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憧れは近すぎても憧れだった話

多くの人にとって、東京ディズニーリゾートというのは憧れの対象であろう。

年1回ほど、ゴールデンウィークや夏休みなど、家族みんなで余暇時間を楽しむために行くリゾート施設。

パークで遊んだ後、エントランス付近でふと振り返ると、美しいワールドバザールやアクアスフィア、そしてどこか懐かしい音楽…思わずノスタルジックな気分になる。

そして、「また、来年もここに来れたら良いな」と心から思わせてくれる。パークから出た後も、何週間かは余韻が残る。


大学進学に伴い、私は関東圏に引っ越した。東京ディズニーリゾートは、これまでの「滅多に来れない場所」から私の認識の中で様相を変えて、少し電車に揺られれば辿り着くことが出来る「ちょっと手間かかるけど行こうと思えば行ける場所」となった。

ただ、それでも「手間」はかかる。だからこそ、舞浜駅で降りた際には思わず胸の高まりを感じるし、帰る時には寂しさも覚えるのだ。

すなわち、憧れは「憧れ」のままであった。


最近、友人が舞浜に引っ越した。彼は特別ディズニー好きという訳ではなく、別の事情で舞浜という立地を選ぶことになったという。

部屋の準備関係で、先日その友人の家に手伝い兼遊びに行った。そんな彼は幼馴染でもあるので、元気そうにしていて何よりではあったが、彼の家と舞浜駅とを作業の関係で何回か行き来していると、短期間のうちに「東京ディズニーリゾート」への認識がバグりだした。

「家」というのは、人々にとっての日常の場である。でも、その「家」から飛び出し、少し進むといきなり「東京ディズニーリゾート」という非日常が目に飛び込むのである。これは脳の処理が追いつかない。「東京ディズニーリゾート」というのは、行く前に色々準備して、何日も前から胸を躍らせる場所であるはずなのに、家から徒歩圏内という、極めて日常の範囲内にその情景が広がるのだ。

その友人は引っ越してから既に幾らか時は経っていたものの、未だにこの風景の違和感には慣れないらしい。

そりゃそうだ。この風景、家に出て数分で味わえるものでは到底ない。

何よりも私が羨ましいのは「散歩に飽きない」ということだ。私は朝に生活習慣の改善のために散歩をする、通称「あさんぽ」を取り入れているものの、やはり何回もやっていると散歩コースのバリエーションが尽きて飽きてくる。でもこの景色ならそう簡単に飽きることはない。


最近、東京ディズニーリゾートへの愛が薄れてきているといった旨の話をnoteで投稿したが、こうしてあえて別の目的で舞浜を訪れていると、やはり東京ディズニーリゾートが持つ「異質感」には目と心が奪われるのである。

「憧れ」はいつまで経っても、どんなに近くにいても「憧れ」のままなのかもしれない。

終わり

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