見出し画像

弱さや劣等感だって必要だからあると思っている

人は自分と「誰か」をついつい比べてしまう。

比べた結果、自分は「誰か」より劣っている事があったりするととても嫌な気持ちになる。

何故自分はこんなに弱いのだろう?

何故自分は強くなれないのだろう?

自分が比べた「誰か」のように強くなりたい、自分の理想の姿になりたいと誰もがそう思っているし、その姿を目指して生きている。

でもどんなに努力を重ねて理想の姿を目指しても、強くなれなかったり理想とは程遠い現実を突き付けられることもある。

弱さ=劣等感。そんな思いからどうしてもマイナスに考えてしまい自分自身を傷つけてしまう。

「誰か」と比べて自分の存在価値が無いと思ったり、弱さを受け入れることが出来ず自暴自棄になってしまう。

正直なところ、私も自分の弱さを全部受け入れられていないと思う。

いつも「誰か」の姿を見て羨ましいと思ったり、自分は劣っているなぁと思う事はよくある。

私の努力不足は否めないのだが、それでも絶対超えられない壁は存在すると思っている。


自らの弱さがどうしても嫌になった時、私はこんな考え方をしている。

もし他の「誰か」が自分と同じような弱さや劣等感を持つことになった時、その弱さや劣等感に耐える事が出来るのだろうか?と。

私の事だが人は都合の良いように考えるものだなと思った。

自分にはあえてこの弱さを与えられているのだろうと。

この世界を生きていくには強くて優れていることが重要ではあると思うが、弱さや劣っている事もそれはそれで意味があるのだと思っている。

弱いからこそ、劣っているからこそ分かる事もある。

人は意外と儚く弱い生き物。

強く見せていても実は虚勢を張っているだけで、とても繊細で弱い人も多くいる。

自分にとっては厄介で嫌な「弱い」「劣っている」という部分は誰かの気持ちや想いを理解するためには必要な事なのだと思っている。

強い人はその強さを活かして歩みを進めればいい。

弱い人はその弱さから感じた事・想ったことを誰かに伝え、同じような境遇の人の光になればいい。

どんな事にだって意味がある。

みんな同じようになってしまったら、この世界は存在しなくても良いのかもしれない。それぞれが違うからこの世界は存在している意味があるのだと私は思っている。

言葉で言うのはとても簡単だ。

実際に他人と比べてどうしようもない程の劣等感や苦しみを味わっている人も多くいる。

私にもそんな劣等感があって心を痛めているが、他の人がどのくらい心を痛めているのかを知ることは出来ない。

「その気持ちが分かる」という言葉ですら相手に失礼なのではと思う時もある。完全に誰かの気持ちを理解する事なんて出来る訳がないから。

私の気持ちだって完全に理解出来る人もいないだろうから。

でもほんの少しでもその人の気持ちに寄り添いたい。

そう思う気持ちに嘘偽りはない。

弱い部分や劣っている部分があっても良いと思う。

それが人であり自分なのだから。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?