まめたさん書影

多様性・葛藤・リアル:遠藤まめたさんの本を読んで

 こんばんは。夜のそらです。
 今日は、最近読んだ本の紹介をします。遠藤まめたさんの『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』(新日本出版社)という本です。

 最初に注意していただきたいのですが、以下に書くことは、わたしの主観的な感想がほとんどです。なので、あまり真に受けないでください。ただし、この本は皆さんに安心しておすすめできる本です。

1.はじめに:Aセクシュアルとして

 タイトルにある通り、この本は「性」についての本です。そして、著者の遠藤まめたさん(以下「まめたさん」表記にて失礼いたします)は、トランスジェンダー男性の方で、また「にじーず」というLGBTユースのための場所を作る活動をしている方でもあります。そのため、この本は多様な性を生きる人の話、もっと簡単に言えばLGBTの話がたくさん出てきます。
 そうなると、Aセク・Aロマの人たちにとって最初に気になるのは、Aセクシュアル/Aロマンティックの扱いです。

 「そんなこといちいち気にするの?」と思われるかもしれません。でも、LGBTについての本を読んでいてAセク/Aロマが「いないこと」にされるというのは、私たちにとっては「あるある」現象です。あるいは、記述があるとしても、すごくミスリーディングだったりするのもしばしば。自分の性について悩んでいて、LGBTの本を読んでいるのに、いないことにされるなんて、悲しいと思いませんか?

 さて、この『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』ですが、Aセク的にも安心して読める本です。(びっくりしました。)

 まず、この本の「序章」は「LGBT入門」という感じになっていて、「性の4要素」という言葉によって、性の多様性を説明しています。その4要素は「①生物学的な性(sex)」「②性自認(gender identity)「③性的指向(sexual orientation)」「④性表現(gender expresstion)」の4つです。
 もちろん、「③性的指向」の説明文は「どのような性別の相手に恋愛・性愛的な魅力を感じるか」となっていて、Ace/Aroコミュニティ的には、「性愛と恋愛をまとめて「性的指向(sexual orientation)」って呼ぶのそろそろやめにしませんか?とは思いますが、それでも、まめたさんはAセクシュアルのことをしっかり理解してくださっています。
 19ページが「③性的指向」の詳しい説明なので、引用しておきますね。

 性的指向とは、どのような性別の相手を好きになるかをあらわす概念だ。異性を好きになる人を異性愛者(ヘテロセクシュアル)、同性を好きになる人を同性愛者(男性の場合をゲイ、女性の場合にはレズビアン)、「男性も女性も好きになる」あるいは「そもそも男とか女とかそんなに重要か?」と捉えている人を両性愛者(バイセクシュアル)と呼ぶ。ほかには、他人に性的欲求を抱かないA(エイ)セクシュアルの人や、恋愛をしない人などもいる。(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』19ページ)

 まず、Aセクシュアルに言及されていて、嬉しいですね!
 次に、Aセクシュアルの説明も、正確です。その直前までは「好きになる相手」という曖昧な言葉でヘテロ・ホモ・バイを説明したあと、「誰にも好きにならない」という風にAセクシュアルを説明するかと思いきや、「他人に性的欲求を抱かない」という風に書き直していて、Aセクについてのきちんとした理解のもとでまめたさんが書いてくださっていることが分かります。なぜこれが正確かと言うと、Aセクについての最も広く受け入れられている「他者に性的に惹かれないこと」という定義のなかで、「性的に惹かれる」という部分は、通常「その相手に対して(その人と/その人に性的な行為をしたいという)性的な欲求を持つこと」を指すからです。
 つまり、「他者に性的な欲求を抱かない」というのは、Aセクコミュニティでの定義をかなり正確に言い換えたもの(のひとつ)ということになります。
 さらに、ここで「性欲」と書かずに「性的欲求」という言葉を使っているのも、ポイントです。どちらも英語で言えば「sexual desire」ですが、日本語の「性欲」には「libido/sex drive」の意味も含まれてしまうので、上の説明を「性欲」にしてしまうと、大きく正確性は下がります。まめたさんは、そこまで考えてこの言葉をチョイスしていると思います。
 加えて、Aセクシュアルとは別のものとして「恋愛をしない人」に言及されているのも、いいですね。もちろん、Aロマンティックという言葉にも触れてほしかったですが、AセクとAロマ(に相当するもの)を区別しているだけでも、好印象を持ちます。
 ちなみにですが、Aセクシュアルの「A」に「エイ」という読み仮名を振っているあたりも、まめたさんなりのこだわりが見えます。英語の「Asexual」の読み方は「エィセクシュアル」で、これを「アセクシュアル」と読むのは、日本語ならではというか、本当は変だからです。※Aロマンティックも一緒です。(「アセクシュアル」や「アロマンティック」という言葉を大切に思っている人のアイデンティティを否定するつもりはありません)。

 さて、とりあえずこの本が「Aセク的にも安心して読める本」であることはお伝えできたと思います。なんだか偉そうに評価していますが、こうした小さな表記で、わたしは傷ついたりプライドを損なわれたりしてします。だから、他の人にとっては「ささいなこと」でも、わたし(たち)にとっては、これは「ささいなこと」ではないのです。そして、この本は、大丈夫です。まめたさんは、Aセクシュアルについてよく分かっていてくださいます。皆さん安心して読んでください。

2.多様性

 これからは、わたしがこの本を読んで印象に残ったこと、心の中でふせんを貼ったところを紹介します。

 突然ですが、わたしは「多様性」が嫌いです。
 世の中はもっとカラフル・ダイバーシティがあった方がいいよね、なんて、これだけシスヘテロで健常者の日本人の人だけを優遇して、そうでないひとを制度的に差別したり、そうした人の自尊心を削って削って傷めつけてきたくせに、「何を今さら」と思ってしまいます。だから、(特に社会のなかのマジョリティの人や)政治家などが「多様性を実現したい」とか「多様性は強み」などと言っていると、心の底からうんざりします。

 まめたさんの『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』でも、「多様性」はキーワードです。でも、まめたさんの「多様性」は、わたしの嫌いな「多様性」とは、少し違います。
 第1章で、まめたさんは、ご自身が女子中学・女子高校に通っていたときのことに触れながら、お茶の水女子大学がトランス女性を受け入れることを正式な方針として発表したときのことを振り返っています。引用させていただきます。

 大体いつでもそうだ。トランスジェンダーを知らない人ほど眉をしかめてあれこで言うが、その横でトランスたちはひっそりと暮らし、「トランスジェンダーなんて人たちが新たに出現したら(※本文では強調点)、トイレはいったいどうすればいいのだ」なんて思考実験をしている人たちの横で、トイレでしれっと用を足している。
 まぎれていて、なじんでいて、問題にもなっていないのに、見つけ出して「男女の否定だ」とさわぎはじめる。女性として生きている人が、女子大学に入学する資格をゲットすることが、そんなに大げさな話なんだろうか。
 私自身はトランジェンダー男性で、中学・高校をうっかり女子校で過ごすハメになってしまった人間である。そんな女子校出身者として証言できることは、日本中の女子校には同性カップルがいるし、卒業後に男性として生きている人も結構いたということだ。
 すでに女子校には多様性が存在してきた。今に始まった話じゃない。
(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』49ページ)

 「多様性のある社会を作りましょう」という人がわたしは苦手だし、嫌いです。そこにわたしは、「新しく出現したLGBT」や、「これからやってくるガイコクジン」、「オリパラついでに社会に出てきた障害者」を、新しく社会に迎え入れてあげましょう、という上から目線を感じます。
 違うはずです。ずっと、いたはずです。LだってGだってBだってTだってXだってAだってPだって、外国出身の人や、外国に国籍がある人や、外国籍の親から生まれた人、障害者、病と共に生きている人、みんな、最初から居たはずです。みんなずっと居たけど、自分を表す言葉がなかったり、社会によって「いないこと」にされてきたり、「いてはいけないこと」にされてきただけです。
 まめたさんは、わたしの苦手な「多様性」の人ではありません。まめたさんはこの本のなかでずっと、「多様性はすでにある」ということを教えてくれます。社会が「男」と「女」の二つのジェンダーで切り刻まれる前に、もっと性のバリエーションがある時代を歴史に持つ地域が、あったこと。異性愛と同性愛がきっぱり分かれる前に、どちらともいえない性の関係が当たり前だった時代が、日本にだってあったこと。
 多様性は、「ニューカマー」を受け入れることで「これからできるもの」じゃないはずです。多様性は、「すでにそこに」あります。もし、それでもなお、あなたが「新しい存在」が到来することに怯えているのだとしたら、まめたさんはきっとささやくでしょう。「あなたの見えないところに、もういるんだよ。すでに確かに存在している人の、その存在をあなたは否定する?」と。

3.葛藤

 「多様性」はすでにある。でも、いろんなジェンダー、セクシュアリティ、民族、国籍、障害/健常のひとがいて、カラフルで色とりどりで、世界はハッピーーーー、になっているかと言えば、そんなことはありません。
 世の中には、特に私たちの住む日本には、いまだに深刻な女性差別があります。この女性差別は、そのまま「LGBT」のなかにも引き継がれてしまいます。女性の賃金は、男性の賃金の7割くらいなので、男性カップルと女性カップルでは、(どちらも共働きと仮定したとして)大きな経済格差がうまれます。当然、「レインボー市場」を狙っている大企業は、ゲイ男性にアプローチします。また、男性の声は女性の声よりも通りやすいので、「LGBT」の運動が「G」の人メインになってしまうという話は、海外でもよく聞きます。それに今では、「LGBT」のたった4つの頭文字のなかでも、対立が起きていて、「T」を排除しようとするグループの排除が目立っています。(書いていて本当につらいです。)
 「LGBT」コミュニティからの排除という点で言えば、Aセクシュアルも同じ難しさに直面しています。確かに、Aセクシュアルは社会のなかでの認知度が低いので、ホモセクシュアルの人やトランスジェンダーの人とは違って、明示的な差別のターゲットにされたことはないのですが、だからと言って「Aセクシュアルは抑圧されていないのだからLGBTの輪に入るな」という風に排撃しようとする人がいるのは、理解ができません。(でも、英語圏にはそういう人が本当にいます)。
 もちろん、セクシュアリティやジェンダーだけでなく、エスニシティや障害/健常による違いも、場合によっては大きな問題になります。アメリカのプライドパレードなどを見ていて、白人の健常者ばっかりだと、不安になりますよね。それに、Aceコミュニティが英語中心主義・白人中心主義だというのは、結構前から言われていて、気を付けないといけないことです。
 まめたさんは、そんな「多様性のなかのジグザク」に敏感です。白人ゲイのひんしゅくを買いつつも、殺されてしまった黒人レズビアンの仲間の名前を書いたマネキンをプライドパレードに連れて歩く南アフリカのレズビアンいの話を紹介しながら、まめたさんは次のように言います。

LGBTコミュニティとひとくちに語られることは多いが、性別や人種、収入などによって直面する差別はちがっていて、コミュニティの中で、いつもそれは対立のタネになっている。多様性はいつでも葛藤と一緒にある。
(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』80ページ)

 多様性のなかには葛藤がある。「ひとつにまとまること」が大きな力として感じられる。SNSでそうした機会を手に入れた時代だからこそ、多様性のある現実に目を凝らし、そのなかにある葛藤に、いちいち気づける人でありたいとわたしは思います。それはきっと、Aセクシュアルコミュニティが、Aロマを抑圧したりしながら、間違いを犯しつつ、反省してちょっとずつ前に進んでいるのと、同じスタンスだとわたしは信じたいです。

4.リアル

 この本を読んで何よりも抱く印象は、まめたさんが「リアル」を大切にする人だということです。出てくる登場人物や、エピソードは、一部を除いて、みんなまめたさんが実際に体験したことや、まめたさんのお知り合いのこと、またまめたさんがお話を伺ったことばかりです。
 それもそのはず、まめたさんは活動家(?)で、「にじーず」のような活動をしていたり、性の多様性についての講演をしていたり、海外にも視察にも行ったりしているからです。
 そんななかで、これは想像でしかありませんが、まめたさんはきっと、いろいろな「リアル」を味わっても来たのだと思います。それは、必ずしもLGBT(などなど)について「よく知らない」人の存在です。
 とはいえ、よく考えたら、当たり前でもありますよね。教科書にだって、LGBT(や多数派ではない性のあり方があること)について書かれていないわけだし、法律婚だって異性(単)婚しか認められていないわけで、私たちからすれば「知っていて当然」のことでも、知らない人がいるのです。
 まめたさんは、そんな「リアル」にも、どこか割り切っています。「校長が全然理解がないんだよね…」と嘆く学校の先生に対して、「校長一人を責めても仕方ないんだよな」という風に、まめたさんは思うそうです。

 すごく印象的なエピソードが本の中で紹介されていました。それは「杉田水脈ではなかった彼」という(見るだけで首の奥が冷たくなるような名前の入った)小見出しがついた箇所で紹介されているエピソードです。
 ある勉強会でまめたさんが性の多様性についてお話した時、「種の保存とLGBTの関係についてどう思いますか」と質問した若者がいたそうです。まめたさんも書いている通り、とても「どきっとする質問」です。わたしがこんなこと聞かれたら、泣きながら何もしゃべれなくなると思います。
 まめたさんは、きちんと応えました。でも、まめたさんは「その質問は差別につながるよ」というピシャリとした回答は返しませんでした。そう答えることもできたのに、です。
 まめたさんはそこで、ご自身が学んできた生物学の話をしたのです。「種の保存は、全ての個体が生殖して子孫を残すこととは違う」、「自然界にも同性のペアを作る種は無数にある」、「自然淘汰(進化)の結果としていまの人類があるのだから、性の多様性はむしろ「種の保存」の結果かもしれない」、などなど……。そうして最後に「でも、そうした質問によって不安に思うひともいる」と付け加えたそうです。
 ここのエピソードを読んで、まめたさんは本当に素敵なひとだとわたしは思いました。そして、ある面では「遅れた」世間の無理解を嘆きつつも、それを割り切り、きちんとリアルに留まり、リアルの相手を信じているからこそできることだと、わたしは思いました。相手に考えるきっかけや、差別への気づきを与えるにはどうすればいいかを考えながら、きっと変わってくれるはず、分かってもらえるはず、という信頼があるからできる回答だと思いました。そして、それがとっさにできるまめたさんは本当にすごいと思いました。

 ここから少し、このエピソードを読みながらわたしが考えていたことを書かせてください。

 皆さんもご存知の通り、いまツイッター上では、(主に)トランス女性に対して差別的なことを言ったり、トランス女性の存在を否定したり、「犯罪者と見分けがつかない」などという理由で、生活のいろいろな権利を奪われて当然だ、という風に言うひとがたくさんいます。わたしは、そういう差別的な発言が本当に許せないです。細い尖った鉄の串で、体中を刺されて、もう心の血も流れないんじゃないかと思うくらいに辛かったときもあります。
 でも、そうした差別的な含みのあるツイートに共感してしまう人の一部分には、さっきの校長先生や、「種の保存」の質問をした若者のように、何も知らないだけの人や、学ぶきっかけを持てなかっただけの人も、含まれている気がするのです。
 もちろん、差別的な発言は許せません。一刻も早くやめてほしいし、責任もとってほしいです。
 でも、本当に悪意があったり、ふざけていたり、わざわざ海外の事例を紹介したりして差別を扇動している人のツイートに、思わず「いいね」を押してしまった人のなかには、もしかして、まめたさんのような人に出会えなかっただけの「知らないだけ」の人がいるのではないか、と思うのです。
 これは、わたしの無意味な期待かも知れません。それに、SNSの向こうにいる「リアル」なひとにアプローチすることは、SNS上ではできません。だから、いつも思います。どうしようもない、と。

 差別的な含みのあることを言っているアカウントや、それを好んで拡散しているアカウントに対して「差別をやめろ」ということは、大切なことだと思います。それは、差別に怯えているトランスを勇気づけるし、一時的な「火消し」や、差別の扇動の「無力化」につながると思います。でも、「トランス差別をやめろ」という引用RTを沢山もらっても、きっとその人は考えを変えないでしょうし、そんな引用RTを沢山もらっている当初のツイートに「いいね」した人は、その事実に気づかないかもしれません。
 だったら、どうしたらいいのだろう、と思います。そうして心の奥がどんよりしてしまいながら、それでもなお、わたしはツイッターのアイコンの向こうにいる「リアル」に、ほんの少しだけ、期待してしまいます。
 今はまだ2020年だから、と。いつかそんなひとも、まめたさんのような人に会って、変わってもらえるんじゃないか、と。あのときの「いいね」を後悔する日が、まだその人に来ていないだけなんだ、と。

5.百田尚樹と「永遠の0」

 ここまで、わたしが『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』の中で心に残った箇所について、皆さんに内容を紹介しながら、書いてきました。この本は、本当にぜひみなさんに読んで欲しい本です。
 そんななか、最後に一つだけ、ひとりのAセクシュアルとして、あるいは、ひとりのAロマンティック(のスペクトラムにアイデンティティを置く者)として、本を読んでいて気になった箇所があったので、書かせてください。
 それは再び、お茶の水大学がトランス女性の受け入れを正式に決めたときのニュースに関連する話です。このニュースを受けて、「心が女性の学生」などの報道のミスリーディングな言葉遣いを利用して、ふさげて酷い発言をしている人がいました。作家の百田尚樹氏です。
 百田氏は、お茶の水大学が「男」を受け入れるようになった、あるいは「心は女性」と言いさえすればだれでも入学できるようになった、という風にニュースを曲解して、「自分も2020年にお茶の水大学の入学することを目指すぞ!」という内容のツイートをしました。
 これは、生まれたときに割り当てられた性と異なる性を生きることを余儀なくされた、あるいはそれを選んだ(選ぶ以外になかった)トランスジェンダーの葛藤をあまりにも軽んじる、最低の発言だと思います。そして、トランス女性を自分と同じ「男」扱いするという点で、トランス女性のアイデンティティを蔑ろにするものだし、これからお茶大の入学を目指そうとしていたトランス女性の人たち(その多くは未成年です)を馬鹿にする発言です。そして、おそらくは長い時間の検討を経てその日の発表を迎えたお茶の水大学に対しても、敬意を欠くと思います。
 この百田氏の発言に対して、この本でのまめたさんは次のような皮肉を送っています。

 なお、「よーし、今から受験勉強に挑戦して、2020年にお茶の水女子大学に入学を目指すぞ!」とツイートした作家の百田尚樹さんに対しては、女子校に行けばモテるのかといえば、女子たちも人間を見ているのでなんともいえない、という女子校出身男子からのアドバイスをしておきたい。色恋の数が「永遠のゼロ」と言うこともありうる。
(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』50ページ)

 「永遠のゼロ」は、百田氏の小説のタイトルなのですが、わたしはこの箇所を読んで、一瞬何が起きているのか全く分かりませんでした。
 百田氏が、トランス女性の存在やアイデンティティを軽視する発言をした。「自分もお茶大を目指すぞ」と言った。―――それがどうして、「モテ」や「色恋」の話に関係あるのか、分からなかったのです。そして、今もそのことは分かりません。
 百田氏は、女子に「モテる」ために女子大に入学しようとしたのでしょうか。そのようにはっきりと書いていたのなら、まめたさんの皮肉には文脈があるのでしょう。でも、本を読んでいるだけでは、その文脈は見えませんでした。わたしには、突然「モテ」と「色恋」が猛スピードで車線変更をして割り込んできたように見えました。百田氏のような「男」が、(ふざけた冗談とはいえ)女子校にわざわざ入ろうとする。その理由は、きっと女子たちに「モテたい」に違いない。ここには、そうした解釈の枠組みが存在するように見えました。でも、その解釈の枠組みは、あまりに唐突に姿を現したので、わたしはぎょっとしてしましました。
 でも、こうした経験は、Aセク/Aロマとして生きていれば、実は世の中にあり触れたものです。何となく仲良くしていたひとに、「恋人と間違われる」という理由で疎遠にされる。友達だと思っていたひとから「わたしたち付き合ってるよね?」と言われる。異性と一緒にいるだけで「付き合ってんの?」と聞かれる。一緒に冒険をしていただけの2人が、映画のエンディングで突然「結ばれる」。こうした「ぎょっとする」経験は、わたし(たち)には人生でしょっちゅう出会うものです。世の中は、「恋愛」という名の強力な解釈の枠組みによって、すみずみまで支配されていて、それは、望むと望まざるとを問わず、否応なく私たちの言葉や行動を「恋愛」の文脈で意味付けしようと割り込んでくるのです。
 Aセクシュアルについて正確な理解を持ってくださっていることが「序章」で分かり、とても安心して読んでいただけに、そのぶんなおさら、上の箇所での「モテ」と「色恋」の車線変更には、びっくりしました。大げさではなく、心臓が止まるかと思いました。
 そして、ささいなことにこだわるようで自分でも嫌になるのですが、「色恋の数が『永遠の0』」という皮肉は、本当に必要だったかな、と思います。確かに、不遜で、差別的で、トランス侮辱的な人に対して「お前なんか女子大に入ったってモテないよ」と言ってやりたい気持は分かります。でも、そこでほんの1歩でも、世の中の「モテ=色恋至上主義」という価値観や規範の踏み台に乗ってしまうと、Aロマ(/Aセク)の私たちは、そこで一緒に踏まれてしまいます。「モテる」ことや「色恋」の関係が何よりも大切で、恋愛(&性愛)がうまくいっていることこそが人間にとっての価値であるという、世の中のマジョリティの考え方に、Aロマ(/Aセク)の私たちは日々精神を削られています。

 素晴らしい本の紹介の最後に、ささいなことを書いてしまい申し訳ありません。でも、Aセクシュアルの説明という「ささいなこと」から始まったこの紹介記事ですから、最後も「ささいなこと」で終わることをお許しください。これは、ひとりのAセクシュアルの、ささいな感想と本の紹介に過ぎません。

 多様な「性」は、もうすでに存在しています。そのひとりひとりの多様な「性」が大切にされる社会は、これから作らなければなりません。どうか、この本がたくさんの人に読まれますように。

※一番上の書影は商品紹介のサイトに掲載されているものを使用させていただきました。