自分について

 私は自分のことがよくわからない。私は確かに他のヒトと同じヒトという種族の一個体らしいのだけど、イマイチその実感がわかないのだ。
 私を私たらしめるものは神経の伝達だと思っていて、つまり私の身体を私が操作できるという状態が、私は私であるということだと思うのだ。当然、目の前のあなたのことを意のままに操ることはできないし、誰かの声に操られることもないので、この定義で十分であると思うのだが。しかし、神経の伝達を定義にしてしまうと、今度は私を私たらしめるのは意識ではないのかという疑問にさしあたる。今当たり前にある自我というものが、私を私たらしめるための条件に入っていないということが少し不安定に感じてしまうのだ。脳と身体の間にある神経こそが本質とされ、そこにある自我の有無や形質や特質が無視されてしまっては、なんだか私という存在がちゅうぶらりんになってしまっているみたいで、どこに落ち着けばいいのかあたふたしてしまう。
 私が私という人格について熟知しているということを周知の事実にされてもらっては困る。私の心のもちようだとか、私がどういうことで楽しみ、どういうことで悲しむか、それは私にもわからない。何故なら私という存在は私によって一番近くで観測されるというだけで、その内実はどれだけ近くで見ても完璧には見えないからだ。それは、私が私をどのような人間であるかを思案するプロセスは、私が他人をどのような人間であるかを思案するプロセス、または他人が私をどのような人間であるかを思案するプロセスと何ら変わりはないからである。あの人はこういう行動をするからこういう人間なんだとか、こういう発言はこういうことを思っているに違いないとか、そのくらいの類推でしか自分を知ることができないのだ。
 未だに自分が何者かよくわからないのだが、しかしこれだけ長年自我とともに生きているとなんだか自分のことが愛おしく思えてきてしまう。この長年の付き合いが齎すなんとも言えない感情を、人は自己肯定感であるとか、自己愛であるとか言うのだろうなと思った。自己嫌悪というものは、自分と社会との擦り合わせが悪いときに起こるものだと思うのだ。誰かに嫌われたり、誰かに必要とされなくても、ボロ切れ同様に捨てられた目の前の自分は自分で愛してやる他ないだろうなあと、まだ土に汚れていない手でぼやぼや考えている。

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