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心地よさを取り戻す


もう、10年程前になる。
当時通っていた風変わりな鍼灸院の先生から紹介され、「心身術のワークショップ」というのに参加した。

30代半ばだった当時は、心身の状態が保ち難く、バイトと病院と家の往復で日々が過ぎていた。

講師の方の名前は、思うところがあり伏せさせていただこうと思うが、講師の方は、「舞踏」の権威の弟子という経歴があったり、コンテンポラリーダンサー、アーティストの肩書きもある方だった。

「こうするべき」「こうあるべき」と
いう思考が非常に強かった自分は、その反動からか、講師の方の伝えておられた「心地よさを味わい楽しむ」という世界観と、「身体任せ」に心地よさをたどることで自然発生的に生まれる動きの美しさに打たれてしまい、2年くらいその方の追っかけをしていた。

京都、徳島、宮崎、長崎、伊豆大島にも。。、

ワークショップに参加をしている時間が、最も自分を解放できていた実感があった。

いつもワークショップの後には「宴」と呼ばれる打ち上げの様な会があり、講師の方が持ち歩いていた選りすぐりの「生原酒」が振舞われたりした。お酒を飲んで心地よくなる体験をしたのも、その時が初めてだった。

「日本人は世界一の快楽民族」

そんな発言を聞き、日本人が手放してきた「心地よさ」について想いを馳せる日々を過ごした。

日本人は性に対してもおおらかな文化的背景があると聞いた事はあったが、ワークショップで宮崎を訪ねた時に、ちょうど地域のお祭りの準備に立ち会う機会があり、お祭りお囃子?で「男は花火で女は蝋燭 女は芯から燃える」というようなのがあって、セクシャルな表現に感じた。かつては、お祭りの心地よさに任せて成した子も、誰の子という分離は無く、集落で違和感なく育っていたのではないかと想像された。きっと、お祭りで振る舞われるお酒も心地よいものだったに違いないと。(しかし、こちらについては、何がしかの人権が無視された場面も想像されるが。。)

「身体任せに心地よさをたどる。動物的な身体感覚を取り戻す」

音楽を「心地よい」ものとして感覚的に捉えていた経験も無いに等しいものだったし、「心地よい音楽に身を任せて踊る」なんて、自分からはほど遠いものだった。

「現代人は理屈で考えることはもう充分やってきたから、心地よさを取り戻して釣り合いをとる」

なるほど、と。。

講師の方がFacebookで発信しながらコミュニティを作ろうとしていたこともあり、ガラケーでは対応出来なかったのでPCもスマホを持ったことも無かったが、タブレットを購入し、SNSに関わるようになった。しかし、その方が作ろうとしていたコミュニティにどこか馴染めず、足掛け3年くらい経ったころ、ワークショップからは足が遠のいた。

しかし、身体を解放したいという衝動のような感覚が生まれており、その後も知り合いの開催する音楽イベントに足繁く通ったりした。
これまで出会った事が無いような友人知人との繋がりが広がっていった。
「心地よさ」を保って感覚的なところを大切にする彼ら、彼女らのスタイルに教えられることはたくさんあった。生活に音楽が流れていて、着心地の良い衣服に身を包み、身体感覚に素直に身を任せることが自然に身についている方々とたくさん出会ったことで、自分の「こうあるべき」という頑なになっていた思考が少しずつ柔らかくなっていった様に思う。

相変わらず、バイトと病院と家を往復する日々に戻って行きはしたが、SNSを活用するようになった事も相まって、良くも悪くも生活に変化が起きていた。心地よさと自堕落が曖昧になり、自堕落さに拍車がかかってしまったのは反省している。

程なく、「大地の再生講座」に参加して、自分で「心地よい」空気が流れる空間を創出できる可能性を知り、そちらにのめり込むことになるのだが、それは別途書いていこうと思う。

しかし、生まれてから30数年「心地よさ」から分離していた自分は、踊れるようになって10年ほど経過した今も、身体感覚を忘れて生活している時間の方が多い。それを是正?するべく、今年から音楽に身を任せる行為をSNSに流している。

自分の身体感覚を取り戻す時間を確保するのが主な理由たが、実はもう一つ、理由がある。

現代社会は、「心地よさ」を「排除」するような空気が蔓延していて、コロナ禍に突入してからは、それが酷くなっている様な気もする。。その煽りを受けて、自閉せざるを得ない状況に追い込まれている人は一定数いるのではないかと。かつて自分がそうだった様に。。。そんな空気感に異議を申し立てたい気持ちがあり、発信している。

「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損」

阿波踊りの名文句たが、この「損」とは、もはや社会の損失なのではないか。そんな風に少し飛躍したことを思っていたりする。

「心地よさを取り戻す」

これは、どうやら、わたし自身の活動の純粋な動機であるようだ。

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