タンポポの綿毛の独り言〜東日本大震災発生より10年
私は自分の人生をタンポポの綿毛の種子だと思っている。
何処へ吹かれるかわからない、落ちた所で根を張って花を咲かせ、そしてその場で朽ちていく、そういうものだと。福島や茨城そして千葉から続いて来た血脈を愛知まで飛んできた、そんな自分ですが、遠い所からふと後ろを振り返ったら、元居た所は大変な事になっていて、私にはどうする事も出来ない、その身の程を知らされた…そんな10年でした。
「3.11」
7年前から、この日は私の中でいつしか、記憶の層のさらにもっと奥底に埋もれ遺る棘のような、そんな日となった。
其れ迄は普通の1日で終わることの多かった、そんな日だというのに。
あの日、名古屋市内の自宅に居た私は、自分が目眩を起こしたのかと思うくらいの揺れを感じた。ちょうど自宅3階の書斎部屋で印刷機を回していた時だった。何が何だか分からないけど地震なのかな、と思う程度で、何気無しに…そういえば地震速報やってるかな…とテレビをつけた。
テレビの中では大パニックで非常にけたたましい報道が流れている。どこの局もそうだ。よく状況が飲み込めなかった。やがて地図とテロップが画面に流れる。
震度7…?
これは一大事だと思い、咄嗟に思いついたのが茨城の実家の妹だったので急いで妹にメールを打った。でも勿論仕事なんだろうし直ぐには出ないだろうと思い、茨城で実家の父に電話した(うちの父、メール使えないんですよ…ちなみにガラケー持ち)が繋がらない、つくば市に住む叔母(父の妹)に電話しても繋がらない。
メールや電話をしながら、パソコンを開いてTwitterで情報収集をかけまくった。今思えば、この時のTwitterには本当に助けられた。なので、今でもTwitterだけは何となく頼ってしまう、所謂一つのライフラインみたいなものだと思っている。
Twitterのタイムラインフィードの流れの速さについていけなくなりそうになっても、必死に無我夢中でかじりついていた。そこにしか分かるものが無い、そう思っていたのもあったからかもしれない。
そんな中、日も落ち切った18時半にやっと妹からメールが入る。とりあえず家に帰ってきたので大丈夫だと。父は帰ってきてないと言う。後から聞いた話によれば、この日ちょうど夜勤だった水道事務所に嘱託勤務の父は、仕事に行こうと庭先に出た途端、被災したと言っていた。そのまま何が何でも仕事に行ったらしい。結局、仕事もパニックでなかなか帰れない状態だったらしいが。
とりあえず妹に電話してみたら繋がった。美容師をしている妹の話では、地震発生時は、勤めている店内のいろんな物が全て落ちて窓や化粧品関係の瓶などのガラスの破片で辺り一面飛び散らかり、ちょうどパーマやカラーリングの施術中に被災した為に、お湯の出ない中を一生懸命(たまたまケースで買い置きしてあった)ペットボトルの水でお客の薬剤を落としタオル全部使い切って一生懸命タオルドライした後、片付けを終えて早めに勤務を切り上げて車で帰ってきたという。街は、もうどこも真っ暗で、街の中の灯りは車のライトのみ。信号機が悉く点かないままの真っ暗い闇の中を必死に帰ってきたそうだ。家に帰ってきても電気が点いてる訳でも無いので、もう寝ることにすると言ってた最中に、突然、「外のほうに明るい所が出てきた、外の街灯が点いてきたみたいなんで、もしかしたら電気が復旧したかもしれない」と言ってるので、これ以上はもしものことを考えて電気を使う物は控えようということで、そのまま電話を切った。
そのうち、ボチボチと他の身内と連絡がつき始める。父もつくばの叔母も連絡がついた。まだ福島の親戚(私の父の母…祖母の実家の流れの親類縁者)とはその時点では連絡がつかなかった。
そして一人暮らしする母にも連絡がついた。(私の両親は私が二十歳の時に離婚しています)母方のおじおば達は千葉に住んでいるが、海側に住んでる旭(千葉県旭市)の叔母の家がどうなっているのか分からない(後日談…一週間後に無事を確認した)と言ってパニクってたので、とりあえず宥め(なだ-め)て、何をどうしていいのかわからない母にあれこれ情報を教えてあげたり、Twitterで知った若干の情報を頼りにどうすればいいかを一緒に考えたりした。ご飯の支度そっちのけだったので、とりあえず簡単な物を作りつつ、ネットと当時持ってたガラケーとでいろんな事をしていた。
そのうち、いろいろなことが明るみになり状況がわかってきて、ライフラインの復旧が遅れており復旧も全く見えないような状況の中を地域で力を合わせて何とかしていると電話口やメール、Twitterで見聞きした。その度に、とんでもない未曾の惨事に悲しみに暮れ「何故なんだ」と自問自答していた…私の身内、親戚縁者や友人、これまでお世話になってきた人達…みんなが大変な目に遭ってるのに、自分は何故ここにいるんだろう、私は何にも出来ないし何にもしてあげられない、自分だけがどうして…と、ちっぽけで不甲斐無さに、悲しさそして心苦しさだけが心の中を占め、そして、今でもそれについてずっと考え続けているのに、どうしても答えが出ない苦しさ。
被災者の方々はもっともっと苦しいのに。
3月は私の誕生月であると同時に、それを思い出す時。
私は、あれから、かつて住んでいた仙台(仙台市宮城野区そしてすぐ隣の多賀城市や塩釜市、松島)に未だ行けてません。主人は震災後半月で仙台市泉区にある東北支社に赴いていて、それから何度も行っているので、その時々の近況を聞くことはあるけど、勇気が出ない…
20年前に松島の五大堂の小島に架けられた透かし橋の橋桁の隙間から落としてしまったお気に入りだった手袋を、あの海に探しに行かなくちゃならないというのに。
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