく紹介できればいいのですが、こうした「男性優位体制がすべての問題のルーツ」説では、引用した箇所にあるように、「少数の男に権力が集中する」ということが注目されます。ここに注目すると、レイシズムは次のように説明されることになります。まず、レイシズムは、白人による黒人の抑圧(=白人が人種を理由として相対的に特権を得ること)だと考えられていますが、そうではありません。それはまず第一に、白人の男性による、黒人の男性の抑圧です。白人中心的社会では、全ての白人が特権を得ているわけではありません。そこで特権を得ているのは白人男性だけだ、と考えるのです。そうして、白人男性と黒人男性のあいだに生まれる権力のヒエラルキーは、間接的に女性たちのあいだにも影響します。つまり、白人男性と一緒にいる(=結婚している)白人女性と、黒人男性と一緒にいる(=結婚している)黒人女性のあいだに、権力のヒエラルキーが生まれます。結婚相手である男性同士にヒエラルキーがあるので、それが間接的に女性たちのあいだにも影響を及ぼすのです。そうした女性のあいだの権力の不均衡も、もちろんレイシズムの現れの1つです。とはいえ、それは派生的なものだと考えられます。白人女性が直接に黒人女性に優位に立っているのではなく、白人男性が権力を独占するという「男性優位体制」から派生した問題として、女性たちの間に権力の差異が生まれている、と考えるのです。こうして、レイシズムという問題の根っこには「少数の(白人)男性による支配」があることになります。レイシズムは、それだけで単独で存在しているのではありません。それは、少数の男に全ての権力が集中するという「男性優位体制」から生まれた、ざっくり言えばセクシズムからの派生物なのです。そういうわけで、白人女性が黒人女性よりも社会の中で恵まれた立場にあったり、フェミニズム運動のなかで指導的な立場にあるのは、「男性優位体制」のせいだ、ということになります。悪いのは、男性優位体制なのです。
→ 繰り返しますが、こうした問題還元的な思想は、非常に問題のあるものだと思います。実際、ラディカルフェミニズムを含む「第二派フェミニズム」は、そののちその内部からブラック・フェミニズムによる厳しい批判を被ることになりますが、その歴史にはこうした背景があったことを忘れていはいけないと思います。これは単なる想像にすぎませんが、レッドストッキングス内部でRace(人種)の問題を取り上げて、運動内のレイシズムについて問題提起をしようものなら、きっとこう言われたことでしょうーーー「大きな問題を見失うな」、と。

4.変わるべきは男性

男性たちの肩から〔抑圧者たることの〕責任を取り去り、諸制度や女性たち自身にその責任を移し変える、様々な試みがなされてきた。私たちは厳しく非難する。そのような議論のやり方は逃げ口上である。制度がそれだけで〔女性たちを〕抑圧しているのではない。諸制度は、抑圧者にとっての単なる道具にすぎない。「男性たちも女性たちも、どちらも同じように制度の犠牲になっているのだ」、と制度を非難することは、女性たちを服従させることから男性たちが利益を得ている事実を曖昧にしてしまう。そのような制度への非難は、「自分たちは抑圧する者とならざるを得なかったのだ」という言い訳を男性たちに許す。(RMⅣ)

→ ここは、1/3で紹介した、「制度ではなく男が悪い」という主張がはっきりと見えている箇所です。男性優位体制、そしてそれと結びついた性役割システムは、確かに「制度」として存在しています。しかし、それが制度だからと言って、男性には女性差別の責任がない、ということにはなりません。男性たちは、その制度から間違いなく利益を得ているのですから。
→ そういうわけで、「男もつらいよ」的な発想がレッドストッキングスは大嫌いです。男性優位体制や性役割システムは、男性も女性も否応なく巻き込まれてしまいます。とはいえ、それは男性に利益を分配するようにできているのですから、その事実を無視してはならないのです。

それとは全く反対に、どんな男性にも、自らのもつ優越的な立場を手放すことは自由にできるはずである。その男性が、他の男性たちによって女のように扱われることを自らすすんで望むならば、の話だが。(RMⅣ)

→ ここは、一種のレトリックではありますが、ラディカルフェミニズムらしさが見えている箇所だと思います。つまり、女性差別はとにもかくにも「男性が」「誰かを女性として扱うこと」から生じているのだ、ということです。女性差別の原因は、女性が女性であることにではなく、女性が「女性扱いされる」ことにある、ということです。
→ そしてそのとき、「女性扱いされる」ことには実体的(≒物質的≒身体的)基礎は必要ない、ということも上のパッセージでは書かれているように思います。男性(とされている)人たちも、優越的立場を放棄することはできる。ただし「女扱い」されることを男性たち(=男性扱いされてきた人たち)は望まないだろうけれど、と皮肉を込めて言っているのです。
→ 男性と女性は、性役割システムや男性優位体制から独立に存在しているのではありません。存在しているのは、誰か(=男性)が誰か(=女性)を「女性扱いする」という関係性だけです。そして、その関係性が女性(という扱いを受ける人々)を抑圧するよう機能しているのが問題なのです。
→ ちなみに、上の個所に直接関係するわけではありませんが、現代のTERF的な主張のなかに、トランス女性が被っている抑圧は「女性として被っている抑圧」にすぎず、シス/トランスのあいだには権力関係は存在しない、というものがあります。トランス女性が差別されているのだとしたら、それは女性差別のせいであり、だから「トランス差別」など存在しない、ということです。いかにもTERFらしい主張ですが、シスノーマティブな前提と組み合わせると、RMの上のパッセージはもしかするとそういう馬鹿げた主張をサポートするために解釈されてしまうかもしれません。しかし、そうしたシス的前提を入れずに自然に読めば、このパッセージはむしろ、「男性」を割り当てられた人であるとしても、非男性(≒女性)として生きて「女性扱い」されるときにはシスの女性と同じ女性差別に苦しむ、ということを含意しているように思います。つまりトランスの文脈で言えば、トランス女性もシス女性と同様に女性差別に巻き込まれる、ということです。そしてもちろん、トランス女性はトランスジェンダーとしても差別を被ることになります。世の中の法律とか制度とか、考え方は、どれもことごとくシス中心的にできていて、トランスがふつうに生きていくことを想定して作られていないからです。ただし上のRMの「特権を手放す」という言葉は(Mt-)トランジションのことを主に念頭に置かれて書かれたものではないので注意。

5.プロウーマンライン

私たちは、女性たちが自分たち自身の抑圧に同意しているとか、あるいはその抑圧に関して責められるべきは女性たちであるとか、そういった考え方もまた拒否する。女性たちが服従させられているのは、思想‐教化(brain-washing:洗脳)の結果ではないし、女性たちが愚かだからでも、精神を病んでいるからでもない。女性たちの服従は、男性たちからずっと続く、毎日の圧力の結果なのである。(RMⅣ)

→ ここは、レッドストッキングス主流派が採用した「プロウーマンライン」のイデオロギーが明確に表れている箇所です。女性たちが抑圧的な思想を内面化しているせいで、事実上「洗脳」されているとか、その結果として女性たちは「すすんで」抑圧的状況を招いているとか、そういった発想にレッドストッキングスは立ちません。レッドストッキングスでは、女性たちは「男性たちから続く」「毎日の圧力」を踏まえて、そのなかで何とか合理的に生き延びていくために、結婚したり子どもを育てたりしているのだ、と考えられました。これは、「あなたたちは騙されている」とか「あなたたちが変わらなければならない」という仕方で、女性解放運動に参加しない女性たちを責め立てるような(一部の)運動家たちと距離をとる、ということを意味していました。女性たちは、変わる必要なんてない。これがレッドストッキングスを貫く哲学だったと言えるでしょう。

6.変えるべきは男

私たちは、私たち自身を変える必要などない。私たちは、男性たちの方をこそ変える必要がある。(RMⅣ)

→ 女性たちは変わる必要がない。だとしたら、変わるべきは男性たちだということになります。しかし、レッドストッキングスの主流派では、ただ「男性が変わるべきだ」ということが言われただけでなく、「男性を変える必要がある」と考えられました。男性が変わる、のではなく、男性を変える、のです。
→ けれども、「男を変える」ためには、「男と一緒にいる」必要があります。そして、実際レッドストッキングスでは、結婚制度の枠内で女性たちがそれぞれの夫(=男)を変えていくという政治戦略が採用されました。この政治戦略が何を前提とし、何を無視していたのかについては、1/3の記事で書いたのでそちらをご参照ください。

7.経験こそ教師

私たちは、私たちの個人的な経験が、そしてそうした経験についての私たちの感情が、私たちの置かれた共通の状況を分析するための基礎になると考えている。私たちは既存のイデオロギーを頼りにすることはできない。(RMⅤ)

→ レッドストッキングスの最初の活動が中絶についての公聴会を破壊することであったように、レッドストッキングスでは女性たちのことを女性たち抜きで決めることは問題だ、と考えられました。女性たちが語る、女性としての経験こそが、運動を導く唯一の根拠を提示すると考えられ、また女性たちの経験に根差すことのない(新左翼運動におけるような)イデオロギーには頼らない、とされました。経験が、すごく重んじられているのです。

私たちの主たる課題は、経験を共有し、私たちのあらゆる制度が性差別的な根拠づけを持っていることを公衆の面前で暴き出し、そのことによって女性たちの階級としての意識を発展させることである。コンシャスネス・レイジングは、「セラピー(therapy)」ではない。(RMⅤ)

→ そうした経験へのこだわりは、コンシャスネス・レイジング(CR)を重視するレッドストッキングスの思想につながっています。一人一人の女性たちの経験の背後に存在する、性差別。それを互いのやりとりのなかで暴いていくのが、CRの役目です。
→ さらにここでは、CRは単なる個人の心の癒しではなく、政治的ー階級意識の目覚めを促すものだ、ということが強調されています。「セラピー」ではない、と否定されているのは、この時代にCRに批判的だったラディカル女性たちが、CRはセラピーにすぎない、と言っていたからです。(例えば、The Feminists という運動体では、CRはしょせんセラピーなので政治的には無力で有害だとされました)

8.シスターフット

私たちは、全ての女性たちに自分たちを重ねる。私たちの最大の利害関心は、もっとも貧しい女性の、最もひどく搾取されている女性の利害であると、私たちは同定する。私たちを他の女性たちから隔てる、経済的、人種的、教育的また身分の上での特権を、私たちはすべて認めない。私たちは、他の女性たちに対して私たちが持っているかもしれないどのような偏見をも、それを見定め、また根絶していく決心である。(RMⅥ)

→ ここにはレッドストッキングスの「シスターフット」への思いが明確に表れています。女性たちの置かれている状況は、住んでいる国や地域、また人種や障害(/健常)などによって、お互いに全く異なっています。けれども、そんななかで女性という階級に属する者たちは連帯できる、一つになれると、レッドストッキングスは信じていました。「私たちは、姉妹たち全員に呼びかける。私たちと一つになり、共に闘おう。」(RMⅦ)。
→ そのために、女性たちのなかで最も恵まれない立場にある女性たちのことを自分事として考えよう(identify with)、と宣言されています。こうした、女性のことにエネルギーを注ぎ込んで女性たちと「同一化する(identify)」という発想は、レッドストッキングスとは異なるスタンスであるとはいえ、翌年1970年に発表されるラディカレズビアンのThe Woman identified Womanにも通じています。もちろん、後者が女性同士の関係(レズビアニズム)にフェミニズムの完成された形態を見たのに対し、レッドストッキングスでは結婚関係のなかでの政治が重視されたので、大きな違いも存在しています。 
→ なお、上の個所では「特権を、私たちはすべて認めない」とも書かれています。偏見も根絶やしにする努力をする、とも書いています。しかし、女性たちの(運動の)なかにある権力の不均衡は、そんなに簡単にはなくならないでしょう。偏見をなくす努力は大切ですが、「認めない」からといって、特権がなくなるわけではありません。ここには先ほどの還元主義的な思想と同じような問題が潜んでおり、若干見通しが甘いように感じてしまいますが、これについてはさっき詳しく書いたのでもう省略します。

私たちは、何が「革命的」なのかとか、何が「改良的」なのかとか、そんなことを〔左翼よろしく〕問うつもりはない。私たちが問うのは、何が女性たちにとって良いことなのか、ただそのことだけである。(RMⅦ)

→ なお、シスターフットの理念に基づいて、女性たちにとってよいことだけを目指すという以上のスタンスは、ところで黒人解放運動に倣ったものでもあるとされています。「何が革命的だとか、何が改良的だとか、そんなことはどうでもいい。問題は何が女性たちにとって良いことなのかだ」といフレーズは、アメリカの黒人差別撤廃運動の有名な指導者Stokely Carmichaelが1968年に宣言した「問題は右か左かではない。これは黒人の問題なのだ」という言葉を転用したものだとされています(Echolsさん著Daring to be bad の154ページの指摘)。ラディカルフェミニズムが思想や理論の点で黒人解放運動を師匠としていることについては何度か書いてきましたが、ここはその典型的な箇所だと言えるでしょう。そしてもちろん、このスタンスは男性優位体制を単独の問題として見定めたラディカルフェミニズム運動だからこそ可能になったものでした。

9.終わりに

 以上で、「レッドストッキングス・マニフェスト」の解説?は終わりです。長々と書いてしまい、本当に申し訳ありません。でも、読めば読むほど学ぶことの多いマニフェストなので、今回のこの記事で書いたことは、現時点でのわたしの限界を示すものにすぎません。それに、もっと精確にこのマニフェストを解説できる人は、わたし以外にもいると思います。
 ともあれ、これでレッドストッキングスを紹介する3本の記事が全て完結したことになります。もし、全部読んでくださった方がいたら、こんな素人の勉強にお付き合いいただきありがとうございます。
 わたしは、「Aセクシュアル・マニフェスト」という宣言文の源流を探すために、ラディカルフェミニズム運動の勉強を始めました。どこまでも中途半端ですが、こうしてレッドストッキングスの紹介・解説を完結できてとても嬉しいです。この間、病気が悪化したり、手術が延期になったりして散々でしたが、仕事を休職したことと、GD(性別不合)に理解のあるメンタルクリニックに通えていることもあって、なんとか時間を見つけて、ブログを書けました。1つ完結できて嬉しいです。(何より、ラディカルフェミニズム運動の勉強をしているとき、生きている意味を感じられます)
 もし、このシリーズを続けられそうなら、次はTi-Grace Atkinson(アトキンスン)が始めた The Feminists(ザ・フェミニスツ)という運動体を紹介したいと思います。レッドストッキングスとは違って、ザ・フェミニスツは異性愛主義を徹底的に批判した分離主義グループです。どうぞお楽しみに。