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Redstockings(2)「レッドストッキングス・マニフェスト」(1969)全訳


 こんばんは。夜のそらです。この記事は、Redstockingsについて紹介する連載記事の2本目(2/3)です。そして、ここでは「レッドストッキングス・マニフェスト(REDSTOCKINGS MANIFESTO)」(1969年)を紹介します。レッドストッキングスという団体の活動や思想については、1本目の記事で書きましたので、こちらをご覧ください。

今から紹介するマニフェスト本体は、ここに公開されています。

既存の翻訳について

 この「レッドストッキングス・マニフェスト」には、既に3つの邦訳が存在していることが確認できました。一つは、Notes from the second yearという、ラディカルフェミニズム運動における伝説の雑誌を部分的に訳した『女から女たちへ』という本(訳:ウルフの会:1971年)に、この宣言文の全訳が含まれています。「レッドストッキングス宣言」は、印刷して無料で配られただけでなく、上記の雑誌にも収録されていたからです。かなり噛み砕いて訳してあり、誤訳に思われる箇所もありますが、この宣言文に通底する心からの怒りが訳者に共有されていることが伝わってきます。
 もう一つ、立命館大学「生存学研究所」が発行している『生存学研究センター報告書』24号(2016年)に掲載された論文の補足資料としても、この宣言文の全訳が公にされています。オープンアクセスで誰でも読めます。こちらは、直訳で気持ちがこもっていませんが、正確性は高いです。

 3つ目は、yuka(@yk264)さんが2015年に訳してグーグルドライブで公開してくださっているものです。単語の解釈は大胆ですが、全体として短くよみやすい自然な日本語に再構成してくださっています。わたしは既存の訳でこれが最も好きです。

 何より、このyukaさんの訳だけが、既存の3つの訳のなかで唯一、Manifestoの最終文を正しく理解しているとわたしは思います(生意気ですみません)。このManifestoは、The time for individual skirmishes has passed. This time we are going all the way. で終わるのですが、この2文は、1文目の「individual」と2文目の「We」が呼応していて、1文目の「The Time」と2文目の「This Time」が呼応しています。形容詞-名詞、名詞-副詞という組み合わせなので、対応関係に気づきにくくまた訳しにくいのですが、yukaさんはここを「それぞれがばらばらに闘う時は過ぎた。今こそみんなで、全力でやり遂げる。」とバッサリ訳していて、かっこよくてシビれました。
ただ、宣言文で一箇所「私たちは私たちを変える必要はない。男が変わるべきなのだ」と訳されている個所は、We do not need to change ourselves, but to change men. なので、「私たちは男を変えるべきだ」という風になるかなと思います。これはレッドストッキングスの政治戦略そのものにもかかわる重要な点です。)
 これらの邦訳はどれも素晴らしいです。今更わたしが訳す必要はないとも思います。それでも、それぞれの訳者がこの宣言文を訳した動機は、たぶん全く違います。1970年頃の女性解放運動を、アメリカと日本で共にリアルタイムで闘っていたウルフの会と、ドゥルーズなどの男性哲学者の思索も援用しつつ2016年に書かれた男性哲学者による論文の補足では、動機も、訳す意味も、全く違います。それは、きっと訳文にも表れるし、ウルフの会の前書きにある通り、誰がそれを翻訳するのか、というのはすごく政治的なことだと思います。なので、2020年を生きるAセクシュアル+Aジェンダーとして、わたしはこれを自分の手で訳します。ただし、繰り返しますがこの記事は合計3本の記事でなる記事の中間部分であり、以下はRedstockings Manifestoを引用する資料となります。

この記事をTERF(トランスジェンダーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。今すぐ立ち去りなさい。恥を知れ。

 レッドストッキングス・マニフェスト (全訳)

個々別々に繰り広げられてきた、先立つ政治的な闘いの諸世紀を経て、女性たちは男性優位体制(male supremacy)からの最終的な解放を手にすべく一つになりつつある。このように一つになること、そして私たちの解放を手にすること。レッドストッキングスはそのことを自らの使命として誓うものである。

II  女性は、一つの抑圧された階級である。私たちの抑圧は全面的で、それは私たちの生活のあらゆる面に影響を及ぼしている。私たちはセックスの客体として、子孫を残すための〔畜産の〕種畜として、家の召使いとして、そして安い労働力として、搾取されている。私たちは劣った存在として考えられており、その存在の唯一の目的は、男性たちの生活の質を高めることだとされている。 私たちが人間であるということが否定されているのだ。私たちに指図されている振る舞いは、物理的な暴力という脅威によって、いっそう強められている。 私たちは、私たちを抑圧する者たちと非常に長いあいだ親しく暮らし、互いにバラバラに切り離されてきたので、私たちは私たちの個人的な苦しみを政治的な状況の問題として理解することから遠ざけられ続けてきた。このせいで、幻想が生まれた。女性と、彼女の男とのあいだの関係は、二人の特殊な人格のあいだに生まれる相互作用の問題であり、そこに問題があるとすれば、それは個々のレベルで切り抜けることができるのだ、という幻想が。 現実にはしかし、そのような関係はどれも階級の関係である。そして、個々の男性たちと個々の女性たちとのあいだに生じる葛藤は政治的な葛藤であり、それを解決できるのは集団のレベルにおいてだけである。

III 私たちは、私たちに対する抑圧の行使者として、男性たちを同定する。 男性優位体制は、最も古く、そして最も基本的な支配の形態である。その他のすべての搾取と抑圧(例えばレイシズムや資本制、帝国主義)は、この男性優位体制の延長線上にある。男性たちが女性たちを支配し、少数の男性たちがそれ以外を支配する、ということである。歴史を通じて、全ての権力構造は男性の-手に握られ、男性の-方を向くものであり続けてきた。男性たちは、全ての政治、経済、そして文化的な諸制度をその手に握りながら、その支配を物理的な力によって裏支えしてきた。男性たちは、女性たちを劣った立場に留め置くために、その権力を用いてきたのである。男性たちはみな、経済的、性的、そして心理的な利権を男性優位体制から得ている。男性たちはみな、女性たちを抑圧してきたのである。

IV 男性たちの肩から〔抑圧者たることの〕責任を取り去り、諸制度や女性たち自身にその責任を移し変える、様々な試みがなされてきた。私たちは厳しく非難する。そのような議論のやり方は逃げ口上である。制度がそれだけで〔女性たちを〕抑圧しているのではない。諸制度は、抑圧者にとっての単なる道具にすぎない。「男性たちも女性たちも、どちらも同じように制度の犠牲になっているのだ」、と制度を非難することは、女性たちを服従させることから男性たちが利益を得ている事実を曖昧にしてしまう。そのような制度への非難は、「自分たちは抑圧する者とならざるを得なかったのだ」という言い訳を男性たちに許す。それとは全く反対に、どんな男性にも、自らのもつ優越的な立場を手放すことは自由にできるはずである。その男性が、他の男性たちによって女のように扱われることを自らすすんで望むならば、の話だが。
 私たちは、女性たちが自分たち自身の抑圧に同意しているとか、あるいはその抑圧に関して責められるべきは女性たちであるとか、そういった考え方もまた拒否する。女性たちが服従させられているのは、思想‐教化(brain-washing:洗脳)の結果ではないし、女性たちが愚かだからでも、精神を病んでいるからでもない。女性たちの服従は、男性たちからずっと続く、毎日の圧力の結果なのである。私たちは、私たち自身を変える必要などない。私たちは、男性たちの方をこそ変える必要がある。
 なかでも最もひどい中傷の類の言い訳は、「女性たちも男性たちを抑圧することがある」というものである。このような幻想を根底で支えているのは、個々人の関係性をその政治的な文脈から切り離して孤立させることであり、そしてまた、男性たちのもつ特権に対するいかなる正当な異議申し立てすらも、それを自分たちへの迫害と見なす、そうした男性たちの傾向である。

V 私たちは、私たちの個人的な経験が、そしてそうした経験についての私たちの感情が、私たちの置かれた共通の状況を分析するための基礎になると考えている。私たちは既存のイデオロギーを頼りにすることはできない。そうしたイデオロギーはどれも、男性優位体制による文化の産物だからである。私たちは、およそ一般化された語り口というものをすべて疑義に付す。私たちの経験によって裏付けられない一般化を、受け入れることはしない。
 私たちの主たる課題は、経験を共有し、私たちのあらゆる制度が性差別的な根拠づけを持っていることを公衆の面前で暴き出し、そのことによって女性たちの階級としての意識を発展させることである。コンシャスネス・レイジングは、「セラピー(therapy)」ではない。「セラピー」ということで含意されているのは、個々人のレベルでの解決が存在するということであり、これは男性と女性のあいだの関係性は純粋に個人的なものであるという誤った想定のもとに立つ。解放のための私たちのプログラムは、私たち自身の生存という具体的な現実に基礎を置いているが、そのことを確かなものとすることができる唯一の方法が、コンシャスネス・レイジングなのである。
 階級としての意識を高めること(raising class consciousness:レイジング・クラスコンシャスネス)のために最初に求められるのは、誠実さである。それは、私的領域においても公的領域においても必要なものであり、私たち自身に対する誠実さ、そしてまた他の女性たちに対する誠実さである。

VI 私たちは、全ての女性たちに自分たちを重ねる。私たちの最大の利害関心は、もっとも貧しい女性の、最もひどく搾取されている女性の利害であると、私たちは同定する。私たちを他の女性たちから隔てる、経済的、人種的、教育的また身分の上での特権を、私たちはすべて認めない。私たちは、他の女性たちに対して私たちが持っているかもしれないどのような偏見をも、それを見定め、また根絶していく決心である。私たちは、内部での民主制を達成することに身をささげる。私たちの運動のなかにいる女性は、どのような女性であれ、運動に参加し、責任を負うものとされ、その政治的な潜在能力を発展させるための機会を有している。そのことを確かにするために必要なことであれば、私たちは何であれそれをするつもりである。

VII 私たちは、姉妹たち全員に呼びかける。私たちと一つになり、共に闘おう。私たちは男性たち全員に呼びかける。あなたたちの男性特権を手放し、女性たちの解放運動を支えよ。それは、私たちの人間らしさのためであり、また男性たち自身の人間らしさのためでもある。私たちの解放のための戦いにあって、私たちはいつでも、女性を抑圧する者と対峙する女性たちの側につくつもりだ。私たちは、何が「革命的」なのかとか、何が「改良的」なのかとか、そんなことを〔左翼よろしく〕問うつもりはない。私たちが問うのは、何が女性たちにとって良いことなのか、ただそのことだけである。個々のレベルで小競り合いをする時代はもう過ぎ去った。今という時代を、今度は私たちが歩み抜く番だ。

1969年7月7日 レッドストッキングス
July 7, 1969 Redstockings P.O. Box 748* Stuyvesant Station New York, N.Y. 10009  (終わり)

これで、レッドストッキングスについて紹介する記事の2本目は終わりです。最後の3本目では、このマニフェストをレッドストッキングスの思想の点から簡単に整理してみたいと思います。