連載 鳥になりたかった少年 第三話


『連載 鳥になりたかった少年 第三話』/浅野直人

 父さんと母さんとの話し合いは休憩を挟んで数時間に及んだ。僕は学校で起こったことと僕の気持ちをすべて父さんと母さんに話した。父さんと母さんは頭ごなしに子供に何かを押し付けるような人たちではない。僕の話を聞いて父さんたちの意見を言い、最後には僕にどうするかを決めさせる。そういう人たちなのだ。それは僕が本当の子供ではないということが影響しているかどうかは分からない。でも、そんな風に僕を一人の人間として扱ってくれる父さんと母さんを僕は立派な人だと思う。そうして僕の登校拒否は正式に父さんたちに了承された。ただし勉強はおろそかにできないので午前中は塾講師の経験のある母さんの指導のもとでみっちり勉強。そして夏休みの宿題をやること、夏休み明けからの復帰をもう一度話し合うことが条件になった。もちろん僕はそれを受け入れた。

 僕はあの面談の後に一つだけ絶対に僕がしなければならないと考えていたことがあった。それは僕が僕の父さんと母さんに話したことを望月さんのお父さんとお母さんにも伝えることだ。いや、もっと詳しく伝えなければと僕は思っていた。学校の先生たちが生徒たちから聞いた話を望月さんのお父さんとお母さんに説明するのかもしれない。でも僕はその説明が信用できない。きっと望月さんの自殺の原因となるようなことは残念ながら見つかりませんでしたと言われてしまうのではないかと思った。

 僕は午前中に勉強を済ませ昼ご飯を母さんと食べた後、また自分の部屋の机に向かって手紙を書いた。手紙の最初のページにこの手紙には望月さんが学校であっていた辛いことが書かれているのでもし気が進まないときは読まないでくださいと書いた。それから僕は僕が知っている学校で望月さんに起こったことを順番に書いていった。中には僕の想像の部分もあるので、そこにはちゃんとそれが状況から考えた僕の想像であることを書いた。そして最後に僕が望月さんと話をした最後の日のことを書いた。でも本当は最後の日のことは僕が見た最後の望月さんを僕が思い出したかったのかもしれない。望月さんの透き通った涙、望月さんの手の感触、望月さんの素顔、望月さんの黒い瞳、望月さんの小さな声、二人の会話。僕はすべてを思い出しながら僕の心から溢れる言葉を紙に記した。目をつぶると望月さんの鼓動や吐く息の音を感じられるような気がした。僕は内容を読み返さずに母さんからもらった封筒に手紙を入れてすぐに望月さんの家に向かった。望月さんの家は静かにそこに佇んでいた。なんとなく今は誰もいないような気がした。僕は郵便受けに手紙を落とすとそこを離れた。

 気がつくと僕は河原にいて空を見上げていた。しばらく待ったけどトビは来なかった。手紙を書き終わった時から僕はそれまでと違った感情が心の底から湧いてくるのを感じていた。それは望月さんに対する怒りだ。どうして望月さんは自分で命を断つようなことをしたのだろう?そんなことをしても何にもならないのに。たった一回、涙を流しただけなのに。どうして?僕は望月さんの味方だって言ったよね。どうして?また月曜日って約束したのに・・・。僕はもう空を見上げてはいなかった。草むらの上で両膝を抱えたままずっと長い間地面を見ていたような気がする。でも本当は何も見ていなかった。風が草を鳴らすサワサワという音を聞いていた気がする。でも本当は何も聞いていなかった。ただ僕は頭の中に僕の体を動かす命令が落ちてくるのをじっとして待っていただけだ。それが落ちてきた時、僕はこの場所から去ることになる。

 手紙を書いたことで僕の中で一つ肩の荷が下りたような気がした。でも望月さんは今この瞬間にも生きるか死ぬかの大事な時間を過ごしているのかもしれない。僕に何ができるのだろう?ただ祈るだけでは何も起きない。もし祈って祈りの通りになったとしても、それはただの偶然に過ぎない。僕は宇宙の生命体の存在は信じるけど神とか幽霊は信じない。サンタクロースだって僕はもう卒業を済ませている。僕は望月さんの思いに沿うような何かをしたかった。望月さんは僕に何かして欲しいことはあるだろうか?でも今の僕の中にその答えはなかった。それは望月さんの心の中にしかないのだ。もう少し僕が望月さんのことを知っていれば。もっと早く望月さんと話をしていれば。そうすれば望月さんが何を望んでいるのかが分かったかもしれない。僕がそんな風に思ったのは今回が初めてではない。後になって、しまったと思うのは僕の得意分野だ。そんな自分を悔しく思う。こんな風にして僕の考えがカラカラ空回りすると、もう手がつけられない。そんなとき僕は冒険に出るのだった。

 冒険は僕に勇気と活力を与えてくれる心のご飯だ。僕はさてどこに行こうかと考え、久しぶりに釣りに行くとこにした。何か考えごとをする時に釣りはぴったりだ。でも、ただ釣りをするだけではつまらないので僕はいつもより少し上流の方に足を延ばし、新しい釣りポイントを開拓することにした。釣りの道具と水筒をリュクに詰め帽子をかぶって外に出る。天気は曇りだけど、ところどころ雲に切れ間があって釣りにはいい天気だ。気温も少し暑いくらいで、僕は家から一歩外に出ただけで気持ちが上がった。

 僕は早速、自転車にまたがり家を出発した。まずは河原まで行き、川沿いを上流に向かう。町からは山の姿が見え麓までは一時間かからないくらいだ。僕はひとまず山の麓あたりを目指すことにした。街中の河原は整備されていて堤防の土手の上を走ることができたけど、山に近づくにつれて土手がなくなり近くの国道沿いを走る。気持ちがはやっているせいもあってペダルをこぐ足に力が入っていたのかすぐに疲れが出てきた。少しペースを落とすと周りの景色を見る余裕が出てきた。さっきまで草の薄い緑だった景色の色が山に近づくにつれて濃い緑に変わっていく。いよいよ山の麓に近づくと上り坂が続く。僕は時々立ちこぎをしながら、ひとふみひとふみペダルを踏み込む足に力をいれた。汗だくになり、あーもう限界と思ったところで一度川の様子を見てみることにした。

 国道と川の間には林があったけど、ところどころに細い道があって川までつながっていた。僕はその中の一本の道を進み川に向かった。河原に出たとたん僕はよしと思った。河原には石がゴロゴロ転がっている広い場所があって、土手から川までの傾斜も緩やかだ。川の幅も街中より狭く流れの速いところと緩やかなところがある。水辺までいくともう少し上流に良さそうな場所を見つけ僕はそこまで行くことにした。一度、林に戻り近くの畑のそばの空き地を掘ってミミズを捕まえてプラスチックのケースに入れる。さっきのポイントの近くまで国道を移動して林を抜け、また河原に降りた。

 僕が見つけた場所は釣りをするには絶好のポイントだった。林は近くに迫っていたけど石の原が川の両岸に広がっている。雲の切れ間から射した陽の光が反射して川の水面がキラキラ輝いていた。あとは魚がいれば完璧だ。

 僕は早速、釣ざおを伸ばし、仕掛けを準備するとすぐに糸を川に落とした。流れに乗って浮きが水面を移動する。糸が伸びきると糸を上げてまた流れの上に落とす。焦ってはいけない。しばらく浮きを見ているとピクリと浮きが水面に沈む瞬間があった。よし、何か魚がいそうだ。下流で釣りをする時に釣れるのはフナばかりだけど、隣で釣りをしていたおじさんがこの川でニジマスを釣ったことがあると言っていた。本当かどうかは分からないけど上流のこの場所ならもしかしたら期待できるかもしれない。僕は勝手にそんなことを考え期待に胸を膨らませた。でも三十分ほど粘っても釣りざおをしならせる当たりは来なかった。んー、場所移動。

 今度は流れが緩やかなところだ。まずはひと試しと、糸を投げ入れた瞬間に竿先がしなる。きたー。一瞬だけ間を置いてから竿を引き上げる。よしっ、掛かった。銀色に輝く物体が水面を走る。近くまで引き寄せて勢いよく竿を引き上げる。フナだった。大きさもそこそこでなかなかの手応えだった。僕は釣り上げたフナから針を外しフナの形を観察するとポイっとフナを川に戻した。釣った魚はすぐに川に返すのが僕のやり方だ。幸先よく一匹釣れたことで僕は気分が良かった。それからもポツポツとフナが釣れ、この場所は僕の中でまあまあの釣りポイントとして認定された。

 長い雲の切れ間からのぞいた太陽が僕の頭の上をジリジリ焼き始めたころ、僕は木陰に移動して休憩した。水筒の水が冷たくてすごくおいしく感じた。僕はしばらく木陰の大きな石の上に座っていた。動かないでいるとまたいろいろな考えが頭の中に湧いてくる。どれくらい時間が経ったのだろう?突然、僕の後ろから声が聞こえた。

「釣れる?」

 僕が声の方を振り返ると男の子が立っていた。

「うん。一番じゃないけどまあまあ釣れる場所だと思う」

「よし、じゃあ俺も釣ってみようかな」

 男の子は僕の横にきて隣の石の上に座った。男の子は釣り竿を持っていた。

「ここで釣りしたことはある?」

「いや今日が初めて」

「この辺に住んでいるの?」

「いや町のほう。そっちは?」

「僕も町のほう。自転車でここまできた」

「じゃあ同じだ。坂道大変じゃなかった?」

「うん、大変だった。もう限界ってところでここにたどりついた」

 僕がそう言うとその男の子が微笑んだ。僕も笑顔を返した。

「僕は青井空。君は?」

「えっ?今日は曇りだよ」

「あ、そうじゃなくて僕の名前が青井、空っていうんだ」

「ほんと?文学的な名前なんだね」

「文学的?」

「うん、本とかに出てきそうな。言葉通りなら透き通った綺麗な心を持つ少年って感じかな」

 僕はその少年の想像に思わず笑って鼻から息が漏れた。

「そんなことないよ。僕の心はいつもドロドロしてる」

「辛いことがあるとか?」

「まあ、そんなところかな」

「じゃあ、今日は釣りでもしてぱあーっと盛り上がっていこうよ」

「そうだね。そうそう、君の名前は?」

「俺は青井海(あおいうみ)」

 僕の頭は一瞬、呆然としてその動きを止めた。

「ほんとに?」

「うっそー」

 僕は今度は吹き出して笑ってしまった。その少年も爆笑していた。僕たちはしばらく笑いが止まらなかった。

「本当は翼(つばさ)っていうんだ」

 僕はその名前を聞いてあっと思った。どうしてかというと僕はもし名前が変えられるならその名前がいいなと思っていたからだ。翼があれば僕は空を飛べる。

「僕は五年生。よろしくね、翼くん」

「俺は六年生。よろしく。よし、じゃあ早速じゃんじゃん釣ろうぜ」

 翼くんは僕より一年年上だった。でも翼くんは僕が年下でも特に気にかけた様子もなく、釣り竿を掴んで川に向かった。僕も翼くんの後を追った。僕たちは並んで釣りを始め、釣れるたびにお互いに魚の大きさを見せ合った。やっぱりここは一番じゃないけどまあまあ釣れる場所だ。しばらく釣りを楽しんだ後、僕たちはまた木陰で休憩した。

「翼くん、学校は?」

 普通ならちょうど今頃学校が終わる時間だ。僕は翼くんが僕と同じようにここにきていたことが気になっていたのだ。

「もう翼って呼び捨てでいいよ、空」

「分かった、翼」

「今日はサボり。学校ってなんかああしろこうしろってサイボーグでも作りたいの?って感じじゃん。みんな同じような考え方にして同じ方向に向けさせるのってどうかと思うんだよね。空は?」

「まあ僕もサボりかな。でも僕の場合はこのまま夏休みまでサボるつもり」

「へぇー、いいね。じゃあ、俺たちこれからもちょくちょく遊ぼうぜ」

「いいよ。そうだ、町の外れのこの川の支流って知ってる?そこに沢があってザリガニがめっちゃいる・・・」

 この後、僕たちは町の遊びスポットの話をして盛り上がり、今から夏休みの間にいろいろな場所に一緒に遊びに行くことを約束した。僕たちは水筒に残っていた水を二人で分けて飲み干した。

「ねえ空、さっき辛いことがあるって言っていたよね。あれってどういうこと?」

 僕は少し迷ったけど翼なら僕の気持が分かってくれるような気がして全てを話すことにした。そして僕は学校で起こった望月さんのことを翼に話をした。

「最悪だなそれ。俺も学校の全てをダメだとは言わないけど、先生が嘘をつくようじゃ生徒もそうなるわけだよな。空は天然記念物か絶滅危惧種ってところだな」

「なにそれ?」

「奇跡的に毒に侵されずに生き残った希少な生き物ってこと」

「それ褒められているの?」

「もちろん褒めてる。俺は空がそういうやつで良かった」

「なんか僕、そういわれると嬉しかも」

 僕が笑うと翼も笑った。

「よし、じゃあ思いっきりジャンプしようぜ」

「えー、意味わからないんだけど」

「いいから、やるぞ」

 そう言って翼はその場でしゃがみこんでから思いっきり腕を空に向かって振り上げてジャンプした。翼が楽しそうなので僕も真似してジャンプした。なんだこれ?楽しい。馬鹿みたいだけどただジャンプするのがこんなに楽しいとは思わなかった。そうか仲間がいれはなんでも楽しく思えるに違いない。どんなことでも仲間がいればきっと楽しいのだ。僕は久しぶりに大声を出して笑った。

 僕たちは自転車で横に並んで町まで一緒に帰った。帰りながら僕たちは漫画やゲーム、他にもいろいろな話をした。僕は翼と話してみて、翼は僕より心が強くて行動力のある子だと思った。一年だけ年上だけど僕は一年後に翼と同じようになっているとは思えない。でも、そんな翼と一緒なら僕も何か自分の心に勇気が湧くような気がした。翼と一緒なら僕はもっといろいろな何かができるような気がした。夕焼けに赤く染まる翼の横顔を見ながら僕はそんなことを思っていた。

 次の日の午後、僕たちはザリガニ沢でザリガニ釣りを楽しんだ。沢は林の中を流れていて大きな木の傘が太陽の陽を遮っているけど、気温が上がっていて素足で入った沢の水がひんやりとして気持ち良かった。この日はどちらが一番大きなザリガニを釣れるかの勝負だ。針金に餌をつけるという簡単な仕掛けでザリガニを釣る。沢の水は澄んでいて水の中のザリガニはよく見える。ザリガニの前にそっと餌を置くと餌に気づいたザリガニは少しだけ様子をみてからハサミで餌を捉える。その瞬間に針金を引き上げれば簡単に釣れる。ザリガニ沢は間違いなかった。

 僕たち大量にザリガニを釣って一番大きいものを残して他は沢の水に戻した。勝負に勝ったのは翼だった。最後の方まで僕が一番大きなのを釣っていたので僕はもう僕の勝ちだと思っていたのだけど、最後の最後に翼が釣ったザリガニは只者じゃなかった。その巨大なザリガニを見た途端二人は主が現れたと叫んだ。この沢の主。もう二人は勝負どころではなかった。主の出現に大騒ぎだったのだ。僕たちは主の大きさを何度も確かめてから主を沢に返した。主はゆうゆうと水の中に消えていった。主が消えた後も僕らの興奮はしばらく収まらなかった。僕らの遊びに限界はない。

 青空が広がっていたこの日、僕は翼を河原の草むらに誘った。もちろんトビを見るためだ。僕たちは河原の草むらに着くと、草むらに座ってそれから寝転んで空を見上げた。空には所々に白い雲が浮かんでいたけど、ほとんどの面積は青に染まっていた。

「天気いいな、空」

「空ってどっち?」

「ユーの空」

「英語?」

「そう」

「イケてるね」

「イケてるだろ」

 僕たちは笑っていた。その時、黒い影が空を横切った。きた。トビだ。

「トビが来た」

「うん。見えてる」

 ピーヒョロロロロ。トビが鳴いた。

「かっこいいな」

「うん。かっこいい。僕、トビが空を飛ぶのを見ていて僕も空を飛びたいと思ったんだ。ああやって大きく広げた翼で風を掴んで自由に空を飛び回るのって気持ちよさそうじゃない?僕はあのトビのように空を飛んで町を眺めるのが夢なんだ」

「っていうか俺も翼だけどね」

 翼がそういって舌を出したので僕たちはまた笑った。

「翼がいれば僕はもっと自由にこの世界を飛びまわれるかもね」

「俺と一緒に?」

「そう」

「よし、じゃあ俺たち二人で空を飛ばないか?」

「空を飛ぶの?」

「そう。もちろんトビのように本物の翼はないけどなんかで翼を作って空を飛ぶ」

「それってすごいね。でも、できるの?」

「分からない。でも、やってみないとできるかどうかも分からないだろ」

「そうだね。そうだよね。やってみないと分からない」

 僕は翼の提案に驚いたけど、すぐに自分の心が踊り出すのを感じた。僕たちが空を飛ぶ。すごい。それってすごすぎる。僕はおしっこがしたくなった。そう僕が最高にワクワクした瞬間だ。

 突然、翼が起き上がって走り出したので、僕も翼を追って走った。僕たちは「空を飛ぶ」と叫びながら走り回っていた。お腹の底から声を出しながら思いっきり走っていたら、僕はなんでもできるような気がした。怖いものなんて何もないと思えた。僕たちはきっと空を飛べる。翼と一緒なら飛べる。僕はそう思った。


 次の日、僕たちは図書館にいた。空を飛ぶための研究をすることにしたのだ。僕は学校でも前に一人で研究をしていたので、飛行機の羽に風が当たると上向きの力が起きて飛行機が浮くことは知っていた。さらに図書館で実際に空を飛ぶヒントになる本を探す。図書館に着くと僕たちはまず飛行機関係の本を探すことにした。いくつか飛行機が飛ぶ原理が書かれているものがあったけど一冊だけ子供向けの図解の多い本があって、僕たちはその本を読んだ。その中には僕が知りたかったことそのものズバリが書かれていた。そう、小学生が空を飛ぶために必要な翼の大きさだ。僕らはその大きさをみてがっくりした。必要な翼の大きさは二十メートル。さらにその翼を羽ばたくためにはドラゴン並みの筋力が必要とされていた。要するに小学生の僕らには無理ということだ。僕はすでに諦めモードだったのだけど翼は違った。

「でもさ、よくテレビで大きなパラシュートみたいなやつとか、三角形のカイトみたいなやつで空飛んでいるのって見るよね。ああいうのなら飛べるんじゃない?」

 僕は翼の言った言葉で気持ちが復活する。

「確かにテレビで見たことある。でも、ああいうのって羽ばたかないよね。どうして空を飛べるんだろう?」

「空、ここがどこか覚えてる?」

 僕は一瞬、翼が何を言っているんだろうと思ったけどすぐにその意味を理解する。

「行こう」

 僕たちはスポーツの本が置かれている棚に向かった。するとそこにはパラグライダーとハンググライダーの本があった。僕たちは数冊を棚から取り出し、近くの机で本を読んだ。そして僕はさっきの僕の謎の答えを理解した。パラグライダーやハンググライダーは丘や山の高いところから飛ぶので羽ばたく必要はないのだ。その代わり少しずつ高度を下げて降りていくのだけどうまく風をつかんだり上昇気流というのに乗れれば空高く上がれるのだということが分かった。僕はトビの姿を思い出した。トビと同じだ。風をうまく掴めば羽ばたかなくても空高く飛べる。僕は心臓の鼓動が早くなり体が熱くなるのを感じていた。

「翼、このハンググライダーの三角の翼を試してみない?」

「いいね。やるか?」

「やるに決まってる」

「空、目の中がメラメラ燃えてるぞ」

「どうりで翼が赤く見えると思った」

 僕たちが声をあげて笑うと周りにいた大人が僕たちをにらんだ。僕たちは頭を下げて謝ったけど顔のニヤケは止まらなかった。この後、僕たちは必死で飛行機が飛ぶ仕組みの本を読み解き、速度が大きくなれば同じ翼の大きさでも上向きの力が大きくなることが分かった。逆にいうと速度が早ければ翼も小さくできるということだ。僕たちは自転車に三角の翼をつけたらどうかという案をだし、これを検討することにした。そして僕たちはまず大きさの少し小さいもので実際にうまく飛べるかの実験を行うことに決めた。僕たちは大体のやり方を決めると図書館を出た。僕は心がワクワクして思わずスキップをしそうになるくらいだった。

「それと俺からもう一つ提案がある」

 翼がそう言った時、僕はもちろん僕たちが飛ぶための翼の話だと思っていた。でも翼は僕の方を見てニヤリと笑った。

「望月さんのことだけど」

 僕は突然、望月さんの名前が出てきたので動揺した。翼は何を言い出すのだろう。

「空は望月さんに会いたくないか?」

「えっ、望月さんに」

 僕はあまりに驚いて声をあげた。

「そう。望月さんに」

「でも望月さんは病院に入院していて眠ったままのはずだよ」

「知ってる。でも眠っていても近くで応援できたらそうしたいと思わない?」

「まあ確かにそうだけど。でも、どこの病院かも分からないし。そんなことできないんじゃない?」

「それ空の悪い癖。何事もやってみないとできるかどうかは分からない」

 僕は翼の言葉にハッとした。確かに僕は今まで頭の中だけで考えてできないと諦めたことが何度もある。そして、そのほとんどの場合、後で後悔したことがあったのだ。

「そうだね。翼の言う通りだ。僕、いつも自分で自分はできないって勝手に考えて大切なものから逃げて来たのかもしれない」

 翼は僕をみて頷いた。

「分かった。僕やるよ。いや僕は望月さんに会いに行きたい」

「よし、そうこなきゃ。じゃあ、そうと決まれば早速明日決行だ」

「明日?」

「まさか怖くなったとか?」

「大丈夫。急でびっくりしただけ。それにしても翼はイケイケだよね」

「そう、それが俺のいいところでもあり欠点でもある」

 僕たちは顔を見合わせて笑った。

 僕は翼の突然の話に驚いたのだけど、今は翼に感謝したい気持ちでいっぱいだった。僕は本当は望月さんに会いにいくべきだと心のどこかで思っていたに違いない。でも自分には勇気がなくてどうしていいかが分からなくて逃げていただけなのだ。翼はそんな僕の気持ちを分かってきっと僕の心の奥底からその思いをすくってくれたに違いない。それにしても翼は何者なのだろう?もちろん僕と同じ小学生ということは分かっている。でも僕にとって翼という少年は何か特別な存在であるように感じていた。翼は僕を新しい世界に導いてくれる存在のような気がした。

 次の日、僕たちは町の神社に行ってお守りを買いにいった。神社の人はどのお守りにしますかと僕に聞いた。どうやらお守りには種類があるらしい。確かに並んでいるお守りには家内安全、商売繁昌、合格祈願、縁結びなどと書かれていた。僕が病気の人が良くなるのがありますかと聞くと病気平癒というのを勧められたのでそれを買うことにした。僕は漢字の意味が分からなかったけど病気が良くなることを祈るお守りと聞き、それにしますと答えた。しかし、お守りはいいけど僕たちは望月さんが入院している病院が分からない。僕はそれが気にかかっていたのだけど翼が言い出した作戦は単純なものだった。望月さんの家から両親が出てくるのを見張って後をつけるというものだ。確かにそうなんだけどいつ両親が病院に行くかは分からない。だから僕たちは長い時間望月さんの家を見張っていなければならない。しかも家から出て来た両親が病院に行くとは限らない。僕が望月さんの家に行って聞いてくるという案もあったのだけど、僕はすでに学校で起きたことを知らせる手紙を送っていたから望月さんの両親は学校の子たちを警戒しているかもしれないし、お見舞いを断られる可能性もある。そうなると僕は翼の作戦に頷くしかなかった。僕たちは神社からまっすぐ望月さんの家に向かった。

 望月さんの家の近くには小さな公園があって、そこから望月さんの家を見張ることができた。翼は病院に通うのはきっとお母さんの可能性が高いという推理を打ち出し、僕たちはお母さんが出てくるのを待った。しかし、この日は午後の遅い時間だったからか空振りだった。次の日は土曜で僕の午前中の勉強が無い日だ。僕たちは朝から望月さんの家を見張ることにした。僕たちが望月さんの家に着いてから三十分くらい経った時だった。家から望月さんのお母さんと思われる人が出てきた。なんとなく雰囲気が望月さんに似ている気がした。間違いない。綺麗な服を着ていたし手提げ鞄を持ってどこかに出かけるようだ。僕たちは顔を見合わせて頷くとお母さんの後を追った。

 望月さんのお母さんは駅まで歩き、駅前のバス乗り場でバス停の前に並んだ。僕たちも少し離れて同じバス停に並ぶ。バス停には田中記念総合病院行きと書かれていた。僕と翼は拳を握ってお互いのお腹を叩きあった。お母さんは僕たちが思った通り、田中記念総合病院前でバスを降りた。もちろん僕たちもお母さんに続く。病院は白くて大きくて立派で僕はかなりビビっていた。でも、そんな僕の気持ちにはお構い無しでずんずんとお母さんの後をついていく翼に僕は従うしかなかった。お母さんは慣れた様子で迷うことなく病院内を歩き、入院病棟と書かれたところに入っていった。僕はもっと病院の入院患者がいる場所は入るのが難しいものと思っていたけど誰に止められることもなくあっけなく中に入ることができた。

 お母さんはエレベーターホールに向かいエレベーターがくるのを待っていた。やがて降りてきたエレベーターにお母さんが乗った。僕たちはお母さんがエレベーターに乗りドアが閉まる直前でエレベーターに飛び込んだ。

「すみません」

「何階ですか?」

 お母さんが僕たちに聞いた。すでに七階のボタンが光っている。

「あっ、同じです」

 僕がそう言うとお母さんは閉じるのボタンを押した。エレベーターに乗っているのは僕たち三人だけだ。

「お見舞い?」

 エレベーターが動き始めて少ししてからお母さんが聞いた。

「はいそうです」

「偉いわね」

「ありがとうございます」

 僕がそう言ったときエレベーターは七階に着いた。

「お先にどうぞ」

 お母さんにそう言われて僕たちは先に出るしかなかった。僕はエレベーターが開いた先がどうなっているかが全く分からなかったのでドキドキした。僕たちが先にエレベーターを出るとカウンターのようなところがあったけど、そこには誰もおらず奥に看護師さんがいるのが見えた。僕はそこで名前を聞かれるのかと思ったのだけど、お母さんは立ち止まることなく僕たちの横を通って奥の方に歩いていった。僕たちもカウンターを素通りして奥に向かう。奥の方にはテレビが置かれた待合スペースのようなところがあった。僕と翼はひとまずそこに入りながらお母さんが入る病室を覗き見した。お母さんが病室に入ったのを見届けて僕たちはその病室に向かった。病室の入り口には『望月こころ』と名前が書かれていた。ここで間違いない。

 病室のドアは開けっ放しで病室の奥に窓が見えていたけどベッドがあると思われる場所にはカーテンがかかっていて中が見えなかった。

「どうする?」

 僕が小さな声で聞いた。

「さっきの待合室でお母さんが帰るのを待とう」

 僕は翼の意見に頷いた。

 僕たちは待合室まで戻り、望月さんのお母さんが出てくるのを待った。待合室にはテレビがあってテレビの横の棚には雑誌や漫画などが置かれていた。僕たちは漫画を手にとって読みながらお母さんを待った。時々、看護師さんがさっきのカウンターと病室を行き来するけど僕たちには全く気を止めなかった。

 僕は漫画を読んでいたのだけど正直全く頭に入らなかった。僕はすごく緊張していた。時々、僕は翼の方を見たけど翼は全く平気な様子で漫画を読んでいた。さすが翼だ。度胸があるというか無鉄砲という言葉が似合う。もちろん僕が緊張していたのはここが大きな病院というだけではない。僕はこれから望月さんと会うということが信じられないし、どうしたらいいのだろうと思っていたのだ。しかも望月さんは眠っているのだ。望月さんのお母さんが病室から出てきたのは一時間くらいあとだった。帰りはカウンター内の看護師さんと少しだけ話をしてエレベーターに乗って降りていった。

「よし、行ってこい」

 僕は翼の言葉に動揺した。当然、翼も一緒に行くものだと思っていたからだ。

「えっ、翼は?」

「だって俺は望月さんのこと知らないし。俺、そんな野暮じゃないよ」

 僕は自分が不安で翼に一緒に来て欲しかったのだけど、翼が僕の背中を押したので僕はゆっくりと歩き始めた。そして僕は望月さんの病室の前で一度立ち止まり、「行こう」と心の中でつぶやいて病室の中に入った。病室にはいろいろな機器があって一箇所だけカーテンで仕切られている場所があった。カーテンの前に立ち僕は深呼吸をした。そして僕はカーテンに手をかけた。カーテンの端からのぞいた先にベッドの上に横たわる女の子の姿が見えた。鼻と口には大きなマスクが取り付けられていて機器とチューブでつながっている。他にも掛け布団の下からいくつかの線が出ていて機器に繋がっていた。病室には電子音が規則正しく鳴り響いている。

 僕は勇気を出してベッドに横たわる女の子に近づいた。望月さんだった。

「望月さん」

 僕は目をつぶって眠る望月さんを見て胸が熱くなった。その寝顔はとても綺麗で静かに眠っていた。僕はしばらくそのまま動くことができなかった。どうして?どうして望月さんはこんなことになったのだろう?僕は望月さんがこんなことになっているのに自分が何もできない無力さにそこに立ちつくすしかなかった。

「望月さん、ごめんね。僕、望月さんのために何もできてない。本当はもっと早く望月さんと話をしていればよかった。もっといろいろな話をしていればよかった。そうすればきっと望月さんを助けられたかもしれないのに。ごめんね」

 望月さんは僕の言葉に反応することはなくただ静かに眠っていた。僕は僕がいる間に奇跡的に望月さんが目を覚ますのではないかと思っていたのだけど、もちろんそんなことは起きなかった。少し落ち着いた僕は次第に心の中に感情が沸き立つのを感じた。それは僕の中でどんどん大きくなり、やがてその形がはっきりと見えるようになった。

「望月さん。僕やるよ。僕、望月さんがいつ学校に帰って来てもいいようにクラスを変える。二度と望月さんが嫌がらせを受けないようにクラスを、学校を変える。だから望月さん、戻って来て。僕、待っているから絶対に戻って来て」

 僕は掛け布団をめくり望月さんの手を握った。望月さんの手は前と同じようにひんやりとしていた。その時、僕は望月さんと最後に話をした時の望月さんの言葉を思い出した。

「と・・・、鳥になるの頑張って」

 そうだった。望月さんは僕にそう言ったんだった。

「望月さん、あと僕、鳥になるのを諦めていないから。親友と二人で空を飛ぶ計画をしているんだ。だから望月さんにも僕が空を飛ぶのを見て欲しい。絶対見に来てね」

 僕は持って来た赤いお守りを望月さんの手に握らせた。望月さんの手の上に掛け布団をかけると僕はもう一度望月さんの顔を見た。その顔は気のせいかさっきより赤みを増しているような気がした。

「望月さん、じゃあまたね。絶対また会おうね。会って話をしようね」

 僕は望月さんに深く頭を下げて病室を出た。病室の前で上を向いてもう一度深呼吸した。僕はこの時、望月さんとの約束を全力で実現すると自分に誓った。

「どうだった?」

「静かに眠っていた。でも僕、眠っている望月さんに勇気をもらった」

「そっか」

「だから望月さんがいつでも学校に戻ってこられるようにする」

「やるのか?」

「やるよ」

「じゃあ、俺も手伝うしかないな」

 僕たちは空中で手を握り、もう一方の手でお互いの背中を叩きあった。僕は帰り道に僕が望月さんと約束したことを翼に説明した。翼はよっしゃっと気合を入れた。僕はそんな翼の言葉や行動が嬉しかったし頼もしかった。僕は今日、望月さん、そして翼からも勇気をもらった。二人は僕の大切な親友であり仲間だ。だから僕は二人の期待を裏切らないために自分ができることをしっかりやろうと思った。


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