連載 鳥になりたかった少年 第二話


『連載 鳥になりたかった少年 第二話』/浅野直人

 春になり僕は五年生になった。クラス替えがあって三分の二以上の子が新しい僕のクラスメイトになった。最初はもといたクラス同士の子が集まっていたけど、二週間もするとすぐにその集まりは分解し、新しいグループができていった。やっぱり四年生の頃に感じていたみんなの個性というものが四年生の時より感じられるようになっていて、グループは同じような個性を持った人たちが集まりやすいということが分かった。それでも、僕を含めて決まったグループに入らない子もいる。僕はこのみんなの個性が分かりやすくなったり、似たような子たちが集まるということが、なんとなく僕らが少しだけ大人に近づいたということなのかもしれないと思った。大人はきっと自分はこういう人だというのがあって、それに合う人を仲間として選んでいるのかもしれない。そして僕らもそういうことができるようになったということだ。でも、僕にはそれがなんのためであるのかがよく分からなかった。もし、自分と同じような人がいて気があうなら別にグループを作らなくても、ただ仲良くすればいいのではないかと僕は思ったのだった。そうすればもっといろんな人と仲良くなれるのに。

 クラスの担任は岡崎敏子(おかざきとしこ)先生だった。僕は初めてなのであまり知らないけど長く先生をやっていて普段から厳しくて怒ると怖いという評判を耳にした。その生態が分かるまで観察が必要だ。

 僕は岡崎先生に心の中でうめぼしと名付けた。おっぱいプリンみゆき先生は隣のクラスの担任になった。うめぼしから滲み出る何か人を見下ろすような雰囲気を感じた時、僕は心も体もほんわかしていたみゆき先生が懐かしく思えた。いや何か僕にとっての心の大地のようなものを失ってしまった気さえした。やはり大人の個性とは子供以上に完成されたものなのかもしれないと僕は思った。

 ある日の算数の時間の時だった。うめぼしが黒板に向かって計算の問題を書いていた時、突然、男子の声がしたのだった。

「やめろよ」

 声をあげたのはまじめ人間、佐久間(さくま)だ。みんなが一斉に声の方を向いた。もちろん、うめぼしも。

「佐久間、なんですか?」

 うめぼしがまじめ人間に不機嫌な声で聞いた。

「石井くんが僕に消しゴムのカスを投げてぶつけました」

 佐久間がそう言ったあと、うめぼしの目が鋭く光ったと思った瞬間、うめぼしが竹の定規を教壇に打ち付けるバシッという音がした。その恐ろしい音にクラスのほとんどの生徒の首が縮まるのが見えた。これはやばいという雰囲気が教室内を一気に包み込んだ。

「石井、やったのか?」

 うめぼしの鋭い声が響き渡る。名前を呼ばれた暴れん坊、石井は目を見開いたまま固まっていた。

「は・・・、はい。やりました」

 やっとの思いで罪を認めた暴れん坊はこれから何が起こるのかと恐怖で目が泳いでいた。

「石井、お前は佐久間だけじゃなくこうして授業を止めてクラス全員の時間を無駄にしているんだぞ。分かっているのか?」

「すみません」

 石井が聞こえるか聞こえないかの声であやまった。

「今度やったらもう授業は受けさせないからな。分かったか?」

「はい。すみませんでした」

 うめぼしが石井を睨むと、もう一度定規を教壇にバシッと叩きつけ「はい、授業」と言って黒板に向かい直した。定規の音が響いた時、またみんなの首が縮んだのが僕は少し面白かったけどもちろん顔の表情は変えなかった。話に聞いていた通り、うめぼしの怒り様は僕の学校史上最強だ。しかも、あの竹の定規という小道具の破壊力は凄まじい。あのバシッという音を聞いただけでみんなはあの竹の定規で叩かれる自分を想像したのではないだろうか?恐怖という言葉以外のなにものでもないうめぼしの怒りはこのクラスの授業中の平和を保つのに十分であることは誰の目にも明らかだった。でも、本当にそれでいいのだろうか?僕はうめぼしがみんなに見せつけた恐怖という圧力に何か嫌なものを感じたのだった。さらに授業のあと、暴れん坊石井の周りに石井と同じグループのメンバーが数人集まり「マジ岡崎こえー」とか「岡崎やばい」という声が聞こえてきた。その声を聞いた僕はこの石井たちの不満はどこにいくのだろうとふと思ったのだった。しかし、そんな僕の思いをよそに、それからの授業はうめぼしの思惑通り緊張感を持ったまま平穏に過ぎていった。

 新しいクラスが始まって二ヶ月くらいが過ぎた頃、クラスにはある形ができていた。一つは暴れん坊、石井が率いる男子の暴れん坊グループ、そして、もう一つ女子のお嬢様、篠崎(しのざき)さんが率いるお嬢様グループがクラスの中で何かと注目される存在となっていた。石井は暴れん坊が表す通り態度が荒くて体ががっしりしていることもあって、いつのまにか似たタイプの数人の男子が取り巻きとなってグループを作った。そして篠崎さんはまさに歩くだけで花の匂いが香りそうな雰囲気の瞳がキラキラした人形のような女の子だった。性格は温厚なのだけどその容姿だけでやはり女子の取り巻きができてグループとなっていた。他にもスポーツが得意だったり趣味が同じという無数の小さいグループがあったけど、なんとなくクラスはこの二つのグループの意向で動いているような気がする。

 しかし、この二つのグループは仲がいいわけではない。むしろ仲が悪いといったほうがいいかもしれない。この間も帰りの会のある係の活動報告の中で、男子が遊んでばかりで何もしませんでしたというゴボウ並みに細い加藤(かとう)さんからの指摘を受け、お嬢様グループのキツネ目の堀田(ほった)さんがうちの係も同じですと加勢した。すると、たまたま指摘された係の男子だった暴れん坊グループの巨漢大野(おおの)が女子だってずっと話をしていて何もしてない時がありますと反論したのをきっかけに、お互いの意見に加勢する両グループのメンバー間で言い争いになったのだった。もちろん、そんな不毛な言い争いをバッサリ斬ったのはうめぼしだ。

「男子も女子も人のことを言う前に、自分がちゃんとできているかを考えて発言しなさい。自分がちゃんとできていると言えない人は発言する資格なし」

 うめぼしの言葉でクラス内は一瞬で氷河期を迎えた。そして、その凍った大地の底から芽を出そうとする勇者は誰一人存在しなかった。ともあれ、それぞれのグループが男子と女子の意見を代表するような存在であり、しばし、男女間での対立の際の拠り所となっていたのでクラスのみんなはその存在をある程度認めていたように思う。

 でも、僕はこの二つのグループを見ていてあることに気がついた。それは二つのグループの顔というべき石井と篠崎さんがほとんどの場合、自ら発言をすることがないということだ。二人はどんな気持ちで取り巻きたちの行動を見ているか分からないけど、もしかしたら、それは二人の意図するものではないのかもしれない。気がついたら自分がグループの長になっていて、いつのまにかグループのイメージが出来上がってしまっていたのかもしれない。本当のところは分からないけど二人を見ているとそんな気がしないでもない。

 もう一つ僕がこのクラスについて感じていたのはやはりうめぼしの存在だ。四年生の時は確かにクラスに子供達の世界というものがあったと思うのだけど、今のクラスは絶対的なうめぼし帝国の下に子供達の世界が押し込められているような気がする。子供達は本当に言いたいことを言えないし、常にうめぼしに怒られるのを気にしながらビクビクしているように思える。もちろん、傍目から見れば平穏なクラスに見えるかもしれないけど、実はそれが恐怖という支配の中にできあがった世界だとすると僕は何か嫌なものを感じるのだった。そして、その嫌な感じは時々その尻尾を見せるのだった。

 ある日の算数の授業中、うめぼしはあるゲームを突然始めた。そのゲームとはうめぼしが問題を出し、うめぼしが指名した生徒がそれを答えるという簡単なものだ。でも、そのゲームには罰があって問題に間違ったり答えられなかった時は当てられた子はそのまま立っていなければならないというものだった。ゲームのルールを理解したみんなは自分が当たらないようにと心の中で祈っていたはずだ。しかし、その祈りもむなしくうめぼしはゲームを楽しむように次々に生徒の名前を呼んで問題を出した。ゲームは進行し、一度間違って立たされても数問後にもう一度指名されて正解すれば座ることができるということが分かった。

「次、望月(もちづき)」

 うめぼしが言うと望月さんがゆっくりと立ち上がった。銀色の縁のメガネをかけた望月さんはクラスでもその存在が薄く、うめぼしが呼んだ名前を聞いて僕も久しぶりにその存在を思い出した。今日も肩口で切りそろえた黒髪の後頭部の一部が跳ねている。うめぼしが黒板に書かれた問題の前で望月さんの答えを待った。

「あ、えっと・・・、その・・・、・・・」

 望月さんは顔を赤くして下を向いたままついに答えを言うことができなかった。

「はい、立ってなさい」

 しびれを切らしたうめぼしが刑の執行を言い渡す。しかし問題はここからだった。何度かうめぼしが望月さんに復活のチャンスと与えたのだけど、ついに望月さんは正解を出すことができなかったのだ。しかし、うめぼしはルールを曲げることなく授業が終わるまでの長い時間、望月さんはずっと自分の席で立っている羽目になった。長い時間立たされているうちに望月さんのただでさえ細い体はさらにやせ細っていくような気がした。

 この時、僕はうめぼしのやり方に疑問を持ったし、他にもそう思った子はいたはずだ。望月さんは授業が終わった後も呆然として立ち続けていて、望月さんと仲のいい古田彩乃(ふるたあやの)さんが「こころ」と望月さんの名前を呼びながら駆け寄ってようやく望月さんは自分の椅子に座ったのだった。今にも泣きそうな表情をしていた望月さんを見るのが僕は辛かった。

 望月さんは普段から大人しく仲のいい古田さんといつも二人で一緒にいることが多い。僕の印象だと望月さんは勉強が苦手のようには思わなかったのだけど、どうして望月さんはうめぼしの問題に答えられなかったのだろう?問題自体はそんなに難しくなかったので僕はそこが不思議だった。

 ひとまず授業は終わり、もううめぼしも同じようなことはしないだろと僕は思っていた。しかし、僕のそんな予想はあっけなく裏切られ、また別の日にうめぼしは同じゲームを始めたのだった。そして、うめぼしがルールを変えることはもちろんなく、誰に対しても少しの配慮を見せることはなかった。そして、また餌食になったのは望月さんだった。

 望月さんはうめぼしに名前を呼ばれると音を立てずに立ち上がり、出された問題に顔を赤くして言葉にならない声を発しながらうつむくのだった。うめぼしはそんな望月さんを許すことはなかった。さらに、うめぼしはイライラするように声が小さいとか、聞こえないというような言葉を望月さんに浴びせ答えを促した。さらに体が縮んだような望月さんはもう答えを言うどころではないように見えた。そして、また望月さんは長い時間立たされるのだった。

 この日はうめぼしの機嫌が悪いのか小悪魔、伊藤(いとう)さんも長時間の立たされの犠牲になっていた。小悪魔とはやたらと男子に接近するという意味で、小悪魔は復活のチャンスをなかなか与えられずに長い時間立たされ苛立っているようだった。そして、もう一人は二頭竜小森さん。二頭竜とはもちろん二つの特技を持つという意味ではなく、一つ言われれば二つは言い返すという意味だ。要はうるさい奴ということだ。この三人が犠牲になったのに何かうめぼしの意図を感じたのは僕だけではないはずだ。

 そして、このうめぼしの立たされ罰ゲームをきっかけに、うめぼしは明らかに望月さんに目をつけたような気が僕はした。望月さんは配布回収係でうめぼしの指示でプリントを配ったり回収する手伝いをするのだけど、うめぼしの目が気になるのか望月さんはよくプリントをガサッと落としてしまったり、日直の時はうめぼしの前で黒板消しを盛大に落とし粉をまき上げることもあった。そんな時うめぼしは必ず望月さんに「望月、何やっているの」「望月、しっかりしろ」と怒るのだった。そして、そんな怒られ方を繰り返すうちに、望月さんはますます縮こまり動きがぎくしゃくするように見えた。悪循環だ。そのような状況がしばらく続き、うめぼしは望月さんの声が小さかったりはっきりしないのが気に入らないようで「声が小さい」とか「はっきり喋りなさい」とか「元気がない」とかをみんなの前で注意するようになった。もちろん、注意を受けるのは望月さんだけではなくて、暴れん坊グループの石井たちには「静かにしなさい」とか「落ち着きがない」とか反対のことを言ううめぼしを見ていて、僕はうめぼしは生徒たちをどうしたいのだろうと疑問に思うのだった。きっとうめぼしはクラスを自分の言うことを聞く都合のいい生徒だけにしたいのかもしれない。

 その時、僕の頭に浮かんだのはこのクラスが始まったばかりの頃に見たみんなの個性だった。そう、クラスのみんなには個性があったし、それはもちろん今も存在している。でも、うめぼしはそのみんなの個性を否定しようとしているのではないだろうか?自分の思い通りになるようにみんなに自分の都合を押し付けているだけではないか。もちろん、学校にはルールがあるのは分かっている。でも、みんながロボットのように同じように動き、同じようなことしか言わないクラスに意味はあるのだろうか?僕はそんなクラスが楽しいとも好きだとも思わないし、もしそんなクラスなら学校に行きたいと思わないだろう。僕は学校はいろいろな個性の子たちがいる社会の縮小版のような世界だからこそ、人との関わり合いを学ぶ場として意味があるのではないかと思った。もしそうなら、うめぼしがやろうとしていることは逆じゃないのだろうか?うめぼしは子供達の個性を否定して自分に都合が良くて心地のいい世界を作ろうとしているだけだ。じゃあどうしたらいいのだろう?そこで僕の頭は止まってしまった。

 うめぼしは先生だし、僕に何ができるのだろう?僕は知っていた。小学生の僕一人が何かを言っても大人は話を聞くふりをして都合の悪いことはごまかそうとするに違いない。僕は前に学校の近くのコンビニでタバコを吸っていた先生が吸い殻を道路に捨てて足で踏み潰すのを見たことがあった。僕はそれを前の担任のみゆき先生に言ったことがあって、みゆき先生は注意しておくねと言っていたのだけど、僕はその後にその先生がまた吸い殻を道路に捨てるのを見たのだ。その時、僕は大人は子供達には正しい行いをするようにと言うのに、自分たちは都合のいいようにごまかして生きているのだと思ったのだった。僕はうめぼしがおかしなことをするのを止めさせる何かいい方法はないだろうかと考えながらも、僕には何もできそうもないという現実の間を行ききする時間を過ごしていた。

 ある日の給食の時間、いつものように、その日の給食当番が給食のパンやおかずなどを教室に運び込んでいた。給食当番以外は一緒に給食を食べる班の島を作るために椅子や机を動かしている時だった。ドンという大きな音がしてバサッと何かが落ちる音がした。教室にいた全員が一斉に音の方を見るとそこには給食のパンが床に散乱していて望月さんが床に手をついているのが見えた。きっと望月さんはつまずいてパンを落としてしまったのだろう。僕はパンはビニールの袋に入っているし拾えば問題ないと思っていたところに声が上がったのだった。

「望月ー」「望月、何やっているの」「望月、しっかりしろ」

 その口調は明らかにうめぼしを真似したものだった。声をあげていたのは大野をはじめとする暴れん坊グループのメンバーだ。グループの頭の石井はあまり興味なさそうに後ろから様子を見ているだけだ。うめぼしがいないことをいいことに、大野たちは嬉々としてうめぼしの真似をしていた。

 望月さんはすぐにパンを拾い集めパンが入っていたケースに戻していた。普段なら他の給食当番が望月さんを手伝うと思うのだけど、大野たちが声をあげていて誰も望月さんを助けようとしなかった。望月さんは顔を赤くしながらパンを集めようやくケースを台の上に載せた。その時、大野が言った。

「望月、俺たちに落ちたパンを食べさせるのかよ」

「そうだ、そうだ」暴れん坊グループのメンバーが口々に声をあげた。

 言われた望月さんはその場で立ち尽くしたまま俯いてしまった。

「パンはビニールに入っているから大丈夫です」

 望月さんの友達の古田さんが聞き取れるかどうかの小さな声で言った。

「お前には聞いてないんだよ」

 大野が大声をあげた。その時、教室の前のドアが開きうめぼしが入ってきた。

「何してる?廊下まで大声が聞こえたぞ」

 うめぼしの登場にクラスの全員が何事もなかったかのようにまた自分の作業を再開し、誰もうめぼしの質問には答えなかった。うめぼしは特に気にするでもなく自分の席に座った。望月さんだけはその場に立ち尽くしていたのだけど、古田さんが望月さんの手伝いを始めたことで二人は給食当番の仕事を再開した。

 しかし、この日の出来事は始まりに過ぎなかった。大野たちの望月さんへの言葉の攻撃は望月さんが何かやらかすごとに勢いを増し、そのせいでますます望月さんは緊張し失敗を繰り返すのだった。そして最初は大野たち暴れん坊グループだけだった言葉の攻撃は他の男子にも伝染し、一部の女子の間でも望月さんが気持ち悪いとか望月さんのせいでみんなが迷惑しているというような悪口がクラス中で聞こえるようになっていった。そして、それまで言葉の攻撃だけだったものが消しゴムのカスや丸めた紙となり、望月さんを狙って投げつけられるようになった。僕はそのクラスのみんなの急な変化に驚いたのだけど、僕にはその理由が全く理解できなかった。

 みんなは何をしたいのだろうか?望月さんにものを投げたり悪口を言ったりすることになんの意味があるのだろう?でも、たくさんの子がそうするのを見て僕は僕の方がおかしいのだろうかと思ってしまうのだった。僕はそんなクラスのドロドロしたような空気が嫌で学校に行きたくないと思っていたのだけど、なんとか学校に行き続けた。そして、それは望月さんも同じだった。僕より望月さんの方がよっぽど辛いはずなのに望月さんは頑張って学校に来ていた。望月さんが学校に来ることが僕も学校に行く支えになっていたかもしれない。

 それでも僕は何かもやもやとする気持ちがたまると、それを発散させるために学校帰りに冒険に出かけた。冒険をしている時、僕は一人だけで自分の世界に入ることができた。その世界に僕の冒険を邪魔する人は誰もいなかった。そうして、僕はいろいろな発見を重ね僕の世界を広げていった。

 ある日、河原を歩いているとき、僕は懐かしい声を聞いた。ピーヒョロロロロ。トビだ。僕はすぐに空を見上げるとその姿をすぐに見つけた。トビは風をうまく捉えて円を描くように空を舞っている。僕は草むらに腰をおろし飽きもせずにずっとトビが空を舞う姿を見ていた。そしてやっぱり僕の心の中に空を飛びたいという気持ちがムクムクと湧き上がるのだった。僕はどうしたら空を飛べるのだろう?僕は頭の中で自分が空を飛ぶ方法を考えたり、空に舞う自分の姿を想像したりした。そんな風にして過ごしていたら空が次第に赤くそまってきていた。今日ももう終わりか。僕はそう思ったとき、あることが頭に浮かんだのだった。望月さんは何か僕の冒険のような楽しいことはあるのだろうか?あるといいのだけど。僕はそんなことを考えていた。しかし、そんな僕の思いはどこにも誰にも届くことはなかったようだ。


 ある日の朝、僕が教室に入って行くと教室には人がいたのだけど、いつもの朝の騒がしさは全くなくて、教室の中は静まり返っていた。僕がどうしたのだろうと教室を見回すと望月さんが机の中から何かを出しているのが見えた。望月さんの足元にはゴミ箱があって机から出した紙くずなどをゴミ箱に移していたのだ。

「望月さん、どうしたの?」

 僕は自分の席まで移動すると僕の前の席の丸メガネ漫画家の飯塚(いいずか)に聞いた。飯塚は僕の知っている人間の中で一番絵が上手く学校でもよく漫画を書いている。

「あー、なんか朝来たら誰かに机にゴミを入れられていたみたい」

「誰に?」

「分からないけど限りなくあれじゃない?」

 飯塚は暴れん坊グループの方に向かって顎を指した。僕は確かにかなりの確率でそうだと思ったけど断定はしなかった。机の中のものはかなりの量のようでなかなか終わらず、中には潰れた牛乳パックなんかも入っていた。さすがに牛乳の中身は入っていなかったようだけど何が起こったかは明らかだった。望月さんは顔を赤くして黙々とゴミを出してはゴミ箱に捨てていた。しばらくして全てのゴミを出し終えた望月さんは今度はゴミ箱を抱えて教室を出た。きっとゴミ捨て場に持っていったのだろう。僕はその様子を見ていて自分の心が何かドロドロとしたものにまみれ、ゆっくりその黒いドロドロの液体の中に沈んでいくような気がした。これはなんなのだろうか?なんの目的でこんなことが起こるのだろう?こんな無意味なことは止めればいいのに。僕がそんなことを考えても現実は何も変わらなかった。

 別の日にもゴミは忘れた頃に望月さんの机の中に入れられ、その片付けを手伝った古田さんの机にもゴミが入れられるようになった。古田さんのことはクラスのみんなにもし望月さんを助ければ今度はお前の番だと思わせる警告のようなものになり、ゴミを片付ける望月さんに近づく子は誰もいなかった。そして、これまで何があっても望月さんと一緒にいた古田さんがとうとう望月さんと話すのを止めてしまったのだ。この状況では誰も古田さんのことは責められないだろう。それ以来、狙われるのはまた望月さんだけになった。

 ここまでみんなに嫌がらせをされているのに、どうして望月さんは先生に言わずに我慢しているのだろう?どうしてこんなになっても学校に来ているのだろう?僕は望月さんの心が不思議だった。そういえば、うめぼしに何を言われてもみんなに何をされても望月さんは顔を赤くするだけで泣いたことはなかった。表情が泣きそうなときはあったけど、それでも望月さんは泣くことはなかったのだ。望月さんは心の強い人なのだろうか?それとも鈍感なだけなのか。何度考えても僕は望月さんの気持ちを理解することができなかった。

 でも、悪いのは望月さんではない。元はといえばうめぼしが望月さんを長い時間立たせたり失敗したことに怒るようなことを言ったのがいけなかったのだ。クラスのみんなはうめぼしが望月さんを怒るのを見ていて、自分たちも失敗する望月さんを怒ってもいいのだと思ってしまったに違いない。それだけではない、きっと、みんなうめぼしに怒られるのが嫌でいつもビクビクしているから、うめぼしがいない時にその心のモヤモヤを望月さんにぶつけているに違いない。僕はそう思いついた時、自分の心が熱くなるのを感じていた。クラスの一人の女の子にみんながそんなことをしていいはずはない。みんなのやっていることはずるくて恥ずかしいことだ。そういう僕だって恥ずかしい人間だ。望月さんが嫌なことをされているのに、それを知っていて止めないのは恥ずかしい人間のすることだ。望月さんに悪口を言ったり、嫌がらせをする人もそれを黙って見ている人も、このクラスの全員がどうしようもない恥ずかしい人間なのだ。僕は自分の気持ちが高ぶっているのが分かったけど、そんな心の思いを止めることはできなかった。

 そして、ある日の休み時間、暴れん坊グループの大野たちが望月さんの机のそばを通りかかった時、机の横に掛けてあった体操着の袋が固まって歩いていた大野たちの誰かにぶつかって床に落ちたのを僕は見ていた。すると、それに気がついた大野が望月さんの体操着袋を拾い上げ後ろにいた暴れん坊グループのメンバーに向けて投げつけたのだ。

「うわー、望月バイキン攻撃ー」

 すると体操着袋はグループの今井(いまい)に命中し、今度は今井が大野に向かって体操着袋を投げ返した。

「望月バイキン返しー」

 大野たちは「望月バイキン」と繰り返して叫びながら望月さんの体操着袋を投げ合った。望月さんは固まったまま自分の机から動けずにいた。そして教室にいた誰もがその様子を唖然として見ているだけだった。気がついた時、僕は大野の前に立っていた。すると大野は不思議そうな顔をして僕に体操着袋を投げた。

「もうやめろよ」

 僕は望月さんの体操着袋をキャッチしてそう言った。

「青井、望月のバイキンうつるぞ」

 大野が言った。

「本当のバイキンは大野たちなんじゃないの?」

 僕が言い返すと大野は急に目をむいて僕に向かって近づいてきて僕の胸を押した。すると他のグループのメンバーがやめろってと言って大野を抑えた。

「青井、覚えてろよ」

 大野は僕をにらんでそう言って自分たちの席に戻っていった。

 僕は体操着袋を望月さんに渡すと、望月さんはやっぱり赤い顔をして何か言おうとしていたのだけど口がパクパクするだけで何を言っているのか僕には分からなかった。僕はその場から早く離れたくてすぐに窓際の自分の席に戻った。僕が席に座ると自分の心臓がすごい勢いでバクバクしていることに気がついた。僕は何かとんでもないことをしてしまったのかもしれない。でも、僕はいつかこうなる時が来るのは分かっていた気がした。僕はもう望月さんだけが嫌な目にあっているクラスの中にいたいとは思わなかった。そうするには僕がこのクラスからいなくなるか僕が止めさせるかしか方法がなかった。

 今更だけど僕はこれから僕に起こることを考えると気持ちが重くなった。きっと僕は望月さんほど心の強い人間ではない。そういえば望月さんの名前は「こころ」だったはずだ。そうか、だから望月さんは心が強いのか。僕はそんなことを考えている自分が少しだけおかしくなったけど心の底にある不安は消えることがなかった。あー奇跡でも起こってクラスのみんなが望月さんの今までのことを忘れてくれたらいいなと僕は本気で考えていた。

 僕に対する最初の嫌がらせは音楽の時間が終わり、みんなが音楽室からクラスに戻った時に発覚した。僕が教室に入るとみんなが黒板を見ていた。そして、僕を見つけたみんなが僕を見た。黒板には「青井、望月結婚おめでとう」と書かれていた。ご丁寧に立体的に書かれた文字は本当のことならすごくおめでたい感じがしたけど、これは本当のことではない。僕は馬鹿らしいと思いすぐに黒板の文字を消そうと思ったのだけど、僕がこれを消すのは何か自分がこの嫌がらせに反応しているようで悔しいような気がして僕は無視をすることにした。遅れて教室に入って来た望月さんも黒板の文字を見つけたようだ。望月さんは一瞬、僕を見たような気がしたけど黒板の文字を消すことなくそのまま自分の席に座った。

 この時、僕はこの後の成り行きが少し楽しみになった。きっと、これを書いた人は僕か望月さんが慌てて黒板の文字を消すのを想像していたのだろう。でも、僕たちはそれを無視したのだ。僕は何か望月さんと無言の意思疎通ができたようで嬉しい気持ちだった。このまま、うめぼしが来れば犯人が追求されることになる。これは見ものだ。次の授業が迫り教室内に緊張が走るのが分かった。さあ、どうなる?しかし、ギリギリのところで動いたのは日直だったまじめ類の佐藤(さとう)さんだった。佐藤さんはみんなの視線を一身に背負いぎこちない動きで黒板に向かい結婚を祝う文字を急いで消したのだった。確かにいたずら書きを残したままいたら日直の責任が問われる可能性もあったのだからしっかり日直の仕事をはたしたということだ。佐藤さんが黒板消しを置いた直後、うめぼしが教室に入ってきた。うめぼしは教室内の異変には気がつかなかったようだ。

 僕は授業中、今の出来事のことを考えていた。僕は今までいろいろ嫌がらせを受けていた望月さんの気持ちが少し分かったような気がした。僕が見てきた望月さんは嫌がらせを受けた時にほとんど感情をあらわにして反応することがなかったと思う。きっと、それは今の僕の対応と同じだったのではないかと思ったのだ。いちいち嫌がらせに反応するのは面倒なのだ。それに嫌がらせをしている人が見たいのは望月さんが困った反応をすることだ。だから、あえて望月さんは嫌がらせに対して反応をせず、実害のあることだけ落ち着いて対処するようにしていたのだと僕は思った。僕がその考えに行き着いた時、僕は望月さんはすごい人なのかもしれないと思った。確かに望月さんは緊張をするとおどおどしてしまうのだけど、心の底にはしっかりとした自分を持っているのではないかと僕は思った。そして、僕は今後も続くであろう嫌がらせに望月さんを見習って落ち着いて対応しようと心に決めた。

 次の日の朝、昨日の無視の仕返しと言わんばかりに僕の机の中にゴミが入れられていた。そして、それは望月さんも同じだった。僕と望月さんは無言でそれぞれの机の中のゴミをゴミ箱に捨てゴミ箱の中身を交代でゴミ捨て場に持って行った。僕たちは一切口を聞かなかったけどお互いにやることは分かっていた。僕は机の中にゴミが入れられることが続くと思っていたのだけど、この日以降ゴミが入っていることはなかった。望月さんは僕より早く学校にきているようで望月さんの机がどうなったのかは分からなかった。でも、僕の机が大丈夫なのだからきっと望月さんも大丈夫なのだろうと僕は思った。それからは時々、黒板にイタズラ書きがあるくらいで平穏な日々が続いていた。僕はその状況は僕と望月さんが嫌がらせに反応しないことで、嫌がらせをするのに飽きたのではないかと思った。もしそうなら、僕たちの勝利と言えるかもしれない。

 六月も半分を過ぎムシムシする暑い日が続いていた。昼休みも終わりの時間が近づき、僕は黒板の横に貼られている時間割で五時間目の教科が社会であることを確認した。僕は嫌がらせをされるようになってから昼休みに体育館やグランドで遊ぶのをやめていた。それは僕をあからさまに避ける子もいるし、僕と遊んでいると他の子もいやな思いをするかもしれないからだ。僕は大体、図書館で借りてきた本で空を飛ぶための研究をして休み時間を過ごす。

 ほとんどの子が教室に戻ってきた中、ふと見た教室の入り口で僕は信じられない光景を見た。髪の毛や洋服もずぶ濡れになった望月さんが教室に入ってきたのだ。髪の毛からはまだ雫が滴っている。外は曇ってはいるけど雨は降っていない。望月さんはゆっくりと歩いて自分の席に向かい俯いたままで椅子に座り込んだ。

 僕はすぐに教室の時計を見る。五時間目まではあと五分ほどだ。迷っている暇はない。僕はすぐに立ち上がり望月さんの席に向かった。クラス中の視線が僕に集まるのを感じていたけど僕はかまわなかった。望月さんの横に立つと望月さんは僕を見上げた。僕には望月さんの目が光を失っていたように見えた。そして、僕は初めて望月さんの目から涙がこぼれるのを見た。僕は手を伸ばし望月さんの手を掴むと、その手を引っ張り望月さんを立たせ、そのまま教室の入り口に引っ張っていった。望月さんの手はひんやりしていて冷たく感じた。教室を出たところで僕はどこに行くかを考えていなかったことに気がついたけど、僕は望月さんの手を引いたまま足を止めなかった。歩きながら僕が思いついたのは保健室だ。保健室に行こう。

 僕たちが保健室についてドアを開けると保健の村田里美(むらたさとみ)先生が望月さんを見て驚いてすぐにタオルを出してくれた。髪の毛をタオルで拭くときメガネを外した望月さんの素顔を初めて見た僕は急に心臓がドキドキするのを感じた。それから村田先生は望月さんの体を洋服の上から丁寧に拭いてくれた。その時、五時間目のチャイムが鳴った。

「何かあった?」

 村田先生が聞いた。望月さんは俯いて首を横に振る。

「先生、僕も何があったかは分かりません。でも、今日は学校が終わるまで望月さんをここにいさせてあげてください」

 村田先生は僕の言葉に頷いた。

「そうね。その方がいいわね。クラスと名前を教えてくれる?担任の先生には私から伝えておくから」

 僕はうめぼしに話をされるのが嫌だったけど仕方なく自分と望月さんの名前を教えた。

「青井くん。私、職員室に行ってくるから望月さんのそばにいてあげてくれる?すぐに戻ってくるから」

「分かりました」

 僕が返事をすると村田先生はすぐに保健室を出ていった。保健室には他に誰もいなくて部屋の中は静かだった。僕と望月さんは並んでパイプ椅子に座って村田先生の机の方をぼーっと見ていた。

「あ・・・、あの・・・」

 望月さんが急に声を出したので僕はびっくりして望月さんを見た。

「・・がとう」

 言葉の初めが聞こえなかったけど僕は望月さんが何を言ったのかが分かった。

「いいよ。でも大変だったね」

 望月さんはまた首を振って俯いてしまった。また僕たちは静かな世界に戻ってしまった。僕はなんとか望月さんの気持ちが落ち着いて欲しいと思ったのだけど、どうしたらいいのかが分からなかった。でも、なんとかしたくて僕は話をすることにした。

「ねえ、四年生の終わりに文集の作文書いたよね。私の夢ってやつ。僕、作文に僕の夢はパイロットになることですって書いたんだ。飛行機に乗って世界中を飛びたいとかなんとか。でも、それって嘘なんだよね」

 僕がそう言うと望月さんは僕の方を見てくれた。

「僕、本当は違うものになりたかったんだけど、それを書くときっとみんなに笑われると思って嘘を書いたんだ。僕が本当になりたいと思っているのってなんだと思う?」

 望月さんは首を傾げた。少し待っても答えが戻ってこなかったので僕は正解を言うことにした。

「正解は鳥。僕、本当は鳥になりたいんだ」

 望月さんはほんのわずかだけど頬が上がり微笑んでくれたような気がした。そして何かを言おうとしてくれたのだった。

「ど・・・、どうして?」

 僕は望月さんが質問をしてくれたのが嬉しくて笑顔を返した。

「僕、河原でよくトビが飛んでいるのを見ていて、なんかすごく気持ちよさそうに空を飛んでいるなーって思ったんだ。トビってピーヒョロロロロって鳴くやつね。鳥って自分の体だけで風をつかんで空を自由に飛ぶよね。僕も飛行機とかじゃなくて自分の体で風を感じながら空を飛んでみたいと思ったんだ。そうして僕たちの住む町を空の上から見てみたいなって。でもさ、僕が本気で鳥になりたいって書いて文集に載ったら一生笑われるよね。それで、しかたなくパイロットって書いたんだよね」

「わ・・・、笑わない。わ・・・、わたし・・・、いいと思う」

 望月さんの澄んだ瞳が僕の目を見ていた。

「ほんとう?そう言って貰えるとすごく嬉しい」

 僕がそう言うと望月さんの頬がさっきより上がった気がした。

「望月さんは?どんな夢を書いたの?」

 僕がそう聞くと望月さんの顔がさっと赤くなるのが分かった。

「わ・・・、わたしは・・・、動物のお医者さん」

「ほんと?望月さんは動物が好きなんだね?」

 望月さんはコクリと頷いた。

「本当の本当は僕と同じで何か動物になりたかったってことはないよね?」

 僕がそう聞くと望月さんは今度こそ笑顔とわかる笑顔を浮かべ思わず口から息を漏らした。

 その笑顔は僕の心に深く深く染み込み、思わず涙が出そうになったのだけど僕はそれを我慢して笑顔を返した。

「ほ・・・、本当の夢です」

 望月さんがそう答えたとき保健室のドアが開いて村田先生が帰ってきた。村田先生は僕たちに向かい合う形で椅子に座った。

「望月さん、どう?気分が悪いとかない?」

 望月さんは小さく首を振った。

「そう、良かった。今、先生方には話してきたから望月さんは学校が終わるまでここにいても大丈夫。特別にココアでも入れてあげるからゆっくりお話でもしましょ。それでいいかな?」

 望月さんは僕の方を見た。

「青井くんは六時間目から教室に戻ってもいいけどどうする?」

「僕も今日はここにいてもいいですか?」

 僕は望月さんだけをここに置いていくのは嫌だった。きっと先生と二人きりになるのは緊張するし気持ちが落ち着かないはずだ。

「ええ、いいわよ。じゃあ今日は三人でお話をしましょう」

 村田先生がそう言うと望月さんが僕を見て微笑むのが分かった。その微笑みを見て僕は安心する。

「二人ともこっちのテーブルに移動して待っていて」

 村田先生はそう言って戸棚からカップを取り出して準備を始めた。僕たちはテーブルの椅子に移動して村田先生がココアの準備をするのをじっと見ていた。村田先生がテーブルにココアが入ったカップを置くとおいしそうな匂いがフワッと漂ってきた。

「さあどうぞ。熱いから気をつけてね」

 僕たちはカップを手に取りココアをそっと飲んでみた。口の中にココアの味と甘さが広がり何か心がホッとする気がした。

「おいしいです」

 僕が言うと村田先生は顔を明るくした。

「ほんとう?良かった」

 三人はしばらくココアを黙って飲んでいた。

「どう、落ち着いた?」

 僕たちは頷いた。

「もし、できたらでいいんだけど、今日、何があったか教えてもらえるかな?」

 村田先生がそう聞くと望月さんは俯いて首を振った。

「分かった、ごめんね。今日はその話を聞くのはやめにしましょう。さっき二人で何かお話してた?」

「はい、四年生の時の文集で書いた夢の話をしていました」

 僕が答えると村田先生は興味を持ったようで笑顔になった。

「ほんと?二人はどんな夢を書いたの?」

「僕はパイロット、望月さんは動物のお医者さんになることです」

「まあ、二人ともいい夢ね。先生応援するわ」

「でも、実は僕のその夢は嘘だって望月さんに話していたんです」

「えっ、それってどういうこと?」

 村田先生が驚いた顔をしたので僕はさっき望月さんにした話を村田先生にも話をした。すると先生は笑って青井くんは面白いわねと喜んでくれた。そして村田先生も僕の本当の夢を応援すると言ってくれた。それから話は村田先生の夢の話になり村田先生の子供の頃の夢だったパン屋さんからどうして保健の先生に変わっていったかを話してくれた。僕と望月さんは村田先生の話が面白くてすぐに話に引き込まれた。そうしている間に時間はあっという間に過ぎ、六時間目の授業の終わりのチャイムが鳴った。

「望月さん。どう?帰りは誰かと一緒に帰る?それとも先生が送ろうか?」

 望月さんはしばらく考えていた。

「ひ・・・、一人で・・・、か・・・、帰れます」

 望月さんの答えを聞いて村田先生も少し考えていた。

「青井くん。望月さんを送っていけるかな?」

「はい。大丈夫です」

 僕の答えを聞いても村田先生はまだ考えていた。

「分かった。じゃあ、そうしてもらおうかな。職員室に電話してみるからちょっと待っていて」

 そう言うと村田先生は自分の机に行って電話をかけた。電話の内容は僕が望月さんを家まで送っていくという話だった。

「じゃあ、今日は青井くんにお願いすることにする。よろしくね。望月さんもそれでいい?」

 望月さんはコクリと頷いた。

 僕たちはみんなが下校を始めるまで保健室で待ってから、僕が教室にランドセルを取りに行った。教室にはすでに誰もいなくてポツンと残った二つのランドセルに机の中の荷物を詰めて僕は保健室に戻った。それから村田先生は僕たちを玄関まで送ってくれて僕たちは村田先生に「さよなら」と挨拶をして学校を出た。

 望月さんに聞いた家の方向は僕の家とは違う方向だったけど、冒険野郎の僕にはまったく問題がなかった。僕たちは並んで歩きながら僕は冒険で発見した町の秘密を望月さんに話した。望月さんは自分が緊張するとうまく声が出せないことを教えてくれた。でも、僕といることに慣れた望月さんはたどたどしさは残るけど最後はかなり言葉が出るようになっていた。そして十五分くらいで僕たちは望月さんの家に着いた。

「じゃあ、望月さん。また月曜日」

 僕がそう言うと望月さんの瞳が僕をじっと見ていた。

「うん」

「そうだ。僕、何があっても望月さんの味方だから。何かあったらなんでも言って」

 望月さんはコクリと頷いた。

「あ・・・、ありがとう」

 今はしっかりと望月さんの言葉が聞こえた。僕は望月さんのありがとうという言葉が嬉しかった。望月さんは一度動きかけて止まってからまた僕を見た。

「あ・・・、あの」

「うん」

「と・・・、鳥になるの頑張って」

 僕は望月さんの言葉が嬉しくて今日一番の笑顔を望月さんに返した。

「うん、頑張るよ。鳥になったら望月さんに見てもらう」

 望月さんの顔も僕が知っている中で今日一番の笑顔だった。

 僕は手を振って望月さんが家に入るのを見送った。望月さんも小さく手を振ってくれて、やがてその姿がドアの中に消えた。僕は望月さんの家の門から外に出ると一度深呼吸をした。そして僕は今日はもう冒険なしで家に帰ることにした。どうしてかというと、いろいろな思いが頭の中で渦巻いていたからだ。今日、望月さんの身に何が起こったのだろう?その時、望月さんはどう感じたのだろう?僕はちゃんと望月さんを支えてあげられただろうか?僕は今日、望月さんと話ができて嬉しかったのだけど、望月さんはどうだったのだろう?僕の頭の中ではいろいろな疑問が浮かんでは消えていくのを繰り返していた。そして一日の終わりに僕は何があっても望月さんを支えて今の状況をなんとか変えられるように頑張ろうと思ったのだった。どうしたらそれができるのかは今はまだ分からない。でも、今日、僕は望月さんと初めて話すことができたし、きっと僕たちはこれからいろいろな話をして、僕たちができることを協力してやっていけばなんとかなるはずだ。僕はそう思った。


 月曜日の朝、僕は教室に入るとすぐに望月さんを探した。でも望月さんの姿は見えなかった。いつもは僕より早く来ていたはずだからちょっと心配になる。僕が自分の席に座ると机の中にゴミが入っていた。僕は望月さんのことが気になって机の中のゴミを放っておいた。時間が過ぎ朝の会の時間が迫ってくると僕の心配はどんどん大きくなっていった。もしかしたら望月さんは金曜のことで学校に来るのが嫌になったのかもしれない。でも僕は僕の勝手な思いだけど、なんとか望月さんには学校に来て欲しいと思った。そうすればきっと僕にできることがあるはずだからだ。でも、そうはならなかった。それどころか時間になってもうめぼしも教室にやってこなかったのだ。クラスのみんなが異変に気づきさわぎ始める。みんなはうめぼしがいなければ今日はずっと自由時間だとはしゃいでいる。そして、やっとそんなクラスの暴走を止めたのは副担任の若武者、小関宏紀(こせきひろのり)先生だ。若武者は若くて元気がいいのが僕の知っている若武者の唯一の取り柄だ。すでに一時間目の始業のチャイムがなってから教室に入ってきた若武者の表情には一切笑顔はなく、教室に入って来るなり話を始めた。

「みんな、静かに。今日は岡崎先生は用事があって授業に来られません。代わりに三時間目からは僕が授業をします。でも少し準備があるので一時間目と二時間目は自習にします。クラス委員と日直は協力してみんなが静かに自習するように見ていてください。騒いだりしたらすぐに誰か先生が来ますからね。いいですか?」

「はい」

 返事をしたのは主に女子だ。このクラスでは女子が返事をする係のようだ。

 若武者は一度みんなを見回すとすぐに教室を出ていった。若武者が出ていった後の教室はすぐにまたざわつき始めた。それをクラス委員が止める。そんなことを何度か繰り返した。もちろん自習という突然の天の恵みに喜ぶ声もあったけど、うめぼしはどうしたのだろうという疑問がクラスの中を浮遊していた。しかし、僕だけはみんなとは違う疑問が僕の心を捉えて離さなかった。望月さんはどうしたのだろう?その答えはどこからももたらされることもなく昼休みを迎えた。この時、僕は望月さんとうめぼしがいないのは何か関係があるのではないかと疑っていた。そして五時間目を告げるチャイムが鳴った。間も無く教室のドアが開いた時、クラスの全員の頭の中にはてなマークが飛び交った。

「みなさん、静かに。これからみなさんに大事なお話があります」

 そう言ったのはピカリン校長だ。ピカリンというのはいわゆる頭の毛が寂しい状態を表している。

 ピカリン校長の登場はもちろん、それに連なって数人の先生が教室に入って来たことで何かただ事ではないことが分かる。一番後ろには保健の村田先生の姿も見えた。ピカリンは教壇に立つと一度みんなを見回した。

「みなさん、落ち着いて私の話を聞いてください」

 全員が何が起こったのだろうとピカリンの方を見つめている。

「実はとても残念で悲しい出来事がありました。このクラスの望月さんが日曜日に病院に入院しました」

 入院という言葉に僕の頭が反応し、その理由を考え始めていた。金曜日に僕が家まで送っていった望月さんが病気であったはずはない。

「望月さんは事故にあって病院に運ばれましたが今は眠った状態で今のところ目を覚ましていません。お医者さんはこれから望月さんがどうなるか今はなんとも言えない状態だと言っているそうです。望月さんのご両親はもちろん学校の先生方も望月さんのことをとても心配していますし、早く目を覚まして元気になって欲しいと思っています。今、話を聞いたみなさんもきっと心配だったり不安な気持ちになるかもしれません。でも、今はみんなで望月さんがすぐにでも目を覚まして、また元気な姿で学校に来られるように祈りましょう」

 僕は全身の力が抜けた。椅子の背もたれに体を思いっきりもたれかけ、ピクリとも動くことができなかった。

 僕の心にあったのはどうして望月さんが?という思いだった。学校で辛い思いをしてきた望月さんがどうしてまたこんな目に合わなければならないのだろう。せっかく話ができるようになったのに。これからもっと話をして、嫌がらせなんか二人でぶっ飛ばそうと思っていたのに。どうして?僕の心の中に悔しさがこみ上げてきた。

 その時だった、周りで声をあげて泣く声が聞こえてきたのだ。クラスを見回すと女の子たちが泣いていた。その光景を見た瞬間、僕の心は怒りの感情で爆発しそうになった。この人たちはなんで泣いているのだろう?あれだけ望月さんの悪口を言っていたくせに。さんざん嫌がらせをしていたくせに。誰も望月さんを助けなかったくせに。金曜日だってきっと女子がトイレで望月さんに水をかけたに違いない。それなのにどうして急に望月さんが大変なことになったからって今まで何にもなかったかのように声を出して泣けるのだろう?うめぼしだって望月さんを立たせたり怒ったり、他の先生だって誰も望月さんを助けなかったじゃないか?みんな頭がおかしいのではないか?僕は自分の感情が爆発しそうになるのが分かったけどなんとか我慢した。

 ピカリンたちは話が終わってもクラスに残りみんなに話しかけていた。そして保健の村田先生が気分の悪くなった人がいないかを確認したあと、若武者が望月さんのためにクラスのみんなでできることを考えようと言いだした。クラス委員が前に立ち意見を聞き始めるとピカリンたちも教室の後ろに残ってその様子を見ていた。ここにいるみんなが今さら望月さんのためにできることなんてあるのだろうか?そんなことを望月さんが喜ぶとは思えなかった。折り紙の鶴を折る、お見舞いに行く、プレゼントを贈る、そんな嘘にまみれた意見が黒板の上を汚していく。ここにいる人たちはなんなのだろう?これが普通の人間の世界なのだろうか?本当の心を隠して嘘にまみれた作られた世界を演じるのが当たり前の世界なのだろうか?

 あっ、突然、僕の中に何かが舞い降りてきた。違う。違う、そうじゃなかった。おかしいのは僕の方だ。こんなにたくさんの子たちや先生たちの中で僕だけが正しわけがない。おかしいのは僕の方だ。そうだった僕は養子だった。本当の親がいらないからポイっと捨てられた子供だった。そういうことなのか。きっと僕がおかしな子だから僕は捨てられたのだ。きっと僕もみんなと一緒になって望月さんに嫌がらせをして喜んでいればよかったのだ。そうすればきっと僕はみんなんともっと仲良くなれたに違いない。僕はもう頭の中がぐちゃぐちゃでもう何も考えられなくなった。僕は頭を抱えて机に伏せった。

 二日後、学校で心のケアという面談が行われた。一番先に呼ばれたのは僕だ。僕が望月さんと最後に一緒にいたからに違いない。僕がその面談の部屋に入ると心のケアの先生という人と保健の村田先生と無印教頭が座っていた。無印というのは僕と関わりがなくあだ名のない状態だ。僕が三人の前に座るとすぐに村田先生の目にみるみるうちに涙が溜まってポロリとこぼれ落ちた。

「青井くん、先生、何もできなくてごめんね」

 そう言った村田先生の言葉の塊が僕の心に引っかかった。心のケアの先生は僕に不安だったり怖いと感じることがないかなどいろいろなことを聞いた。僕は適当に答えた。心のケアの先生は僕の心がまともだと思ったのか無印に向かって頷いた。すると今度は無印が質問を始めた。質問は望月さんがクラスでどう過ごしていたか?何か気になったことはないか?というようなものだった。僕は無印の質問を無視して僕が質問をした。

「望月さんはなんの事故にあったんですか?」

「そ、それは・・・」

 無印は目を見開いて固まった。

「ごめんね。細かいことはご家族の気持ちもあってお話しできないの」

 心のケアの先生が言った。

「僕も細かいことはご家族の気持ちがあるので話せません」

 僕がそういうと三人は驚いたように僕を見た。僕は村田先生の言葉から何かおかしいと感じたのだ。普通の事故なら村田先生ができることなんてないはずだ。それに無印がした質問の内容は事故にあった生徒に対して調べることではない。そもそもこの面談自体が子供達から何かを聞きだそうとするためにしていることなのではないかと僕は思った。きっと先生たちは何かを隠しているに違いない。そしてこの面談も望月さんが入院することになった原因を調べるためにやっているのかもしれない。先生たちは僕たち小学生が何もわからないバカだと思っているのだろうか?適当なことを言えば簡単にごまかせるとでも思っているのだろうか?ここまで考えた時、僕の心の中に一つの答えが浮かんでいた。望月さんは自殺しようとしたのではないのだろうか?そして、それは望月さんに対する嫌がらせによって起きてしまった?

「望月さんは自殺したんですか?」

 僕の言葉を聞いて三人が顔を見合わせた。さっきの無印の反応といい今の三人の反応は学校の図書館にある子供探偵シリーズに出てくる犯人の嘘を見抜く場面と全く同じだった。間違いない。

「本当にごめんなさい。それは教えられないの」

 ケアがもう一度同じことを言った。

「青井くん、ありがとう。青井くんはしっかりしているし大丈夫です。でも何か心が苦しくなったり辛くなったらいつでも先生に言ってね。こういう時は心がすごく傷つきやすいの。だから少しでもおかしいなと思ったらいつでもいいから」

 ケアがもう話は終わりだというように面談を終わらせた。僕は部屋を出ると走って教室に戻った。

 僕が戻った教室では授業が続いていてクラスの全員が帰ってきた僕の方を見ていた。そして僕の次に古田さんが面談に向かった。古田さんは本当のことを話すのだろうか?僕は自分の席に戻ると面談のことを考えた。

 今の面談からして望月さんはきっと自分で自分の命を絶とうとしたのだろう。そして無印たちは生徒から話を聞いて学校でその原因となるようなことがないかを調べようとしていたに違いない。僕はまた心の中に怒りの感情が湧き上がるのを感じた。望月さんはうめぼしやクラスのみんなの嫌がらせのせいで殺されそうになっているということだ。僕は望月さんの目からこぼれ落ちた涙を思い出した。今までずっと涙を流さなかった望月さんがあの時だけ涙を流したんだ。どれほど辛かったのだろう?僕は目をつぶって次々に沸き起こる怒りを必死で抑えようとした。しかし、その強烈な怒りはなかなか収まらなかった。

 どれくらい時間が経ったろう。僕はもう一度考えた。もし僕の考えが正しかったのなら僕はあったことすべてを全部面談でぶちまけた方が良かったのだろうか?そうすれば、うめぼしやクラスのみんながしたことが明らかになったはずだ。でも僕は単純にそうは思えなかった。すでに先生たちは僕たちに本当のことを隠そうとしている。そんな先生たちは子供達から聞いた話を自分たちの都合のいいようにねじ曲げてしまうのではないか。僕はそう思った。僕はもう学校の人間は誰一人として信用することはできないと思った。

 全員の面談が終わった次の日、うめぼしが戻ってきた。その日、うめぼしは前と何も変わっていなかった。うめぼしは何事もなかったかのように授業を始めた。

 その次の日の朝、僕が教室に入り自分の机に行くと放っておいた机の中のゴミが増え、机の中はほぼゴミで埋まっていた。僕は椅子に座ることなく教室を出て、今、来たばかりの学校を出た。僕は学校に行くのを止めた。六月の終わりの蒸し暑い日だった。 


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