連載 鳥になりたかった少年 第一話


『連載 鳥になりたかった少年 第一話』/浅野直人

 薄暗い室内でモニターを見ながら、白い円筒形の物体がゆっくりこちらに近づくのを見ていた。機器の状態を示す緑やオレンジの小さなランプが蛍のようにポツポツと光り、モニター画面の周りだけがぼんやりと明るく照らされている。機器や空調が発する低い周波数の単調なノイズをベース音に、電子音のピッ、ピッという高い音がリズムを刻む。ボーカルを務めるのは地上の管制センターとの交信音声だ。

 全て異常なし。

 新たな実験棟となる輸送機をステーションにドッキングさせれば、ひとまずミッションは成功だ。白い筒はおよそ五百メートルの距離にあり、お互いに通信を行いながら自動制御で徐々にその距離をつめている。モニターに見える白い筒は次第にその大きさを増していた。

 ベースノイズ以外の音が数秒途絶え、コックピット内に一瞬の静粛が訪れた直後だった。

 目の前が赤色に染まる。

 次の瞬間、コックピット内に警告音が響き渡る。心拍数が一気に上がり僕は目を見開いた。

「輸送機の姿勢制御不能。緊急事態です」

 管制センターの無線が異常を告げた。

 僕はうるさい警告音をぶち切り輸送機を捉えたモニターを見る。隣のモニターに映し出された相対位置情報から輸送機がこちらに近づいていることが分かる。

 まずい。このままだと衝突する。

 もう一度モニターを確認する。輸送機のスピードはおよそ時速三キロ、距離三百メートル。残り時間六分。いける。

 僕はすぐにロボットアームを起動させた。モニターで輸送機の軌道を確認する。軌道のズレは僅かだ。僕はアームの動作を確認する。問題ない。残り三分、距離百五十。

 輸送機の軌道に向けてアームの移動を開始する。残り五十メートル、六十秒。アームを輸送機の軌道上のできるだけステーションから遠い位置に伸ばした。衝撃を和らげるため少しアームの関節を曲げる。十、九、八、七、・・・、三、二、一。接触。

 モニターの映像が揺れ、少しだけ機体が揺れたような気がした。僕はアームの関節をさらに曲げ輸送機をそっと受け止める。よし、止まった。

 輸送機が止まったのを確認して、僕はモニターを見ながらアームの先端のハンドを輸送機のフレームに向けてゆっくりと伸ばす。掴んだ。すぐにステーションの姿勢と位置を確認する。ステーションに異常はなかった。あとで軌道のズレが発生すれば自動で補正されるはずだ。

 僕は慎重にアームを動かし輸送機が反応するかを試す。アームの動きに合わせてモニターの位置情報が反応する。よし、問題ない。輸送機はアームとしっかり固定されている。モニターの位置情報を確認しながらゆっくりと輸送機をドッキングハッチの場所へ移動させる。

 よし、いいぞ。残り一メートル、三十センチ、ドッキング。

 僕はすぐにロック機構を作動させ輸送機を完全にステーションに固定した。

「輸送機ドッキング成功」

 管制センターの無線がドッキングミッションの成功を告げた。

 僕は緊張で強張っていた体の力を抜き、十二時方向に腕を伸ばしてシートの背もたれに思いっきり寄りかかった。目を閉じて一度だけ深呼吸をした。

 しばらくしてからゆっくり目を開けると、目の前のモニターに地球が映し出されていた。僕はその映像から目が離せなくなる。なんて美しい青なんだろう。地球はなんて美しい星なんだろう。奇跡という言葉が頭に思い浮かぶ。

 この美しい星は長い長い宇宙の営みの中で奇跡的に生み出され、その美しい姿ゆえに様々な命を育むことを許された星なのだ。地球が誕生し、その地球で生まれた生物の僕がそんなことを考えているのは奇跡以外の何物でもないように思う。そう、これこそが真実なのだ。宇宙は真実だけを許す純粋な世界だ。

 僕はそんな世界を見たくて空を飛びたいと思ったのではなかっただろうか?

 僕が自分の頭で物事を考えられるようになった頃、僕はすでにその世界の住人だった。宇宙が作り出した世界は純粋で真実だけでできているはずなのに、その世界では人間という特殊生物が真実の世界をどうやったら捻じ曲げることができるかを必死になって考えていた。

 僕自身は真実を捻じ曲げるのは良くないと思っているけど、それが正しいことなのかどうかはまだ結論は出ていない。それは、もしかしたら数十億年後に太陽の活動が終末期に入る時、人間が後世に命をつなぐことができるかどうかがその答えになるのかもしれない。宇宙対人間の戦い。

 そんな壮大な戦いに僕ができることはないに等しいけど、僕には僕の戦いがあったのだ。

 子供だった僕にとって何十億という人間が住む地上は嘘偽りの世界であるように思えた。全ては誰かが作り出した物語で動く世界。そこに僕にとっての真実はなかった。だから、僕は空に向かって手を伸ばし少しでも空に近づき、そんな醜い世界が豆粒のように小さくなって見えなくなるほど高く高く飛びたかったのだと思う。真実の世界を見たかったのだと思う。

 僕は口の端を上げ鼻を鳴らした。いや美化してはいけない。僕はただ逃げたかったのだ。人のエゴが渦巻く世界から。面倒くさい世界から。

 僕と僕が妄想した真実の世界を繋でいたのはあの青い空だった。そして、その世界へと僕を誘っていたのは羽ばたきもせずに大きく伸ばした両翼に風を孕ませ、空を自在に飛び回る鳥だった。僕は緑の草むらの真ん中で、時折吹く風を頬に受けながら空を見上げていた。そして、僕は一瞬にして身体中の細胞が踊り出すような熱い衝動を感じたのだった。空を飛びたい。僕は全身で激しくそう感じていた。


 六時間目、理科の時間。さすがに六時間目になると気力が持たない。給食を食べ、昼休みにグランドで思いっきり走り回った後はいつもそうだ。

 担任の飯田深雪(いいだみゆき)先生は生き物の種類の話をしている。右側に廊下のある壁際の席でみゆき先生が言った分類という言葉が僕の心に引っかかる。人間は哺乳類。鳥は鳥類、魚は魚類。僕の目の前にすわる白と紺のシマシマのシャツを着た杉山(すぎやま)さんはシマウマ類だろうか?目がギョロリとした須賀(すが)は爬虫類に違いない。いつも髪の毛にリボンを結んでいる白井(しらい)さんは蝶類。巨体の太田(おおた)は相撲類かゴリラ類。どちらの分類が正しいかは今後の研究成果を待ちたいところだ。

 そして僕、青井空(あおいそら)、小学四年はその語源の通りもはや生き物として分類することは不可能だ。これは生物というよりむしろ地球の一部分として物理的な分類の方がいいだろう。いやいや国語の時間にこそその言葉は似合っているような気がする。あおいそらとふかいうみ。そんな景色が目に浮かぶようだ。この名前のせいで僕はよくからかわれたものだ。いや終わったことであるはずがない。これからもずっと名前でいじられるのは間違いない。しかし、この名前が奇妙な運命の元に完成されたものであることを僕はついこの間知ったばかりだ。

 僕のお父さんとお母さんがその話をしてくれたのは僕の誕生日の日だった。

 その日、父さんと母さんは何かそわそわしている感じがしていた。もちろん僕はそれは僕の誕生日であるからだと思っていた。きっと父さんと母さんは僕が誕生日のプレゼントをもらって喜ぶ姿を想像してワクワクしていたのだと勘違いしていたのだ。

 その日、いつもより早く父さんが帰ってくると、母さんはすぐに家族の誕生会のしたくを始めた。居間のテーブルにはちらし寿司や唐揚げ、ポテトサラダなどが並び、そして、もちろんテーブルの真ん中には『空、十歳おめでとう』と書かれた真っ赤ないちごが載ったケーキがおかれていた。僕はケーキならなんでも好きだけど、いちごのケーキは母さんの大好物だ。母さんの準備がととのうと家族三人はテーブルの席に座った。

 父さんと母さんから「空、誕生日おめでとう」と言われ誕生日の歌が歌われたあと僕はケーキの上の十本のローソクの火を一息で吹き消した。拍手のあと、僕は誕生日プレゼントを母さんから受け取った。プレゼントの中身が携帯型ゲーム機であることは知っている。僕が父さんに頼んだものだからだ。本当はすぐにでもゲーム機を取り出して遊びたかったのだけど、そうするのが小さい子供っぽいことのように思えて僕は我慢をした。僕がプレゼントのお礼を言うと、三人は母さんが作ったごちそうを食べ始めた。

 母さんの作るおかずはどれもおいしく話ははずんだ。父さんと母さんとはいろいろな話をしたけど話がかならず僕が何かを頑張るというオチになるのが僕としては残念だった。おかげで僕はまたこの一年、勉強と遊びを頑張るということになったようだ。まあ、そういう話になっても次の誕生日にその結果をこまかく確認されるわけではないので、今、この時に僕の向かう先がなんとなくみんなの頭の中で見えることが大切なのだと思う。しかし、十歳の節目という誕生日はそれだけでは終わらなかった。

 父さんと母さんはそれまでの笑顔がなくなり僕に大切な話があると言い出したのだ。僕はなんだろうと思ったけど、父さんか母さんに関わる話だろうと思っていた。でも、父さんたちの顔の表情が僕の居心地を悪くした。

「空、今日は空に大切な話があるんだ」

「なに?」

「話は少し空には難しいかもしれないけど、その話をする前に一つだけ覚えておいてほしい」

「うん」

「父さんがその話をしても空はもちろん、うちの家族はなにも変わらない。ずっと今まで通りだし、これからも変わることはない。それだけは頭に入れておいてほしい」

 父さんの言葉で僕はなにやら今までに経験したことのない大事な話がされそうだということをようやく理解した。

「うーん、分からないけど分かったよ」

「そっか。実はな、空は父さんと母さんの間に生まれてきた子供じゃないんだ」

「えー、じゃあ、僕はどこからきたの?」

 気がついたときには僕の口から言葉が出ていた。父さんがいきなり結論を言い出したので僕は動揺したのだ。

「空はもともと子供たちがたくさん暮らしている施設にいたんだ。父さんたちも詳しいことは分からないけど、空を産んでくれたお母さんたちは自分たちで空を育てることができなくて施設に空を預けたようなんだ」

 僕は黙って父さんの話の続きを待った。

「父さんと母さんは子供が欲しかったんだけどなかなかできなくて、いろいろ考えてそれで育ててくれる親のいない子供を引き取って育てることにしたんだ。それで父さんたちは三歳の空と出会った。父さんたちは空と最初にあったときにあーなんて可愛い男の子なんだろうって思った。そして、この子を絶対に幸せに育てるって神様に誓ったんだ。それから、父さんたちは空の本当の父親と母親になったし、空のことは本当の子供だと思っている。そして、もちろん、それはこれからだって同じだ。だから正式な言葉で言うと空は父さんたちの養子ということになる。そして父さんたちは空の養親ということだ」

 このとき僕はなんの反応も返すことができなかった。

「父さんたちはこの話はいつか空が知る時が来ると思っていたから、空が話が理解できるようになった時に正直に話そうと思ってた。それで父さんたちは空の十歳の誕生日にこのことを話すことにしていたんだ。それで、今日その話を空にした。きっと空は今、その話を聞いてもなんのことだかあまりピンとこないかもしれない。でも、これから空が自分のことをいろいろ考えたり悩んだりすることもあると思う。そんな時はおはようって挨拶をするくらいの軽い気持ちで父さんたちに分からないことを質問したり相談してほしいんだ。空を養子にもらうことを決めたのは父さんたちだ。だから、父さんたちは空を幸せに育てる責任があるし、三人は誰がなんと言おうがもう立派な家族だ。父さんたちが空のことを本当の子供だと思って大切にする気持ちは本物だし、これからも変わることはない。空にはそれだけは分かっていて欲しいと思っている」

 僕は正直、なんて言っていいか分からずに、ただ小さく頷いただけだった。

「空、何か聞きたいことはあるか?なんでもいいぞ」

 僕はしばらく迷ったけど首を横に振った。

「そうか。まあ、とにかくうちの家族はこれからもなにも変わらない。でも空はきっと今日の話を聞いて悩む時がくると思う。その時はいつでも父さんと母さんに話して欲しい」

 僕はもう一度小さく頷いた。

 父さんの話が終わった後も僕はぼーっとすることしかできなかった。僕はこんな話を聞いた時はどうすればいいのかをまだ学校で習ってなかったのだ。話の内容は僕にとって重大なことであることはなんとなく分かった。でも、それに対して僕はどう反応したらいいのか、また実際にどうしたらいいのかは全く頭の中には浮かばなかった。その代わりに僕の頭の中では養子という言葉が書かれた小さな球が頭の中を上下左右前後に動き回り、頭の骨に当たっては跳ね返ることを繰り返していた。そして僕の心は十数えている間にその話からできるだけ遠くに走って逃げることを勝手に決めてしまっていた。そして、その話のことを頭の中で触れないというかくれんぼは今でも続いている。養子という言葉の鬼に捕まったとき僕はどうなってしまうのだろう?きっとそれはあまり良くないことになるだろうということはなんとなく分かっている。だから僕は時々、鬼の様子を遠くから伺いながらも絶対に近づくことはしないだろう。いずれにしても僕の名前である青井空というのはそんな風にして偶然に生まれた。

 父さんによると空というのは僕を生んでくれた親がつけてくれた名前がそのまま引き継がれたらしく、そんな僕が青井という苗字の父さんたちにもらわれたのは神様の気まぐれのいたずらなのかもしれない。

 みゆき先生は分類が微妙な動物の名前をあげて、その動物がなにに分類されるのかをみんなに質問していた。もし、みゆき先生が私はなにに分類されるでしょうか?と僕に聞いたとしたら僕はゆるぎない答えを持っていた。答えはおっぱいプリン類。人によって特に女子は乳牛類と答える人もいるかもしれないけど、僕の中の答えは一つしかなかった。どうしてかというとその言葉の響きが何か僕の心を引きつけてはなさないからだ。おっぱいプリンの質問に蝶類が答えている時にチャイムが鳴った。よし、今日もやっと終りだ。僕は十二時四十五分に腕を伸ばし椅子の背もたれに寄りかかりながら体を伸ばした。壁際のこの場所では十五分は無理だ。

 おっぱいプリンは間をおかずに帰りの会をするように日直に声をかけた。帰りの会はいつも通りなんのおもしろみもなく進み、みんなが帰ったら何をして遊ぼうかと妄想をふくらませていた時、日直の他に何かありますか?という質問にすぅーと手が上がるのが目の端に映った。 

 メガネ類まじめ科の吉野(よしの)さんだ。教室内にはてなマークが飛び交う。日直が吉野さんの名前を呼ぶと、吉野さんは椅子を鳴らさないように注意しながらすぅーと立ち上がった。

「昼の掃除の時間に鈴木(すずき)くんと篠田(しのだ)くんが雑巾を丸めてボールにしてほうきをスティックにしてホッケーと言って遊んでいました。掃除の時間にそんな遊びをするのは良くないと思います」

 吉田さんは一気にそう言うと椅子に座った。

 一秒くらいの沈黙の後、クラスの中は突然、言葉の嵐の中にでも突っ込んだように騒然とした。みんなの声を要約すると、クラス全員と先生の前で言わなくてもいいじゃん、なんで鈴木と篠田だけ?別の日だけど他の人もやってるじゃん。なんでその場で注意しないの?という感じだ。他にもやってるじゃんという中には僕も入っていたし、多分クラスの男子の半分くらいは同罪だ。

「はい、みんな静かにー」おっぱいプリンが大人ビームで場を鎮める。

「掃除の時間は掃除をする時間です。遊ばないで掃除に集中してください。あと掃除用具は遊びの道具ではありません。掃除だけに使ってください。いいですか?」

「はーい」

 みゆき先生の言葉に主に女子が返事をした。

 やってもいない女子がなぜ返事をしたのか謎だ。世の中は謎に満ちている。

 僕がクラスの中を見回すと、ほとんどの男子が自分の名前が出なかったことに安心したようだ。でも名指しで名前を出された鈴木と篠田は下を向いて不満そうな顔をしている。

 おっぱいプリンによる大人裁きによって事態は終息したのだけど、僕は何か心に引っかかるものを感じていた。一つは吉田さんは二人だけの名前を出すべきではなかったのではないかということ。もちろん一番悪いのは掃除用具で遊んでいた男子たちだ。でも誰かが誰かのことをみんなの前で言いつけるようなことは言った方も言われた方もきっと嫌な感じが心に残ってしまうに違いない。こういう時はたとえ悪いことをしていても少しだけ相手のことを考えてあげる気持ちがあった方がいいと僕は思った。そしてもう一つは僕を含めて他にもやっていた人は名乗り出るべきではなかったかということだ。あの場で僕もやりましたと言うのは正直すごく勇気がいる。それでももし、みんなが僕もやりましたと言えばきっと鈴木と篠田は気持ちが楽になったに違いない。そう思った時、僕は僕がそうしなかったことを後悔した。でも、もしまた同じような場面に僕がいたとしても僕が名乗り出られるかどうかは正直分からない。そんな風に僕はしばらく自分の心がぐらぐらと揺れる波間に漂っていた。

 そして、ふと僕はこんな気持ちになるのは初めてだと思った。この気持ちはなんなのだろう?今までだって誰かが悪いことをして怒られたりするのを見たことがあるし、自分だって怒られたことがある。でも今日みたいな気持ちになるのは初めてだった。それがなんなのかが分からないまま僕は学校を出た。

 学校から僕の家までは大体歩いて二十分くらいなのだけど、僕は一番最短と思われる通り道を通って帰ることはたまにしかない。どうしてかというと、僕は冒険野郎だからだ。でも、それは僕が自分でそうしようと思ったわけではなくて気がついたらそうなっていた。僕をそんな風にしてしまったのは僕がすむ町のせいだ。

 僕のすむ町には山があって森があって川が流れていて畑がある。学校やみんなが住んでいる場所は家がたくさん集まっているけど、ほんの少し足を伸ばせは何かすごいものが隠されているような予感を感じさせる魅力的な場所がたくさんあった。それで僕は町のいろいろな場所に行って町の秘密を探すのが面白くなった。

 これまでの大発見の中には黒い宝石が集まるカブトムシの里や大漁のザリガニ沢、失敗しないフナ釣りポイントなど、そこに行く前の日にはなかなか寝付けないほどワクワクする場所を僕はいくつも発見してきた。これは誰にも秘密だけど僕は僕の心が最高にワクワクした瞬間におしっこがしたくなる。なぜかは分からない。

 もう季節は秋で外はすっかり涼しくなってきたけど、同じ場所でも季節によって景色がぜんぜん違って見えるのも冒険で知った発見の一つだ。僕はこんもり盛り上がった小山の森がすぐ横にある河原を歩いていた。少し前までは深い緑だった小山の森のところどころが黄色やオレンジ色に変わっている。秋のしるしだ。

 少し元気のなくなったような河原の草むらを歩いていると、空からピーヒョロロロと僕に話しかける声が聞こえた。僕は空を見上げ、ぐるりとその場で一回転すると空に一羽の鳥が飛んでいるのを見つけた。その鳥は体から生える翼を左右に大きく広げ、羽の両端は指先のように羽が広がっている。トビだ。前に父さんに鳴き真似を聞いてもらったら、それはトビという鳥だと教えてもらったので僕は何度か見たことのあるその鳥を知っていた。

 僕はしばらく空の上のトビの姿を見ていると何かがおかしいことに気がついた。トビは全くパタパタ羽ばたいていないのに羽を広げているだけで空中に浮いていて、気持ち良さそうに同じ場所をクルクルと回っている。なぜ羽ばたかないのに落ちないのだろう?さらに、しばらくトビを見ていてもトビは全く羽ばたかずに空中に浮いていた。もしかしたら風なのかなと思ったのだけど僕のいる場所には少ししか風は吹いていない。もしトビはこんな少しの風で空中を飛び続けていられるのならそれはすごいことだと僕は思った。どっちにしろトビは空を飛ぶ天才にちがいない。

 僕は空を自由自在に飛ぶトビを見ているうちに心の中にある思いが湧き上がるのを感じた。空を飛びたい。あのトビのように自由に空を飛んでみたい。空から見えるこの町の景色はどんな風なんだろう?

 その時だった。黒い影が目の端を横切った。すると今までゆったりと空の散歩を楽しんでいたトビが急降下を始めた。そして、その黒い影目指して体当たりをするような勢いで突っ込んでいった。黒い影は突然現れたトビに驚いたようで空中でバランスを崩す。カラスだ。カラスは必死で羽ばたいて逃げようとしたけどトビの切り返しは鋭く、あっという間にカラスに追いつくと足でキックをするようにカラスに襲いかかる。すごい。獲物を追うトビの姿は空に円を描くようにゆったりと飛んでいた時とは全く違っている。その体全体が鋭く研ぎ澄まされた刃物のようだ。カラスがフラフラと蛇行を繰り返しながら逃げ、トビがそれを追う。そんなことをしばらく繰り返しているうちに縄張りを抜けたのかようやくトビはカラスを追うのをやめた。トビの飛行技術はやっぱりすごかった。それはプロペラの飛行機が戦闘機と戦うようなそんな圧倒的な差だった。

 僕は今、目の前で繰り広げられた光景を見て、ますますトビのように思いのままにその体を使って自由に空を飛びたいと思った。空には何か僕らが立っている地上にはない何かがあるような気がした。そこはもっと心と体が自由に動き回れるような世界なのかもしれない。

 そう思った瞬間、僕の体は動いていた。僕は河原土手の上に上がって思いっきり走って勢いをつけ両腕を大きく広げて土手の縁から斜面に飛び降りた。僕の体はフワリと浮かぶことなく斜面に着地し、僕はその勢いのままに斜面を駆け下りる。何度やっても僕の体は空に舞い上がることはなかったけど、一瞬だけでも空中にいられることが嬉しくて僕は何度も同じことを繰り返した。

 冒険野郎の僕は今日、僕の中の夢のようなものを発見したのかもしれない。その夢のようなものは僕の体は無理でも、心をフワリと浮かせることには成功したようだ。そして、それは僕の中でキラキラと輝いていて、僕の心と体を温めてくれるようなものに思えた。

 僕にはクラスで特別に仲のいい友達はいないのだけど、特別に仲の悪い友達もいない。それは僕がバカなことを言ってみんなを笑わせる人気者ではなくて、人を馬鹿にするようなことも言わない普通の人だからだと思う。僕はそんな僕のクラスでのやり方がわりと気に入っていた。どうしてかというと、クラスで人気があったり逆に嫌われたりしている子を見ていると、ずっとそんな人の役をやり続けるのは大変そうに思えたからだ。僕の場合は学校にいるより外で冒険をしている方が何倍も楽しいので、学校で無駄なことはしたくなかったのだと思う。

 そんな僕でも最近、クラスのようすが何か前と違って見える時がある。しばらくはそれが何かが分からなかったのだけど、ある雨の日の昼休みにふと気がついたのだった。

 その日は雨で外では遊べないので昼休みの教室にはいつもよりたくさんの子たちがいた。僕は自分の席に座って教室を見回した時にクラスの子たちがいろいろな行動をしているのを目にした。ある子たちは友達と話をしたり、またある子たちはカードゲームをし、本を読んでいる子もいた。ひとりだったり友達と一緒だったり。その時、僕には教室にいる一人一人の子たちの個性が見えるような気がしたのだった。もちろん、それはその場のみんなの行動だけではなくて、今までクラスで起こったいろいろな出来事から僕が感じたものがつまった感覚だ。僕はそんなことを感じたのは初めてだった。もちろん、その行動が面白く目立つ子は面白い子だとか、人の悪口を言うような子が意地悪な子だということは感じていたことはあった。でも今、僕が見ているのはすべての子にその特徴というか個性があるという世界だ。今まではクラスの中でみんなは同じように子供だったはずなのに今、僕の目の前では一人一人が別々の個性を持った子供に見えていた。何が変わったのだろう?みんなの個性が目立つようになったのか?それとも僕の見る目が変わったのか?

 そして、そんなことを考えてぼんやりと教室の中を見ているともう一つ分かったことがあった。それはいつのまにかクラスの中でグループのような塊ができていたことだ。そういえば最近はみんないつもそのグループで集まって何かをしているところをよく目にする。クラスには班があるのだけど、それとは違う仲のいい人が集まるものだ。前はそんなグループのようなものはあっただろうか?確かにみんなが適当に集まって遊ぶことはあった。でも今のように決まった子たちがくっついているのはなかったような気がする。これもクラスの中で何かが変わったのかもしれないと僕は思った。僕を含めそのようなグループに入っていない子たちもいる。そんな子たちの特徴は大体大人しいか、いつも何かに没頭して考えているような子が多いような気がした。そして、それはまさに僕のことだった。僕はそんな風にして雨の日の昼休みを過ごしたのだけど、僕が感じたものが何なのかをこの時は理解していなかった。

 冬休みに入る前の日、担任のみゆき先生が冬休み中の宿題について説明していた。冬休みは期間が短いし、各教科の宿題はプリント一枚だけで楽勝だった。それから、もう一つありますとみゆき先生は言った。

「もう一つの宿題は作文です」

「えー」

 みんなの声が重なった。どうやらみんな作文は嫌いなようだ。まあ僕もそのひとりだ。

「この作文は四年生の文集に載せる作文なのでとても大切なものです。作文の内容はみんなの夢について書いてもらいます」

「夢のない人はどうしたらいいですか?」

 お調子者の塚田(つかだ)がすかさずみゆき先生に突っ込むと笑いが起きた。

「塚田、寂しいこと言わないの。みんなは小学四年生だけど、これまでいろいろな話を聞いたり経験したことがたくさんあると思います。そんな経験の中でみんなが心の中でこれをやってみたいとか、こうなったらいいなとか思うことを書けばいいんです。だから将来やってみたい仕事でもいいし、スポーツとか趣味とか何か自分の好きなことでもいいと思います。そんなことを想像しながら自分が将来何がしたいか、何をしているかを作文に書いてください。他に何か質問ありますか?」

「夢がいっぱいある人はどうしたらいいですか?」

 メガネの吉田さんが聞いた。夢がいっぱいあるって真面目そうな吉田さんは意外に欲張りなんだなと僕は思った。それでも質問している吉田さんのメガネの奥の瞳は夢がいっぱい詰まっていそうでキラキラ輝いているように見えた。

「あらそれは素敵ね。そうね、その中でも自分が一番だと思うもの。一番になるといいなと思うものを書けばいいと思います。もし全部が将来ひとつの夢につながっているのなら、その過程を書くのもいいと思います」

「将来書いた夢が実現しなかったらどうしたらいいですか?」

「もちろん夢が実現しないこともあるし、途中で別の夢を持つこともあると思います。でも、夢というのは自分たちが未来に向かって頑張って生きていく目標のようなものだと思います。だから夢が実現しなくても、そこに向かっていく過程が一番大切なんだと先生は思います。もし夢が実現しなくても、後で自分が頑張ったと思えたら、みなさんは自分を褒めてやってください」

 このあといくつかの質問があったけど、みゆき先生の失敗しない切り返しで、この作文をやらないという方向にはもちろんならなかった。そして、みんなは自分が将来なりたいものを口々に言っていた。サッカー選手、パティシエ、プログラマー、看護師、社長、お嫁さん、・・・。

 さて僕は何を書こう?僕の頭に真っ先に浮かんだのは空を飛びたいという僕の望みだ。これは僕の夢なのだろうか?将来にやりたいことだからきっとそうに違いない。でも僕の場合は少し問題があることに気がついた。僕がなりたいのは鳥そのものだからだ。僕がやりたいのは飛行機に乗って空を飛ぶとかそういうものではない。自分の体から生えた羽で風を感じながら自由に空を飛びたいのだ。もし、僕が僕は将来、鳥になりたいですと書けばきっとみんなは笑うかもしれない。みゆき先生だって僕を呼び出して人間は鳥にはなれないのよって、書き直しって言われるかもしれない。でも、それでも僕の望みは鳥になることだった。僕の中で何を書くかの答えは出ないまま僕たちは冬休みに突入した。

 何事も嫌なことは先にやってしまいたい僕は冬休み初日から宿題に取り掛かり、二日で各教科のプリントを終わらせた。そして例の作文に取り組むことにしたのだった。もちろん、僕の気持ちに正直に書くなら、僕は将来、鳥になりたいということを書けばいい。しかし、僕はもう小学四年生だ。小学四年生が本気で鳥になりたいと書けばやっぱりみゆき先生は書き直しを僕に言い渡すだろうし、父さんと母さんも空の頭は大丈夫なのだろうかと心配するかもしれない。そして出来上がった文集を見てみんなは僕を笑うだろう。でも、じゃあ何を書けばいいのだろう。僕は他にあてのある夢は持っていなかった。こんなことならみゆき先生に質問しておけばよかった。実現が絶対に無理とわかっている夢しかないときはどうしたらいいですか?と。みゆき先生なら無理と分かっていても、挑戦することや、そこに向かって努力することこそが大切なのです。とでも答えるだろう。

 僕は早々にこのつまらない心の中の自分探しをやめることにした。そう、僕は普通の小学生が選びそうな職業の中で一番それらしいものを選べばいいことを知っていた。みんなは笑っていたけどあながち塚田が言ったことは間違っていなかったのかもしれない。夢のない人はどうしたらいい?答えは難しく考えないで、小学生がしたいと思うような仕事をさっさと選んで作文の宿題を終わらせればいいということだ。僕はほぼパイロットという仕事で作文を書くことに心を決めた。その時、僕の中である疑問が浮かんだのだった。

 本当の僕は将来何の仕事をするのだろう?それは自分の夢とかじゃなくて現実的にすることになる仕事のことだ。父さんは建築家で人の家を設計する仕事をしている。僕は何度か父さんが設計した家を見たことがあるし、その家を見たとき父さんがこの家を作ったんだと思うと誇らしい気持ちにもなった。もしかしたら僕も父さんと同じ建築家の仕事をするのが一番ありそうで、父さんという先生がいれば可能性も高いような気がする。でも、今の僕の中で建築家という仕事に心からワクワクするような気持ちがあるかといえばそうではない。もしかしたら、これからそんな気持ちになることもあるかもしれないけど、今はまだ違うようだ。じゃあ・・・。

 この時、僕の頭の中にある言葉が浮かんだ。本当の父さん。本当の父さんはどんな仕事をしているのだろう?突然浮かんだその言葉に僕は動揺して心臓の鼓動が早くなるのが分かった。今まで触れないようにしてきたのにどうしてだろう。不意にそんな疑問が湧いたのだった。もしかしたら本当の父さんも子供の頃に鳥になりたいと思ったのだろうか?僕は心から溢れるそんな妄想を止めることはできなかった。きっと本当の父さんは僕と同じように鳥になりたいと思っていたはずだ。だから僕もそう思ったに違いない。本当の父さんはどんな仕事をしているのだろう?もしかしたら将来、僕もその仕事をするようになるかもしれない。きっと僕がその仕事のことを知ったり近づいたら何かが僕に合図をくれるはずだ。なぜなら僕たちは本当の親子なのだから。

 僕は自分の部屋の勉強机から離れベッドの上にうつ伏せに倒れこんだ。ダメだ。僕は何を考えているのだろう。この先会うことも話すこともない本当の親のことを考えても何も意味がない。僕はこれからも今の父さんと母さんと一緒に暮らしていくのだから、それだけを考えていればいい。僕は自分にそう言い聞かせたのだけど頭の中のモヤモヤが晴れることはなかった。

 気がついたら僕は家を飛び出して河原に行きトビの姿を探していた。きっと僕はトビが空を飛ぶ姿を見れば自分の本当の心が分かると思ったのかもしれない。でも、冬の冷たい風が吹くこの日、しばらく待ってもトビが現れることはなかった。僕はすっかり色をなくした草むらに立ち、冷たい風を頬に受けながら雲に覆われた灰色の空をただ見上げているだけだった。そこに僕の真実はなかった。


続きはこちらhttps://note.com/asano_bunko/n/nb8be8c3cc65b

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?