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「制度としての性交渉」(Atkinson:1970)

 こんばんは。夜のそらです。この記事はラディカルフェミニズム運動についてまとめている記事の一部です。そして今日は、Ti-Grace Atkinson(アトキンスン)が書いた論考「制度としての性交渉」の紹介をします。

この記事をTERF/SWERF(トランスジェンダー/セックスワーカーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。あなたのような愚かな人間には、わたしの文章は1ミリも理解できません。すぐに立ち去りなさい。恥を知れ。

0.翻訳について

 今日の論考のもともとのタイトルは「 The Institution of Sexual Intercourse」です。直訳すれば「性的挿入の制度」になりますが、本文を読めばでこの「of」は同格であることが分かりますし、逆に「sexual intercourse as an institution」という表現も出てくるので、「制度としての性的挿入」と訳してもいいかもしれません。ただ、この論考で「intercourse」を「挿入」と訳すべきなのかは、悩みどころです。アトキンスンは、intercourse という言葉によって、ただ男性がペニスを膣に挿入することだけでなく、「性器(とされている器官)を相手の身体に挿入したり、相手から身体に挿入されたりする活動」を指しているからです。ようするに、挿れたり、挿れられたり、ということで、一言で言えばPVセックスのことです。そのため、「挿入」とだけ訳してしまうと、そういう性的な相互行為であることが分からなくなってしまいます。実際、アトキンスンは論考の中でペニスを膣に挿入する行為だけを指して「penetration」という語も使っています。こちらは、あきらかに「挿れること」だけを指しているので、「挿入」と訳すべきです。
 問題の一端はおそらく、男女のPVセックスを指すための言葉として、intercourse(英語) や「挿入」(日本語) という男性目線の言葉ばかりが存在し、それに比べて、挿入を受け入れる側の目線の言葉が少なかったり、挿れたり/挿れられたりする相互行為を言い表す言葉が少ないことにあります。ですから、アトキンスンがそうした相互行為を intercourse という語で呼ばなければならなかったのは、言葉が少ないからかもしれません。
 しかし、もしかするとアトキンスンには intercourse という語を使う積極的な理由もあったかもしれません。それは、PVセックスという「相互行為」は、実は男性たちのニーズによって制度化されたものであり、実際には男性目線の「挿入行為」という一方的な営み(×相互行為)になっているではないか、という考えをアトキンスンが持っているからです。そうすると、この intercourse は文字通り「挿入」のことを指していることになります。
 とはいえ、やはりこの論考の紹介をするときに intercourse を全て「挿入」と訳してしまうと、誤解を招く個所が多くなるので、今回はすべて「行為としてのPVセックス」という意味で、sexual intercourseは「性交渉」と訳すことにします。アトキンスンがここで論じているのは、親しい男女はセックスをすることになっているし、セックスをするべきだとされているけれど、それって女性を抑圧する男性優位体制(male supremacy)の構造から生み出された考え方なんじゃない??ということです。ざっくり言うと、男女はセックスをするものだ、という言説は、女性差別的な社会が生み出した政治的な言説にすぎず、PVセックスは「愛の営み」でも「本能の発露」でもなく、1つの「制度 institution」になってるんじゃない??というものです。要するに、「性交渉(セックス)」という最もプライベートなことには、実は政治的な背景があるんじゃない?ということです。
 ここまで説明すれば、もう大丈夫だと思います。わたしは sexual intercourse を「性交渉」と訳しますが、これは第一に、上のような文脈からターゲットされたPVセックスを指しており、第二に、「挿入」と訳すことも可能な言葉です。それを頭において、お読みください。
 ちなみに、この「性交渉という制度」には、日本語訳があります。前回紹介した「膣オーガズム神話」と同じように、この元々の論考は Notes from the second year に収録されていましたので、その抜粋訳である『女から女たちへ』(合同出版:1971年)に訳出されています。ただ、「膣オーガズム神話」と違って、こちらの翻訳はかなり質が低いです。アトキンスンの英語は、あるべき接続詞がないため文脈が追いづらかったり、そもそも論理の運びが2段飛ばしくらいで進んでいくので、翻訳した方はおそらく大部分の中身を理解できなかったのだと思います。そのため、無理やり直訳を試みただけの個所が目立ち、訳し落としている文もいくつかあります。(なお、論考のタイトルは「制度化された性交渉」と訳されていて、おそらくわたし(夜のそら)と同じように悩んで sexual intercourse を「性交渉」と訳したものと思われます。)
 これから「性交渉という制度/制度としての性交渉」の紹介をします。網掛け部分は、わたし(夜のそら)による原文からの翻訳です。原文は上の Notes: second year を使いましたので、そのページ数を添えておきます。 

1.「膣オーガズム」神話の由来

 アトキンスンのこの論考は、「膣オーガズム」の由来を分析することから始まります。そして、前回紹介したコートの「膣オーガズム神話」で示されているような考え方を、アトキンスンも共通認識として持っています。当時のラディカルフェミニズム運動のなかでは、「膣オーガズム」が男性の作り出した神話であるという発想は、広く共有されていたのでしょう。
 ちなみに、前回のコートの「膣オーガズムという神話」はこちらの記事になります。(感想をメールしてくださった方もいて嬉しかったです)

 アトキンスンが面白いのは、この「膣オーガズム」神話が生み出された原因を、「結婚」という制度が危うくなったせいだ、と分析している点です。

膣オーガズムの理論が0から創造されたのはごく最近のことである。それは、女性のための自由を求める女性たちからの、ますます増大する要求によって脅かされ続けている、ある社会的な制度の土台の一部を補強するために作り上げられたのである。(42)

ここで、自由を求める女性たちによって「脅かされている」社会制度とは、結婚制度のことです。結婚という制度が、女性たちの自由を奪っている。女性たちは結婚制度に組み入れられることで様々に搾取されている。可能性を潰されている―――リベラルフェミニズムを含めて、こうして女性解放運動によって批判され始めた「結婚」という制度、そして男女が番(つがい)になるべきだという発想を今いちど支えるために、「膣オーガズム」という理論が最近になってでっち上げられ、広められているのだ、とアトキンスンは言います。(ただし、リベラルフェミニズムは結婚は批判するけど膣オーガズムは批判しないから駄目だ、とアトキンスンは不満を漏らしています)
 その理論=神話の創造主としてアトキンスンが名指すのは、コートと同じくやはりフロイトです。「幸せな結婚」という名の、閉鎖的で排他的な環境で、「主人」である男性に従い、子どもを育てたり家事をしたりと言った奉仕的な仕事だけに従事すること。そうした「女性としての役割」に適応できず、あろうことか結婚制度そのものに疑問を持ち始めた女性たち。その女性たちを再び「女性の本来の役割」へと差し替えすための理論が、この「膣オーガズム」という神話なのだとアトキンスンは言います。結婚制度が脅かされていて、そこにある男女の番(つがい)という発想を何とか支えるために、焦って「男性とセックスすることで女性はオーガズムに至るのだ」という神話が動員された、というのですね。

2.制度としての性交渉

 アトキンスンによれば、挿入によって生まれる「膣オーガズム」は、女性のバイオロジーに反しています(このアトキンスン=コートの主張が事実に即しているかどうかは今は問いません)。にもかかわらず、そのような膣オーガズムの存在が強引に唱えられている。そうした強引な理論構築が示しているのは、「性交渉という概念が政治的な構築物であり、それは制度として具体的な姿をとっている」(42)ということです。
 ここで「構築物」と訳したのは construct です。構築されたもの。作り上げられたもの。という意味です。つまり「性交渉」は、誰かが特定の政治的な目的を持って、それを実現するために「作り上げた」ものだ、ということです。アトキンスンはさらに、性交渉は現実に「制度」として存在している、と言っています。ここで「制度 institution」という言葉を、アトキンスンは次の意味で使う、と注釈がついています(42ページ)。

*この論考で使われる「制度」という語の定義は、ジョン・ロールズによる「慣習 practice」の定義と、ウェブスター辞書における「制度的 institutional」の定義の組み合わせである。
ロールズの「慣習」の定義:官庁や役職、異動、罰則、弁護、等々を定義する、ある規則のシステムによって特定されるあらゆる活動。またその規則のシステムは、諸活動にその構造を与えるものである。
ウェブスター辞書の「制度的」の定義:社会的、事前的、教育的な活動を果たすために機能するよう組織されたもの

(この重要な定義説明が『女から女たちへ』の翻訳では脱落しているのですが、)この定義を見れば、アトキンスンが「性交渉は制度である」というパッセージでどのようなことを考えていたかが分かります。アトキンスンは、性交渉をそれ単独の営みとは考えていません。アトキンスンは、性交渉は構造化されている、と考えていて、それよりも大きな規則のシステムによって貫かれている、と考えているのです。
 ちょっと難しくなっていますが、そんなに複雑ではないと思います。性交渉は、誰と誰が、どのようにすべきなのか、私たちはそのルールを何となく知っています。長く付き合う恋人とのセックスは「正しいセックス」で、一夜限りのセックスは「あまり正しくないセックス」で、きょうだいのあいだでのセックスは「絶対に正しくないセックス」です。結婚している男女間でのセックスは「すごく正しいセックス」で、既婚者がパートナー以外の相手とセックスをするのは「典型的に正しくないセックス」です。このように、どんな相手とセックスをすべきなのか、というルールがこの世には存在しています。それだけでなく、セックスには「どのようにすべきか」というルールも存在しています。「最も正しいセックス」は、ペニスを膣に挿入するセックスです。「やや正しさで劣るセックス」に、オーラルセックスがあります。逆に、アナルを用いたり、BDSMとしてなされるセックスは「正しくないセックス」だと、世の中ではされています。
 このなかで、結婚という状態が特別に(PVセックスという正しいやり方の)セックスを正当化しているということは、注目に値します。婚姻にはPVセックスがあるべきだ、と考えられているのです。これは、ルールのなかで最上級に重要なルールです。そして、同時にここで想起すべきなのは、1970年当時は、男性(夫)は妻に対してセックスをいつでも要求する権利がある、という考え方がまだ根強かっただろうということです。現在でも、権利と言わないまでも、夫が妻にセックスを要求して、それを断りづらい、といったような関係性は(男女が逆転するケースよりもはるかに多く)ひろく存在していると思います。そして、このアトキンスンの論考が、婚姻制度を強く批判する女性解放運動の文脈と、「膣オーガズム」神話批判の文脈を受けづいていることも、忘れてはなりません。つまり、さっき見たような「あるべきセックスのルール」は、女性を抑圧された状態に置くような構造から生み出された、その内部にあるようなルールなのです。
 
 そういうわけでアトキンスンは、「性交渉」という営みを、女性を抑圧された地位に置く男性優位体制という大きな差別構造から生み出されたものとして考えています。つまり、その差別構造によってルールを与えられて、そのルールに従って生み出された実践が、「性交渉」なのです。
 もしかすると、あらゆるセックスはそれぞれ1回ずつ特別なのだ、それは制度などではない、と考える人もいるでしょう(――わたしには気持ち悪い発想ですが――)。でも、だったらどうして、世の中には「正しいセックス」と「正しくないセックス」がある(とされている)のでしょうか。どうして、結婚している2人のセックスだけが、こんなにも神聖視されているのでしょうか。大人同士が一定以上親密になると、セックスをすることになっているのでしょうか。もし、全てのセックスが「1回限り」のものだったら、こんなルールはありえないはずですよね。ですから、セックスという実践には、誰か1人の考え方ではない、明らかに普遍的な規範となっているようなルールが課せられていると考えるべきです。
 だとしたら、それぞれの性交渉を、そうしたルールによって在り方を定義され、そのルールをふくむ大きな社会構造が生み出したもの/その社会構造を支えるためのもの、として考えるアトキンスンの立場には、そんなにおかしなことはないと言えるのではないでしょうか。
 これが、性交渉が制度であるということです。

3.結婚神話に反駁する

 つまり膣オーガズムは、結婚にとって代わるような構築物なのである。この代用品を受け入れている女性たちにとっては不幸なことだけれども、政治的構築物としての膣オーガズムは、結婚よりもいっそう、女性たちの利益にならない。(…)結婚と膣オーガズムの、この両者に顕著な特徴は、どちらも男性の利益の点から作られた構築物であり、また女性の利益に反しており、またそのどちらも、驚くべきことではないけれど、男性によって考え出された構築物だということである。結婚も膣オーガズムも、どちらも女性の人間としての可能性に制約を課している(…)。どちらの構築物も、性交渉のなかで女性たちに割り当てられた役割の正当化(言い訳?)を試みているが、しかしその努力によって当初の搾取が軽減されることは決してない(43)

アトキンスンに言わせれば、人は異性と結婚するものだという発想も、女性は膣でオーガズムを得るものだという発想も、どちらも男性たちが自分たちの利益のために作り出した「でっちあげ」にすぎません。そして、その「でっちあげ」のなかに、先ほど見てきたような「制度としての性交渉」は位置づいています。
 そういうわけで、アトキンスンの次なる目標は、そうした「制度としての性交渉」を包み込むような、結婚と膣オーガズムについての規範(でっちあげ規範)を解体することです。そのためにアトキンスンは、その「でっちあげ」を正当化するような理屈を徹底的に論駁することを試みます。

 しかし・・・・・・・ここからのアトキンスンの記述は、論点を整理するために入れたと思われる記号の使い方がめちゃくちゃなうえに、論述も非常に混雑していて、また同じような話を何回も別の個所で繰り返すなど、とても読みづらいです(ほんとにぐちゃぐちゃです)。そこで、ここではわたし(夜のそら)の方でばっさり中身を整理しつつ、アトキンスンの議論を見ていきたいと思います。まずは、結婚の神話から。

結婚についての論敵の理屈(A)
女性には母性本能があり、子どもを産み育てることを欲している。現実に、女性たちはみんな子どもを産んでいるではないか。

女性には母性本能があるから、女性は結婚しているのだ。だから結婚は男性の利益のためにある制度ではないのだ、と論敵は言うのですね。これに対するアトキンスンからの反論は、大きく分けて2つあります。

反論(A1)女性の身体が子を産むのにふさわしく作られていたとしても、それは女性が子を産みたいと望んでいることを意味しない。
反論(A2)女性は子を産むことで健康を害されることがあるため、女性の身体が子を産むのにふさわしい、とは言えない(→A1の前半は誤り)。

A1については、すぐ分かると思います。妊娠出産できる身体として、それに向いている機能が身体にあるとしても、それを望んでいることにはならないだろう、というシンプルな反論です。A2については、アトキンスンは妊娠と出産は女性の体形を大きく変化させ、明らかに女性に無理を強いていること、そして妊婦の死亡率が合衆国で以上に高いことを挙げます。
(なお、そもそもここで「結婚」について論じているはずが「母性本能=妊娠と子育ての本能」を論敵が持ち出していることにも、注意が必要です。論敵は、子を産み育てるという母性本能(――そんなものはないと思いますが――)ゆえに、女性は男性と結婚するのだ、と主張しているのですが、男性と結婚なんてしなくたって妊娠・出産はできますから、ここの論敵はそもそも意味不明なことを言っています。妊娠・出産と結婚と性交渉が恋愛を中心に3点セット!というロマラブイデオロギー、意味不明ですね)
 さて、A1やA2の反論に対して、敵はなおも次のように反論してくるかもしれない、とアトキンスンは言います。

結婚についての論敵の理屈(B)そんなに女性にとってリスクがある(=A2)にもかかわらず、現実に女性たちは子どもを産んでいる。その事実こそ、母性本能の存在を証明しているだろう。やっぱり女性たちは、子どもを産みたいと願っているではないか。それこそ母性本能だ。

この理屈に対するアトキンスンの反論は4つあります。

反論(B1)女性に否応なく子どもを産ませている制度的な強制が存在している、(B2)分娩室から聞こえてくる叫び声の説明がつかない、(B3)子を産んだ女性の多くが産後うつになっている、(B4)子どもの死亡原因の1位は親である。

B1については、多くの女性が子を産んでいるという事実から、女性たちが自ら子を持とうと望んでいる、という推論するのは間違っているという指摘です。子を産むように社会的なプレッシャーがかかっていたり、避妊のないセックスを家庭で夫から強いられていたり、といった背景があるので、ただ純粋に本能的に産みたくて産んでいるわけではない、ということです。B2~B4については、子を産み、育てる、ということが女性たちの「本能」だとしたら説明がつかないことが多すぎる、という反論です。(B4については、広い意味での虐待による死亡率のことを言っていると思います。)

4.膣オーガズム神話に反駁する

 続いて、膣オーガズムの神話に対する反駁です。論敵は次のように言って、膣オーガズムの存在を正当化しようとします。

膣オーガズムについての論敵の理屈(C)
性交渉という制度は、女性の性的本能を満たすためのもので、女性の利益にかなうものである。その証明は次の通り。
:男性には性の本能があり、それは性交渉においてペニスを膣に挿入したいという欲望である。
:その挿入によって男性はオーガズムという強い快楽を得る。
:ところで、そのオーガズムには「入れ物としての膣」が必要である。
:男性は本能に従ってペニスを膣に挿入しているが、ところで女性の側はなぜその膣を男性に提供しているのか。
:考えられる理由は、強制か、あるいは女性にとってもそれが利益になるか、のどちらかである。
:強制だとしたら強姦で、違法になる。だとしたら後者のはずである。
:性交渉は女性にとって利益がある。
:性交渉から男性が得る体験は、オーガズムである(↑2)。だとしたら、性交渉から女性が得る体験も、それと同じオーガズムのはずである。
:以上より、膣オーガズムが存在する。
10:また、女性にはPVセックスへの性的本能が男性同様にある。

現実にPVセックスが世間で行われていて、男性が(射精というタイミングで)オーガズムを得ている、という前提から、都合よく論理を進めていた結果、膣オーガズムの存在が導かれていますね。これに対するアトキンスンの反論は次の通りです。

C1:子を産め、という外からの強制が出来なくなったために、子を持ちたい=ペニスを挿れてほしいという本能を無理やり女性の内側に投影しているだけではないか。
C2:膣オーガズムが女性の生物学的なニーズであるはずがない。

C1については、膣オーガズムが要請された文脈(結婚制度の弱体化)を踏まえたものです。敢えて挙げるなら、上の推論のの部分をターゲットにしていると思います。C2については、アトキンスンはこれの根拠として、人間以外の動物には膣オーガズムへのニーズがない、そもそも膣は男のオーガズムに匹敵するような快楽を得るようにできていない、という2つの理由を挙げています。前者については、女性のPVセックスへの「本能」を、他の動物種を引き合いに出すことで否定するものです。後者については、コートと同じように、膣は女性が性的快楽を感じる中枢(センター)ではない、とアトキンスンは考えています。
 以上が、結婚神話(女性は結婚したがっている/結婚制度はそもそも女性たちの利益のためである)と膣オーガズム神話(女性は膣でオーガズムに至る/PVセックスは女性の利益のためになる実践である)に対する、アトキンスンからの反駁です。全体を通して、「本能」や「生物学」に訴えることでそれらを正当化しようとする論敵に対して、反駁するものでした。

5.性交渉に未来はあるか?

 これまで、「制度としての性交渉」の議論を順番に紹介してきました。性交渉は、男性の利益のために作り出された「結婚・膣オーガズム」という「でっちあげ規範」のなかに位置づいた、制度なのですね。
 しかしアトキンスンは、それを制度として批判するだけでは終わりません。次にアトキンスンが考えるのは、「性交渉から制度的側面を抜き去れば、そこには何が残るだろうか」という問いです。

性的関係(sexual relation)から制度的な側面が消え去ったとき、その性的関係が占めることになる地位や場所がどのようなものになるか、ということだけでも、少なくとも考察しておく必要がある。(45)

これまで、性交渉(セックス)は女性差別的な構造的背景をもつ制度なのだ、と批判してきたわけですが、それでは、そのような制度としての側面を完全に払しょくするような性的関係(セックス?)があるとしたらどうだろうか、とアトキンスンは問うのですね。
 アトキンスンはまず、「官能的特性 sensual characteristics」を、性にかかわる要素として抽出することを試みます。人間の5感にならぶ「第六感」として、官能的な刺激を受け取る経験を位置づけられないだろうか、というわけです。そして、「制度ではなくなった性的関係」があるとしたら、それはそのような「官能」を与え合うような実践になるのではないか、と議論を進めていきます。
 しかし、私たちがいま「性器」と考えているような身体の部位を刺激することで「官能」が得られるのだとしたら、そのことに他者は必要ありませんね。自分でそれを刺激することができるわけですから。そこでアトキンソンは、次のように問います。

(…)どうして、このような〔官能を与える〕接触のコンタクト(this tactile contact)は、他の人との接触でなければならないのか。この点について、私たちが思うに、性的な接触は生物学的なニーズの1つなのではなく、もともとは種の生存にかかわる社会的なニーズを充足させるための手段に過ぎなかったのである。(45)

最初に言っておけば、ここはアトキンソンの典型的な(悪い)思考パターンが見えている箇所です。アトキンソンは、現実に存在している身体の仕組みや、社会の構造について、怪しい進化論的な説明や、一見してポイントの分からない「原因探し」をしがちです。ここも、官能という「第六感」が誕生した理由として、私たち人類(the species)が社会的存在として存続していくという「社会的ニーズ」を満たすためにその「第六感」は発達してきたのだ、という仮説を提示しています。この説明ははなはだ疑問なわけですが、ともあれ、私たちの「性的快楽」について、いま信じられているような「性的本能」や「母性本能」などの生物学的な説明を与えるべきではない、とアトキンスンは考えているようです。
 しかし、こうした怪しい説明によっては、問題は解決していません。その第六感を刺激するという「官能」が社会的ニーズから発達してきたとして、そのことから他者の身体の接触によってその官能を得るべきだ、ということにはならないからです。むしろ、そうした「べき」こそ、アトキンスンが批判してきた母性神話と同様の「神話」に他なりません。
 そして実際アトキンスンは、この「社会的ニーズ」の仮説を提示した後すぐさま、それを撤回するかのように、問いを重ねていきます。

こうした〔他者に〕触れられる接触が快楽を伴うことについては、間違いなくこれから議論がされていくだろう。しかしこの「他者に触れられて快楽をる」ということは、正確には何を意味しているのだろうか?どうして、自分で触る(auto-contact)よりも、〔他者に触れられた方が〕より快楽があるのだろうか?2人のあいだのこうした身体的な接触は、誰の利益のためなのだろうか?そして、この利益の根拠〔その利益があるから接触が正当化される、というような根拠〕は何なのだろうか?(性的機関が感覚器官の一種だと仮定したとして)マスターベーションの方が、技術的な熟達や利便性、自分中心でできる等々の長所があるので好ましい、という強力な論拠がでてきたとき、いったい何の根拠があって、自分以外の他者がそこに関与することになろうか?何の根拠があって、その〔マスターベーションという〕経験に他者がポジティブな仕方で加わることができようか?(45)

アトキンスンは、明らかに悩んでいます。議論が混み入っていたとはいえ、先ほどまで論敵をバサバサと切り刻んでいたアトキンスンは、ここにはいません。官能を感じる感覚器官に、互いに触れ合う。そうした「性的関係」が、既存の「制度としての性交渉」の代わりに新たに出現するとしたら、どのようになるのか。マスターベーションではなく他者が関与する意味はあるのだろうか。。。
 アトキンスンが悩んでいる理由は、非常にシンプルです。ここで、他者がいてこそ性的快楽はより大きく得られるのだ、と言ってしまうと、再びアトキンスンは性交渉を「制度化=規範化」してしまう可能性があるからです。

ここで言われている快楽は、相互的でなければならないのだろうか。相互的でなければならないとすれば、なぜなのか?他の人に触れたいという欲求を、何が動機づけているのか?子の産出という、セックスの持つこの機能が取り去られたとき、子どもに触れることと、いわゆる「性的」な利害関心を抱いている相手である大人に触れることのあいだの区別は、(平均的な人にとって)どのように付けられるのか?(…)別々の人間が、とはいえ対等な仕方で、間接的/直接的に刺激を与え合うような、そういった同時調和的なシステムが、確立されなければならないのだろうか?しかしそんなことをしてしまったら、〔制度としての〕実践という振り出しへと戻されることになるのではないか?それをどうやって正当化するのか?そんなことをしたら、セックスを再び制度化することになるのではないか? (45-46)

アトキンスンは気づいています。これまで展開してきたように、制度化されたPVセックスを批判しつつも、「対等に性的刺激を与え合う関係」を新たに望ましい「性的関係」として提示してしまうと、それは結局、新しいセックス神話を作ることになってしまいます。それは再び、人間は官能という第六感をどのように互いに刺激しあうべきなのか、という仕方で、新しいセックスの制度を作ることになるのです。
 アトキンスンは警戒しています。そうして「対等な性的関係」に価値づけるような、そうした試みは、一番初めにアトキンスンが批判していた「制度としての性交渉」に回帰するだけなのではないか、と。それでは、元の木阿弥ではないか、と。純粋に刺激を与える・受けるという、制度の外部にあるはずの性的関係は、こうして再び「性的関係こそが望ましい」というルールに支配された「制度」になり下がるのではないか、と警戒しています。
 アトキンスンは気づいています。現在行われている性交渉から制度的な側面を取り除けば、「性的刺激による快楽の獲得」がそこには残るように見えるけれど、とはいえそれは、もともとマスターベーションで十分に獲得できるものではないだろうか、と。だとしたら、そこでなお「他者に触れてもらった方がいいのだ」と言いながら(今とは全く異なるはずの)性的な対人関係をなおも構想することに、いったい何の意味があるのだろうか。つまり、―――性交渉に未来はないのではないか、と。

6.目を殴られる

 アトキンスンは悩んでいます。でもアトキンスンは、なおもこの論考の最後まで、格闘を続けます。制度ではなくなった性交渉は、あるのだろうか。あるとしたら、どのようなものになるだろうか…。アトキンスンは、先ほどの「第六感」の理論をなんとか構築しようともがいています。
 もし、自分で触ったとき(=マスターベーション)と、他者に触ってもらった時とで、全く同じ感覚的刺激(官能)が手に入るのだとしたら、他者が存在していることの意味はどこにあるか。アトキンスンは考えます。それは、「他者に触られている」という事実そのものが、わたしにとって意味を持つのではないか、と。つまり、受け取る刺激(官能)は全く同一だけれど、かたや他者に触られている、という事実によって、「わたし」が心理的に得るものがあるのではないか、というのです。
 でも、そうして心理的に他者とつながる方法は、官能を与え合うような関係だけでなくてもいくらでもありえますよね。自分のために触ってくれている、という事実を通して、他者たちと世界に対する信頼を「わたし」は獲得するのだ、心理的な拡張が起きるのだ、とアトキンスンは言ってみたりもしますが、そうした信頼の形成が「第六感=官能」である理由はまったくありません。どうして、いつまでも(性的な身体の部位を)触ったり触られたりしなければならないのでしょうか。
 そうした理屈がとうに行き詰っていることに、アトキンスン自身が気づいています。そうして、この論考「制度としての性交渉」は、アトキンスンの苦悩のなかで幕を閉じます。これまで見てきたように、何とか心理的要素を入れたりして「制度ではない性的関係」の意味を探っていって、最後の最後にアトキンスンは言うのです。そんなものを想像するのはどだい無理な話なのだ、と。

これらはいくらかの提案にすぎない。感じるという感覚(sense of feeling)について私たちがもっている理解、あるいは直観などは、ほとんど無いに等しいのだから。おそらく、そうした感覚〔=純粋な第六感〕が存在するということを認めるということすら、殆どの人はしないだろう。それはまるで、視覚〔sense of sight〕についての理解を、パウルクレーのチュニジアの水彩画を見ることより、目にパンチをくらうことをモデルにして得ようとするようなものなのだから。(…)不幸なことに、私たちは後者の状況にある。だから、感じるという感覚についての理解を、性交渉という制度から推論しようなんて、そんな望みはありはしないのだ。(47)

見る(sight)とはどのようなことか。それを理解するためには、何かを鮮明に見るのが一番です。例えば、パウルクレーの絵画などは、鮮烈な視覚体験を与えてくれるでしょう。他方で、目をパンチされたとしたら、これはこれで、目に強烈なショックがあるでしょう。でも、そうして視界がぐちゃぐちゃになって、視界がじゃりじゃりになったところで、「見る」とはどのようなことかがよく分かるようにはなりません。むしろ、それは逆でしょう。目が潰れているわけですから。
 制度としてのセックスから、「制度化されていない官能」を理解しようとするのは、まるで目をパンチされる経験から視覚の本性を推論しようとすることだ、とアトキンスンは言っています。そんなこと、できっこありません。でも、私たちが「触れる=感じる」の第六感に近づく回路は、現在はそのパンチ(=制度としてのセックス)しかないのです。だから、その目を殴られる経験に基づいて、制度ではない純粋な「触れる/触れられる」の性的関係を構想しようなんて、無理な話なのです。
 アトキンスンの論考は、こうした断念によって幕を閉じます。私たちが知っているのは、制度としての性交渉だけです。この、目を殴られるような経験だけをベースにして、制度ではない性的関係をイメージしようなんて、そんなのは無理な話なのです。

7.Aセクシュアル・マニフェストへ 

 以上で、アトキンスンの論考「制度としての性交渉」の紹介は終わりです。序盤は論敵をバサバサと切り倒しているけれど、終盤に向けてどんどん閉塞感や絶望感が増していく、そんな不思議な論考です。
 ただ、アトキンスンが徹底的に考え抜こうとした問題は、間違いなく重要な問題です。それは、女性差別的な社会によってルールを与えられた、制度としての性交渉ではないようなセックスはあるのだろうか、という問題です。性的な快楽を得るということのために、他者は必要なのか、マスターベーションでは駄目なのか、という問いです。
 この問いに対する回答を、アトキンスンはこの論考で示すことができないでいました。でも、アトキンスンはもう答えのすぐ手前まで迫っているように思います。その回答は、きっと次のようなものです。

人と人のあいだのセックスは、本能的な振る舞い方のパターンなどではない。それは、私たちが(オーガズムのための)ニーズを満たすために利用することを学んできただけの振る舞いであり、しかしそのニーズは、私たちが自分自身だけで簡単に満たすことのできるはずのニーズであった。私たちは、こうした仕方で他者を利用することを搾取的なものとして見なすようになった。そして私たちは、他者たちが私たちをこのように利用することを許すとき、私たちは自分が搾取されることに同意しているのだということに、気づいた。(Aセクシュアル・マニフェスト(1972)より)

女性たちの結婚願望や母性本能は、神話にすぎません。膣オーガズムだって、神話にすぎません。そして、対人セックスに特別な意味がある、という「対人セックス信仰」も、そうした神話のひとつです。
 私たちには、もしかしたら、性的な快楽や、性的なニーズが存在しているのかもしれません。でも、そのニーズを満たすために他者とセックスをしなければならないというのは、社会による刷り込みでしかありません。むしろ、そこで自分の性的ニーズを満たすために他者を使うということ自体が、とても搾取的なことなのかもしれません。
 この回答は、1972年のAsexual Manifesto(Aセクシュアル・マニフェスト)が示したものです。アトキンスンは、この回答に手が届く地点に間違いなくいました。しかし、アトキンスン自身が「制度としての性交渉」(1970)以降にたどったのは、レズビアンの存在を激しく攻撃する無=性愛分離主義から、政治的レズビアンへ、という急転直下の転向でした。(アトキンスンその人については、また今度、運動体 The Feminists を紹介する記事でご紹介したいと思います。)

 ともあれ、こうしてまた1つ、Aセクシュアル・マニフェストへと通じるラディカルフェミニズム運動の思考の道筋をお示しできたことに、わたし(夜のそら)は満足しています。
 ぜひ、みなさんAセクシュアル・マニフェストを読んでください。わたしは、50年の時を超えて、このマニフェストに再び息を吹き込みたいのです。