あたしは可愛くなんてない。

 あたしが玄関の扉を開けると、そこにはずぶ濡れの女の子がいた。
「いや、でも……でも、あなた本当は」
 男じゃないか。
 あたしがそう言いたいのを知っているのか、彼女は切羽詰まった声で「いいから何とかして」と言った。
「……なぁ、肉まん……どうしよう」
 その晩はまるで台風でもやって来たかのようで、梅雨の風情もへったくれもなかった。
 そんな中、女の子は胸元のはだけた、白いワイシャツ姿でうなずいた。
「……まさか……そんな、染谷くん……なの?」
 小柄な彼女の長い黒髪は、肌にべったりと貼り付いていた。
 冷えているせいなのか、体は小刻みに震えている。
 心なしか顔色も悪いように見える。
 ……確かに、このまま雨風にさらすのも危ない。
「いいよ。入りなよ」
 この子がアルトであってくれと願った。
 だって、トリコロールのサコッシュを身に着け、あたしのことを未だに「肉まん」というあだ名で呼ぶのは……彼しかいないもの。

 染谷アルトは、古くからの幼馴染である。
 男のクセに色白で、背がいつまでも伸びないだの、声がなかなか低くならないだのというのをよくからかわれていた。
 でも彼は頭がいいから、いつも冷ややかな対応をしていた。
 その上、他の男子生徒と違って、ひとりぼっちでいることが寂しいと思わなかったらしい。
 むしろあたしには、孤独を楽しんでいるようにすら見えていた。
 けれども、男という生き物はなかなか弱みを見せないものである。
 本当は、心の中で孤独を感じていて欲しかった。
 群れの中で生きる女の子のように。

 そして、今のアルトは女の子みたいに見えるのではなく、本当に女の子になっていた。
 シャワーを浴び、バスタオルを巻いたアルトは、うつろな目でフラフラと歩いていた。
「待ってよ、もしかして熱でもあるの?」
 あたしが肩を支えてやると、アルトはうっすらと涙をにじませていた。
「ね、そこ座ってよ。早くパジャマ着て、髪乾かさないと熱上がっちゃうからね」
 ぎゅうっと、胸の奥が痛んだ。
 自分が介抱しているこの子は、望んでいたアルトそのものだった。
 あたしよりも背が低くて、胸が小さくて。
 色白で黒髪が似合ってて。
 パジャマの裾を折り返したり、ドライヤーで髪を乾かしていると、彼女が本当は可憐なのが分かる。
 いや、可憐というよりも、幼くなってもなお美人というか。
 いつものあたしなら、心がときめくという意味で胸が痛むものなのだが。
「ねぇ、どこかで夕飯食べてきた?」
 アルトは首を横に振った。
「気持ち悪くて……ご飯、食べられない……」
「そっか。じゃあ何か消化がいいようなの作っとくね」
「いらない」
「いらない……の? 水分だけでもとらなきゃ脱水しちゃうよ?」
 細く消え入りそうな声をしたアルトは、見ていて心配になった。
 その晩は、ひとまずベッドで眠らせることにした。
 聞きたいことは山ほどあるけど。

 ……本当は、幼馴染なんて呼べるほど仲がいいわけじゃない。
 ただ、中学校から大学まで同じ学校だったっていうだけだ。
 あたしはクラスでは人気だった方だけど、アルトはさっぱりだった。
 アルトがいつも表情を顔に出さず、馬鹿騒ぎしないのを、生意気だと言って嫌う奴もいた。
 あたしは嫌いを通り越して、どうでもよかったのだ。
 その、長いまつ毛をした……綺麗な顔立ちの他には。
 あの子の体が女だったなら、あたしは絶対友達になったのに。
 そんなことばかり思っていた。

 あたしは窓へ目をやった。
 昨晩よりもマシにはなったが、それでも梅雨とは言いがたい。
 迷惑な大雨であることには変わりなかった。
「何がどうして、いい大人が少女になってしまったのか聞きたい」
 寝起き早々に、あたしは妙に興奮した状態でいた。
 完全なる寝不足だ。
「そう。じゃあこれ見て」
「は?」
 ところが、アルトはあたしをもっと興奮させ、えらく混乱させた。
 サコッシュからはなんと、小さなビニール袋が出てきたのだ。
「本当はこの粉、ただの覚せい剤だったはずだった」
「か……っ!?」
「何で覚せい剤を買いに行ったか、覚えてない」
「覚えてないって何よ、ダメゼッタイって散々習ったでしょうよ」
「何でだろう……ダメゼッタイって習ったからかな」
「どういう意味なのそれ」
 それに、どうしてその粉で女性の体になってしまったのかも分からない、という。
 そりゃ分からないだろう。
 そんな、男の体がすっかり変わってしまう薬物なんて聞いたことがない。
「ど、どうしよう……今から会社なのに頭グルグルする……!」
 目の前には可愛いアルト。
 しかし事情は複雑だ。
 そもそも何で、品行方正なはずのアルトがクスリをやっているのか。
 そのギャップが段々怖くなって、気持ち悪いとすら思った。
「わ、わ……分かった。今日はサボるからね、アルト!」
 あたしはハッとした。
「そ……そめや、くん」
「もういい。呼び捨てで」
 投げやりな声で言われてしまったのが、心底ショックだった。
「……ごめん、佐倉」
 頭真っ白で固まっていたあたしを見かねたのか、アルトはこちらの顔を覗き込んできた。
「怒ってるわけじゃないよ」
 分かってる、元々がそういう喋り方だっていうの。
「じゃあ……じゃあさ、染谷くん」
「うん」
「あたしの前で笑わないのは、素のあんたを見せてくれてるってことなの?」
 アルトはしばらく沈黙した。
 まだ熱が下がらないのだろう、顔を赤くして、かすかに苦しそうな息をしていた。
「……お前馬鹿だな」
 目覚めたばかりのアルトは、早々にベッドへダイブした。
 いつものあたしだったなら、幼い美少女に罵られるのが嬉しくてたまらないだろうに。
 とてもじゃないが、そんな気分にはなれなかった。

 それから、会社には適当な理由をつけて休んだ。
 牛乳を飲みながらテレビをつけると、さっきよりも胸がざわめいた。
「……誰も……染谷くんの話してないよね……」
 染谷アルトが行方不明。
 音信不通になってからもう五日。
 それでも何故か、そのニュースはネット上でしか流れない。
「そんなに、染谷くんのことなんかどうでもいいっていうのかな……」
 あんまりだよ。
 布団をかけてやりながら、あたしは思わず愚痴をこぼしていた。
「だって染谷くんは……」

 あの頃、あたしは今よりもずっと太っていた。
 それでも根っこが明るかったからか、みんなは何かともてはやしてくれてた。
 ゲーセンとカラオケ、ボウリングぐらいしか楽しみのない田舎だけど、休みになると友達みんなでつるんでいた。
 教師に隠れてメイクをしてみたり、スカートの下にジャージを履いてみたりして。
 流行っているドラマの話とか、好きな芸能人の話とか。
 女子だけの集まりなら、クラスの男子のキスが下手だっただの何だのとかという話もしていた。
 今もそういう感じは大して変わっていない。
 上京したってSNSですぐつるむ。
 ただ……好きなモデルの中で「染谷アルト」の名前が出てくることも、グループチャットにアルト本人が加わることも、当時のあたしでは想像がつかなかった。
 だって、みんなから見放されていたはずの彼だもの。

 昔は、からかっても面白い反応を何も返さないものだから、アルトは段々と無視されていた。
 その「みんな」というのが、学校の連中からマスコミに変わったというだけなのだろうか。
 それはあまりにも、アルトがかわいそうじゃないか。
 こんなに傷だらけで。

「アルト」
 アルトは目を閉じると、布団を頭からすっぽりかぶった。
 長いこと、かすかな寝息を聞きながら、あたしはベッドの脇に座っていた。
「ねぇ、アルト」
 激しい雨音で寝息が聞こえなくなった頃、膝に顔をうずめてつぶやいた。
「昨日、転んで痛かったよね? 誰かに引っかかれたとこも」
 昨晩の幼いアルトは、首から下がボロボロだった。
 背中は爪で引っかかれたような跡があり、腕やすねの辺りには打撲。
 膝はすりむいて血が出ていた。
 あのまつ毛の綺麗なアルトが、である。

 染谷アルトは大学を中退し、流行のジェンダーレスファッションに見を包んだモデルとなった。
 元々中性的な容姿だったのもあって、そのメイクや服装が見事にハマった。
 しかし、雑誌のインタビューなんかだとよく「運よくスカウトされただけ。もっと努力しなきゃ」と言っていた。
 そして、学生時代には決して見せなかった、柔らかい笑みを振りまいた写真が載るのだ。
 一方、テレビのバラエティー番組だと、どこまでも謙虚でおっとりしていた。
 その博識さでクイズ番組にも出ていて、合間にはしばしば天然ボケのような発言もしていたから可愛かった。
 どれもこれも、あたしの知らないアルトだった。
 こんなに優しそうに見える彼は初めてだった。
 あたしは今頃になって、アルトのことがとても好きになった。
 それと同時に都合の悪い事実もあった。
 何十年も、本当は女性にしか恋愛感情が持てなくて、男性に対してはちっとも性欲が湧かないのを隠していたのだ。
 染谷アルトが女だったらよかったのにという醜い妄想を、頭の中で繰り広げていた。

 それなのに。
 こんなにもむごい形で、妄想が本物になるなんて。

「何で……傷から逃げてばっかりなんだろうね……?」
 あたしは初めて、アルトのことで深い絶望感を覚えた。
 そこへ追い打ちをかけるような言葉が降り掛かってきた。
「本当そうだね。佐倉は」
 寒気で背中が震えた。
「痴漢に遭ったことも、レイプされたこともなさそうだね。どうせ肉まんだし」
「なっ……肉まんって呼ばないでよ。それに、あたしだって……」
 それくらいのことはある、と言えればどんなにマシか。
「あたしだって、友達からいっぱい聞かされるもん。男に襲われたとか」
「ほら。お前は運がいい」
 今にも切れそうな糸みたいな声で、アルトは言った。
 何で俺はそうならなかったの、と。
「俺と佐倉って、男じゃないってとこは同じなのに違うよね」
「ちがっ……あれは……あれはそんなはずじゃ。アルトは男だよ、確かに男だったんだよ」
「ううん。俺は、こんな体じゃなくったって男じゃないって言われる……でも何で……」
 アルトの声はやっぱり、投げやりに聞こえた。
「もう、いいや」
「そんな」
「もういいんだよ。どうでも」
「染谷くん……」
 どうでもいいなら、どうしてあたしの家に来たの?
 あたしは泣きそうになりながら、恐る恐る聞いた。
 アルトは長い間黙ったのち、そっと口を開いた。
「……信じてた」
「え?」
「芸能界にでも入れば、佐倉たちの仲間になれるんじゃないかって。本当は寂しかったって言えるんじゃないかって」
「なっ……!?」
 あたしは悲鳴を上げた。
 気づくと自分の体は、床に押し倒されていた。
「なぁ佐倉」
「うっ……」
「佐倉は……佐倉だけは、俺から逃げないだろうって思ってたのに」
「何……を……」
「だって言っただろ? 命の方が大事だって」
 首がギリギリと絞まる。
 そんな力がどこにあるのかとばかりに。
「でもどうせ、あんなのは授業の模範解答ってだけだもんね? そっか、そうだよね。お前だから」
 あたしの上で馬乗りになり、悲痛な声でアルトは言った。
「何で俺ばっかりなの!?」
 息が苦しい。
「何で二度もレイプされるの!? 顔が女みたいだから!? それで事務所のクソ戦略に乗っかって化粧するから!?」
 頭がクラクラしてきた。
 でもあたしは抵抗できなかった。
 抵抗する資格がないのかとすら思った。
「それとも……佐倉に復讐しようとするくらい、俺の心がおかしいから……?」
 アルトは手の力を緩めて嗚咽を漏らした。
「……おかしいよね……仕事がしんどくてクスリに手を出すなんて。本当に、あれは普通のもんだと思ってたのに……まさかこんな目に遭うなんて」
 昨日、佐倉が必死で介抱してくれて、それで嬉しいって思えたならよかったのに、とアルトは言った。
「それで……男だった高校の時も、女になった五日前も、悪いのは襲った犯人だって言えればいいのに」

 やっぱり……俺は佐倉を殺したい。

 あまりに重い言葉だった。
 あたしは罪を背負っているのだと確信した。
 だって一度目のレイプは……校舎裏でフェラチオを強要される彼のことは、見ていたのに放っておいていたのだから。
 スラックスを降ろされたあの姿が、あまりにも気持ち悪くて。

「うっ……う、ひっく……うぅ……っ……」
 涙を必死に拭きながらアルトは言った。
「ううっ……これ以上佐倉の家にはいられないっ……」
 せっかく優しくしてもらったのに。
 シャワーも着替えも全部用意してくれて、付きっきりで面倒見てくれたのに。
 俺がこんなひどいことをしたから、と、首を振って拒んだ。
 あたしは彼女の頭を撫でた。
「いいの。何でも」
 頭を撫でていたのだけれど、絞められたあの感触が生々しく残る首元を一瞬だけさすった。
「アルト」
 少女になったアルトはずっと泣いていた。
「分かったよ」
「は?」
「あたしのこと殺してよ」

 強く抱きしめると、彼女は声を上げて泣いた。
 何度もあたしの名前を呼んで。
 
 次の朝、熱の下がったアルトは身なりを整え、警察に出頭すると言い出した。
 違法薬物には変わりないから、と。
 いつも通りの淡々とした口調だった。
 しかし、どこからどう見ても未成年の少女だというのは、やはり落ち着かないものである。
「やっぱり出ていくよ。それが佐倉のためにもなる」
 あぁ、と、あたしはため息をついた。
 普通に考えればそりゃそうだろうと思った。
 玄関でトリコロールのサコッシュを手渡すと、ため息がまた出たのだった。
「……本当に、復讐だったとしてもいいの。だってあたし……あたしは……」
「『アルトが女ならいいのにって思ってた』」
 心臓が口から出そうになった。
「本当馬鹿だな」
 アルトは背伸びをして頬を寄せ、ボソリとそう言った。
「女同士でいる時の方が、明らかに嬉しそうなツラしてるだろ。肉まん」

 あぁそっか、本当は同じだったんだ。

「寂しかったの?」
 聞かれたあたしはうなずいた。
「あたしたち……寂しかったんだよ、本当は」

 寂しかっただけなんだよ、あたしたちは。