見出し画像

【生い立ち】幼少期(3歳まで)

記事をご購入いただいた方がいらっしゃいました。この場をお借りし、あらためて感謝申し上げます。

WAIS-IVの診断結果についての記事が続きましたが、筆者のこれまでの生い立ちについて、少しずつ紹介できればと思います。

こちらを【生い立ち】のシリーズとして、順次、30代半ばの現在の筆者まで取り上げていく予定です。このシリーズは全編無料の予定です。

「発達障害」という言葉自体なかった昭和末期に生まれる

1986(昭和61)年12月、定型発達者(健常者)の両親のもとに生まれました(余談ですが、昭和生まれなのに、昭和を知らない世代といえます。平成20年代後半生まれも、平成生まれなのに、平成を知らない世代と言われる日が来ると思います)。

掃除機の音やカメラのフラッシュにおびえてよく泣く

自分でも記憶があるのですが、かんしゃくを起こしたり、怖がりで、よく泣いていました。生活上の音におびえていて、よく耳を塞いだり、泣いていたこともあったようで、掃除機の音が怖かったです。聴覚過敏はすでにこの頃からありました。

さらに一瞬で強い光を放つ物が怖かったです。例えば、カメラのフラッシュです。カメラ撮影との時は、目をつぶっていました。

今でも雷は音より稲光のほうが怖いです。

ひとり遊びで自分の世界にふけていた


当時住んでいた同じマンションには、同学年の子どもがいて、一緒にいたこともありましたが、専ら一人遊びが好きだったようです。

かつてトミー(現在のタカラトミー)から発売されていた、プラレールの上級版である「スーパーレール」を買ってもらっていたり、電車のおもちゃを持って遊んでいたようです。自分の世界にふけることが多かったと思います。

(カバー写真はWikipedia英語版「プラレール」から)https://en.wikipedia.org/wiki/Plarail#/media/File:Plarail_first.jpg
※「スーパーレール」の写真を探したのですが、適切なものが見つかりませんでした。

歩き始めは遅くないが、しゃべりだすのは遅い

つかまり立ちは1歳前に、歩き始めるのは1歳を少し過ぎたあたりで、特段の遅れはなかったようです。

一方、言葉が出てくるのが遅かったようです。2歳ぐらいでも、片言しかしゃべれなかったようです。

経験に関する記憶力が小さいころからあるほうで、2歳ごろの記憶も残っています。筆者が2歳の頃は、1988(昭和63)年12月ですので、わずかに昭和の記憶があります。近くのレストランで、0系新幹線の形をした「おこさまプレート」を食べていた記憶です。

どうでもいいところに目が行くのはこの頃から


また、幼いころから新聞を読んでいたそうです。さらに、街を歩いていたとき、看板を読んでいたことから、漢字、つまり文字のとらえ方はまあまあだったようです。ただ、街にあるビルの会社の看板なんて、多くの人は気にも留めませんよね。

定型発達の人たちがあまり気にしないようなところに目が行ってしまうというところは、この頃からあったのかもしれません。

WAIS-III、WAIS-IVの検査でも「言語理解」の群指数が高いのにそれが表れていると思います。

発達障害を知るすべもなかった30年前

もちろん当時は、2020年代の現在と違って、幼少期から発達障害かどうかを知るすべはありません。

今から30年ほど前の昭和から平成にかけてのバブルのころ、「発達障害」や「ADHD」を知っている日本人は、ほとんど誰もいませんでした。そして、「自閉症」といえば、知的障害を伴うものを指していました。知的障害が見られなかった自分は、当然ながら、定型発達(健常者)として育てられることになります。

※2021年10月29日 編集・一部訂正