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言葉を介さないコミュニケーション

題名そのものの事が言いたい。
言葉を介さないコミュニケーションはある。
言葉で伝えなくても「わかる」
わかる相手には伝わる。
わかる者同士。
共鳴とか、共感とか、波長が合うとか。

わたしは人をよく観察する。
それはもう殆ど癖のようなもの。
雰囲気、目線、表情、体温、触覚、匂い、直感。
わたしにある色んな感覚を使って。

でもちょっと変なのは、麻痺しているのか、他人の事はわかるのに、自分のことはわからないこと。
正確?には他人のことは「わかっているつもり」で、自分のことは「無視しているか、蔑ろにしている」ということ。

わかりたくてもわからないのに、わからなくてもいいことがわかってしまう。(伝わりにくい表現w)
ということがしばしばある。

直感センサーが狂ってるのか、調子が悪い時ってだいたいキャッチするものがズレたりしがち。そして自分にとって嫌な事だった場合、負のループ、思考が働く。

螺旋階段をジェットコースターの速度で急降下して、貞子が出てこられなかった井戸の中に自ら身を投げて、ずっとそこに居ようとする。
もしくは「わたしはここでしかいきられないの」と言う綾波レイになる。
でも気分のムラが出てきて、誰かに助けを求める。
「ここから出して」
貞子が「ここから出たい」と這い上がるように爪が剥がれ落ちても懸命に登ろうとする。

わたしが出して欲しい時にタイミングよく現れて助けてくれる人はそうそういない。
そもそも、自分から井戸に飛び込んだくせに、「助けて」なんて勝手過ぎる(笑
その事に最近ようやく気付いた(遅

でも例外もあって、わかる人の場合はちゃんと気付いてくれる。いいタイミングで手を出してくれる。その手を出してくれている事に気付く感覚だけは捨てないように、無くさないようにしている。
その感覚をなくしちゃったら本当に助けてもらえないし、自分自身を救えないし、致命的だし、生きていくのが困難になりそうだから。

今日感じた、拾った事は上記とは違うことだったけど、居てくれるだけで救いになる、助けになる人って本当に存在しているんだな。って思ったってこと。
本当に近くにいて、ずっと一緒にいて、関わってきているのにちゃんと存在の有り難みというか、感謝したことがなかった。
居ることが当たり前になりすぎていた。

ふとした言葉の端々から、わたしと似たような、同じような考えを持っているんだな、と気付いたり、同じタイミングで同じこと考えていたんだなとか。
そういう断片が少しずつ積み重なって築いていた関係だったんだ。

でもそれに期待しすぎて多くを求めるのは違うかな?って思ってる。適正な量、適正な距離感を保っていないと壊れてしまいそうで。

わたしは破壊と再構築をよく繰り返すし、ゼロにリセットすることを厭わないから今まで何度もそうしてきたし、抵抗はない。

創り変える、新しく生まれ変わるのは苦しみを伴うが楽しい。ちょっと気が狂ってると思う。それをモノづくりではなく、人間関係でやってしまうから。

でも、この人との関係は拗らせたくはないし、保っていたい、続く限りは。
と思っているけど、これもわたしのエゴでしかないのかな?とか思ったりする。

でも「エゴでもいいから」と願ってしまう程にわたしにとっては素晴らしい人で必要で有り難くて大切。多くは望まない。生きて傍に居てくれるだけでいい。

そんなことを久しぶりに思った。
久しぶりに感じた、思い出した感覚だった。

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