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鳴潮のプレイ感想

はじめに

わざわざ前提することでもないと思うが、私は中国史――東洋史をかじっていた人間として、とくに中国に対して妙な偏見はもっていない。寧ろ、常にどのような事態に直面してもニュートラルであろうと自律している。実際にはそのようなことは必ず不可能だが、志しているだけでも違うと思っているので、まあそういう性質の人間が書いたレビューも、たまにはいいだろうと自ら勝手に思っているが、ちなみに東洋とはなにか、という話はまた別でするかもしれない。

類似ゲームに、原神というゲームがある。
同じ中国産のゲームだ。じつは一時期までは、やっていた。
確か、イナズマが実装された頃だったろうか。
いつからやらなくなったかというと、まあ恐らくお店の夜間営業が出来るようになった頃だったと思う。家にいる時間が減ったものだから必然仕方がないということで、アカウントもどこへやらか、所在を忘れてしまった。
どうでもいいが、友人である生粋の国士(自称)T氏は日本がモチーフ(だろう)であるイナズマのシナリオが気に入らなかったらしく、私と同じ地点で辞めていた。
たいていどんなゲームでも重課金者のP氏は、いきなり二人も去めて好い面の皮だったとおもう。

原神と鳴潮の違い

原神と鳴潮の違いは、当然ながら現時点でさえいくつもある。
それらを敢えて明記するなら、グローバル力、といえそうだ。

原神

上記の差が生じた理由は、原神が先にリリースされたということ自体が根幹たる理由であるとは思うけれど、原神が開始当初のモンドしかマップがなかったとして、リリース日がたとえ被っていたとしても、結局は同じになったと思う。

原神の最初のマップであるモンドは、恐らく舞台はヨーロッパだろうか。
複数の騎士がおり、山が低く、風光明媚。モンドの神は、吟遊詩人。
蒲公英。風車。女神の像。おそらく誰しもが、ヨーロッパを想像するだろう。そもそもの名前であるモンド(Mondo)が、世界という意味でもある。
世界とはヨーロッパのことを指すのか、といわれるとゲームの話ではなくなってくるのでここではしないが、ともかく其の次のリーユエは中国、イナズマは日本、スネージナヤはロシア、スメールはシュメールにかけて、アラブをモチーフにしていると思うから、世界観はまさしく世界的といえる。

となると必然、シナリオは"ふんわり"してくるものだ。配慮という名の常識通念の濾過器を、何度もくぐらせる必要がでてくるためだ。そのことによって出来た話は、まさしく万国に滑らかに享受されるが、悪くいえば無味乾燥で、舌をじせつ驚かす異常な薬味感がほとんどない。
ロシアが舞台と思われるスネージナヤが各国へエージェントを送っているという原神の重要なファクトは、その諜報員が日本舞台のイナズマでは殺されたりなど、精一杯の諧謔もあるにはあるようだが、やはりどこか劇中(劇だが)のなかの出来事にみえるよう、うまく脱色されている。

そんなこんなで、作品が生まれては消え、またなかなか長寿とならない昨今、今となってはそこそこにひとつのコンテンツとなっている(と私は感じているが)原神のような通用を示したいのであれば、つまり原神を見習えばよいというテンプレートを作ったという点で、正直なところ偉大さとしては格が違うという点で、私としては容易に比較してよい材料とはもとより考えていないのだが、それはともかく原神とは、夕方6時から放送されるNHKのアニメのようなものだと私は思っている。

まあ、いちばん重要な、盗作(引用)が校閲されていないという事実は抜きにして書いてはいるが。

鳴潮

原神のほうで書きたいことをおおよそ書いてしまったので、鳴潮のことをどれだけ書けるかすでに疑問ではある。まあ、総評としてはアクション性と世界観は、我々好みに思える。
加えて、私のように中国史をかじったことがある人間にとって、馴染みやすいのは鳴潮のほうだろう。なぜこの漢字が宛てられているのか、など命名者の意図するもの――シナリオライターの自国に対するどこか反魯迅的な歴史愛の気分が容易に伝わってくる。

しかしながら、それらは理解できないものに対してはえてして冷たい印象――一種のエゴのようなものを与えるもので、それはともかく現時点で、
鳴潮がこと日本を商圏として重要視しているか、までは正直微妙なところだが、ひとつはっきりとした狙いがあるように思えるところは、コアユーザーの獲得を狙っている、ような気がしている。

ここでいうコアユーザーとは、課金プレイヤーのことではない。
ゲーミングパソコンなるものを所持している、ヘビーゲーマーのことである。鳴潮のゲーミングシステムから感じることは、気軽に遊ぼうとしている、たとえば携帯機などでプレイを試みているライトユーザーを、そもそも相手にとっていない印象を、その随所にある設定難易度からみてとれる。

つまり、鳴潮は原神とは真っ向から――戦略的に逆なのである。

総評

その展開が吉と出るか凶と出るか、この世は結局は資本主義であるために、
資金が集まって継続性を示すことが出来なければ、どうにもならない。
どの界隈も、伝統と開明を天秤にかけ、その時代によってかわる黄金比の策定に苦慮している。
近くは、もう正式な名前は忘れたが、オーバーウォッチライクな作りのガンダム系FPS対戦アクションゲームがあった。
そのゲームは、eスポーツ界への進出を狙いすぎて、集金力がよわかったらしい。ガンダムというロボットを愛するファンに、eスポーツという形態が全く刺さっていなさそうだ、というのは振り返ってみればそうかもなあと頷けるが、経営として目指した方角がともすれば真逆であったとき、すばやく方向転換できるかは、私自身も比べることじたいおかしなちいさな一経営者ではあるが、たいへん心許ない話だ。

鳴潮は、シナリオはダークファンタジー寄りで、一般受けはしなさそうである。が、昨今の広義的な意味でのヒット作――こと日本でいえばシリアスな作品が多いようにも思えるから、全面的に悪いわけではなさそうだ。
けれども、この手のゲームでプレイアブルキャラクターがシナリオから脱落する、というシナリオは描きづらいだろう。お金を出してまで自分自身の操作キャラクターに迎えたキャラクターが、ついにシナリオ上からは姿を消すというのは、さてどのような反響を生むかというと、容易に想像しづらい。
切実な緊迫感とは何某の死でしか表現できないわけではないが、成功と失敗、成長と挫折、勝利と敗北、創造と破壊、そして生と死――というような流転回遊する事象は、ドラマを感じさせやすい反面、やはり塩梅が難しい。
人は、どちらに偏りすぎても、退屈してしまうものだ。

鳴潮が、あらたな作品の境地をひらいてくれることを祈りつつ、
マルチをもっと充実させてほしいと一消費者の願いもこめて、
そろそろ記事をとめようと思う。

次はゲームではなく、もう少しべつのことを書きたい。

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