見出し画像

生きてる人にも死んだ人にも向き合うには

昨日は去年死んだトッキーの誕生日だった。

店に来てくれたトッキーを知ってる人たちとトッキーの話と、トッキー関係ない話と、色んな話をできて嬉しかった。

こんなにお祝いしてもらってよかったねなんて思ったりした。


今月は友達の墓参りにも行く。
台風で延期になっていたので行くのが楽しみだ。
場所が沼津の方なんで美味いもん食えるかななんて邪な気持ちもあるけど
まぁ俺の墓参りなんてどうせついででしょ、なんていうような奴だったから
別にいいかなとも思ったりしてる。

昨日お店を閉めた後に、マイ•ブロークン•マリコという最近実写映画化された漫画を読んだ。一昨日映画を先に見ていた。

自殺した幼馴染が行きたがった場所へと旅する話。

死んで美化しそうになるけど、あの人めんどくさかったななんてふと思い出したりする。その事を自分くらいは忘れたくないなんて気持ちをもったりしてる。映画も、漫画も、好きな作品だった。

死んだ人は問いかけても答えてくれない。
答えてくれないから想像でこういうことを言うのかなんて思ったりする。
だから、会話はできてない。

最近、というか前からだけど人間関係の悩みにぶち当たる事が増えてきている。こんな事、人とお話しする店を経営してる側が何を言ってるんだと思われるんだろうななんて思ったりもするからnoteはそんな皆見に来ないでしょ
なんて思ったりもしてるので書いちゃいます。

死んだ友人には優しくできてるのに、生きてる身近な人にはなんで優しくできないんだろうなんて思ったりもする。
でもそれは会話ができるからなのかもしれない。
でも、ちゃんと会話ができていない人が沢山いて、自然と距離ができて気づいたら疎遠になっているなんて事が山ほどある。

たとえば仕事で写真を撮っている時も本当はもっと愛想良くできたらいいのにななんて思ったりもするのだけど、それを話したら「そんなとらちゃん誰も求めてないんじゃない?」なんて言われて、あぁたしかにとも思ったり。

だとしてこのぼんやりした悩みはなんなんだろうか。
自分が最善を尽くせてないと感じる人間関係が多いからなのだろうか。

なんとも言えないぼんやりが襲っている。

そんなこともあって大袈裟な言い方をすると、生きてる意味が見いだせない日々が続いていたりした。これは死にたいとは違う、とわかってくれる人はわかってくれると思って書いてます。

死んだ大事な人を忘れない為に生きるしかない。

そんな思いを映画を見て思ったりした、そこから生きてる大事な人のことも大切にできるようでいたい、に行き着きたいなと思ってけじめみたい感じで
今回のnoteは書きました。

生きててよかった そんな夜を探してる

ヒグチアイさんバージョンで今回のnoteは締めます。
読んでいただいてありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?