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 私は2匹の猫と一緒に暮らしている。
 去年の8月に、祖父の絵描き仲間からもらってきた生後3ヵ月のキジトラだ。どちらも雌で、ワクチンも避妊手術も去年のうちに終わらせている。もらってきた時は性別が分からなかったため、雌雄どちらでも馴染むような名前を私が考えた。今まで猫はおろか、動物を何も飼ったことがないため比較対象がないが、2匹の姉妹はとても利口な猫だ。ケーブルもかじらないし、食べてはいけないものを良く知っている。好き嫌いもしないし、出されたものを大人しく食べられる。猫草、水を嫌わないで自分から飲んだり食べたりできる。もちろん、身体が濡れるのは苦手だ。

 私は猫たちと暮らしはじめてから、猫のあらゆる部分を仔細に観察してきた。その中でも、特に興味深い部分がある。
 それが、猫の目だ。

 二匹の猫の目は同じ形、同じ色をしている。まず、透明度の高いガラス玉のような眼球の中央に、円盤のように角膜と虹彩、瞳孔が設けられている。可能な限り近づいて凝視すると、瞳にはまるで砂糖水の澱のように有機的な模様が描かれており、それらは今にも流動しそうな臨場感をもちながら、琥珀のように固定されているのが分かる。金色の複雑な細胞の絨毯には、ちらちらとエメラルド色の虹彩が散りばめられている。そしてそれらに囲まれて鎮座している黒い瞳孔は、休むことなく光に反応して、糸のように引き絞られたり、愛嬌のある正円に姿を変える。私は何度か、その猫の片目の黒いハローの奥にある模様を見ようとした。彼らの瞳孔は銀河のハローとは真逆で、どんな宇宙の闇よりも深く、外界の光を吸収し、何も写さない。
 私が特に好きなのは虹彩だ。今まで出会ったどんな生き物よりも身近な神秘である。銀河を凝らせたよう、黄金色の飴、星雲の結晶、様々な比喩を考えたが、どれも微妙に本質とずれている気がした。人間の言葉でその美を語るのが難しいものを、私はたくさん知っているから、ただ沈黙して猫の瞳を見ているしかない。
 猫たちが、その神秘的な視細胞を駆使していったい何をどんなふうに見ているだろうか? 人間には想像もつかない世界だろうか。猫の目を見るときは、必ずそれを思った。

 猫を抱っこしながら眠れるようになったのはつい最近で、それも週に2、3度あるかないかといったところだ。
 ふかふかの毛皮に覆われた体温の高い生き物を脇腹のあたりで抱えると、まるで自分が猫とふたりで漂流しているような気分になることがある。長い長い生き物の世界の時間を、偶然にも出会った言葉も通じない未知とたったふたり、漂流しているのだ。そんなとき、私は大抵、祖母のことを考える。私より先に失われていった命のこと、そして未来に必ず私よりも先に失われていく命のことを。
 今この瞬間にも、生命が体温となって燃え、命が火花のように散っていく。猫の体温が人間より高いのは、人間より先に燃え尽きるからなんだろうと思うこともある。そして失うときのことを思うと、同時並行的に現在のことも瞼の裏に浮かんでくる。
 去年の五月に、私の知らないところで編まれた遺伝子が、私の知らないところで、私と同じ世界に同じ生命として産み落とされていたこと。そして、私と全く異なる器官をそなえたその生命が、私と関与するようになったこと。ほんの半年はやく生まれていたら、絶対に巡り会わなかったという脆い偶然による共生。祖母が私の想定通りあと十年生きていたら、決して共にしなかった時間のこと。唐突に失い、その代わりに得たものが私の周りに満ちていること、私の生、すべての生き物の生がその偶然で満ちていることを思う。
 そして猫はいずれすべての偶然と私を置きざりにして、先に死んでいく。もしかしたら、私の方が不慮の事故で先に死ぬかもしれない。どちらが先に生き物の時間の流れから外れるか、それはわからない。失う前、失った後のこと、――喪失を起点としてものごとを記憶するのは、あまりに空しすぎる。だから、猫を抱いて寝るとき、肌を通して猫の体温を体に刻み込むように深呼吸する。そんな夜は、生きていることが無闇に奇跡のように感じられるのだ。いま現在を、喪失する前の記憶としてではなく、また次々に失われ後方に散っていく時間の先端としてではなく、ただ今この瞬間として感じるために、まるで「現在」を体にとどめておくかのように、猫と共に深く呼吸をする。

 もちろん猫は、面倒くさそうに欠伸をするだけだ。
 
 

 

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