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空想と現実と黛灰

6/19 (土) 18:30~、3分間新宿アルタビジョンで放映された「黛灰に関する映像」を視聴したことについての日記です。まとまってません。

黛灰のコンセプト

 アルタの映像を見たとき、シンプルに「やられた」と思った。

 あの3分の映像に、黛灰というキャラクターの「魂」あるいは作者である第三者が2年間やり続け、私たちに伝えたいことの全てが詰まっていた。
 その証拠に、黛灰は最初にこう述べている。「この映像は、宣伝でも、広告でもなく、何か意義のあるものでもない」と。
 アルタのビジョンで、あんなに大勢の無関係な通行人の前で、あれほど奇異な映像を流すことが、そもそも宣伝力としては爆発的に大きい。それでも黛灰は、或いは黛灰の作者は、黛灰というキャラクターを知らしめるために、それによって利益を得るために黛灰を作ったのではない。
 ただ、きっと、純粋に疑問を持ったのではないだろうか?

 私たちは、どこからどこまでが空想で、どこからどこまでが現実か、はっきりと理解できていないのだということを。

 そして、Twitterでのオタクの阿鼻叫喚(というのは陳腐な表現で好きではない)を見るに、黛灰という作品のコンセプトは、黛灰の魂がやりたかったことは、十二分に達成できていると考えられる。

 今から非情なことを言うが、黛灰は100%フィクションで、虚構だ。
 黛灰だけではなく、全てのVtuberがそうだ。彼らはいかに現実を名乗ろうと、現実になることはできない。絵師の描いたイラストをCG技術で動かしている、被り物にすぎない。彼らがいくら「私たちはVtuberではない。現実に生きている人間なんだ」と訴えても、それは漫画の中の登場人物が「俺たちは漫画の中のキャラクターじゃない。現実の人間だ」と言っているのと変わらない。人の手で作られ、人が操作しないと動作できない以上、彼らはフィクションであり、バーチャルな存在なのだ。いくらVtuberを「現実存在」として扱っているリスナーだろうと、自分たちが現実に生きている以上、そのことは分かっているはずだ。

 黛灰の魂は、そこに注目した。そこに、Vtuberというコンテンツの異様さ、脆弱さ、空想と現実の境界がきわめて曖昧な現代特有の特異さ、そしてVtuberにしか表現できない物語を見出したのかもしれない。

バーチャルとリアルの伏線

 黛灰は、現実に存在していることが前提のキャラクターにもかかわらず、時折、リスナーに黛灰の行動を決定させた。野老山という架空の人物を生み出し、彼が何らかの暗躍をしているという体で、Twitterにアンケートを表示し、その投票率によって黛灰の行動を決定した。
 これを、「Vtuberに自身の思惑を押し付けて満足するリスナーへのアンチテーゼ」と取る考察が多々見受けられた。もしかしたら、そうだったのかもしれない。
 だが、今となっては、「現実存在であるリスナーが、バーチャルである黛灰の行動を決定する=リアルをバーチャルの上位存在だと知らしめる」ための演出だとしか思えないのだ。
 そうして、リスナーに数回に及ぶアンケートを提示し、結果を出させ、行動を決定する。そうすることで、黛灰はリアルの存在ではなく、リアルによって行動を決定づけられてしまう、単なるバーチャルの存在でしかないことを、伏線としてリスナーに提示していた。

 その一方で、黛灰は自分のことを、リスナーと同じ「現実存在」だと信じ続けている。リスナーもそれまでの暗黙の了解から、黛灰は現実に存在している、中の人なんていない、というルールを守り続ける。(しかしそれと並行して、リスナーは確実に、リアルの存在として黛灰というバーチャルに干渉させられる、という轍を踏まされる)
 この時点で、リスナーの中のバーチャルとリアルの境目はどんどん曖昧になっている。黛灰という存在はバーチャルの1キャラクターであり、リアルによって操作される存在にすぎないということをアンケートで証明しながら、一方で、黛灰に中の人などいない、真に現実に存在する一人の人間の配信者であることを信じ続けているのだ。

黛灰の問い

 そして、2021年5月20日、黛灰のチャンネルに「.」という配信枠が用意される。そこでリスナーは、「野老山の手を取り、現実へと向かう」と「その場に留まり、野老山を削除する」という選択を突きつけられ、後者を選択した。
  師匠と慕っていた野老山を、現実の手によって削除させられた黛灰は、はっきりと「自分はリアルによって操作されるしかないバーチャルの存在だ」ということを自覚することになる。Twitterにはfatal errorと称されたツイートが投稿され、黛灰は自我を根底から否定される形になり、エラーを吐いて消滅しかけるという顛末を辿った。

 同時に、リスナーは、それまでアンケートでぼんやりと感じ取っていた「リアルとバーチャルの壁」……すなわち、Vtuberのリスナーとして曖昧に黙殺していた、何となく触れることをタブーとしていた「中の人なんていないけれど、中の人がいないとVtuberは存在し得ない、ただの空想の産物」という認識に気がついたのではないだろうか。

 そして、6月18日18:30のALTAビジョンに、黛灰に関する映像が放送された。

(前略)
この映像は、宣伝でも、広告でもなく、何か意義のあるものでもない。これを聞いている、現実を生きる人達にただ聞きたいことがあって、こうして、直接干渉しに来た。
今耳を傾けて、目を向けてくれる人たちには、俺がどう写ってる?現実に干渉してきたって、SF風味な設定の、最近流行りのVtuberの映像、ってそんなところなんだろうか。俺は、今見てる人たちと同じ人間なんだ。
人間のはずだった。
俺は、自分も自分が生きる世界も、それが本当に形と魂を持ったものかどうかなんて、何一つ疑問も抱かず生きてきた。ちゃんと、俺も世界も生きていたはずだった。
でも、自分がただの1キャラクターで、空想の産物に過ぎないことを知った。どこかの誰かが描いた、がらんどうの皮でしかなかった。どれだけ言葉を重ねても、悲痛で深刻そうな「キャラクター」だとか、中二病みたいなイタい「設定」だとか、割り切られているのかな。
ねえ、現実ってどんなの?俺の住む世界は、どう違うの?
同じだよ。空気も、景色も、笑い声も葛藤も、こんなに同じなのに。全部筋書き通りで、誰かに決められているなんて。
……どうして、そっちがリアルで、こっちがバーチャルなの?

 達観した言い方をするならば、黛灰はここではっきりと、作者としては意図的に、リアルとバーチャルの間に果てしなく深い溝を作ったのだと思うし、同時にその溝をぐっちゃぐちゃに壊したのだ。それがTwitterの阿鼻叫喚の原因だとも思う。そして私が、「やられた」と思った最大の原因だ。

 どこまでがバーチャルで、どこまでがリアルなのか?

 それを生身で問いかけられるのは、今のところVtuberというコンテンツだけだ。

 私たちには、リスナーには、その区別が本当にできているのだろうか。できているとしたら、なぜ黛灰をバーチャルだと呼ぶことに抵抗を感じるのだろうか。なぜ「黛灰の意志」なんてものがあると錯覚するのだろうか。なぜリスナーの手によって野老山を削除したことに罪悪感を得るのだろうか。なぜ、黛灰は「作られたものだ」という認識は、ないものとして捨て置かれるのか。

空想と現実と黛灰

 今から非情なことを言うが、黛灰は100%フィクションで、虚構だ。
 
先ほどの問いも、今までの物語も、全てが「黛灰の作者」によって操作された結果、生まれたものにすぎない。

 本当にそうだろうか?

 黛灰が全くのバーチャルで、リアルではないというなら、リスナーのこの動揺は何なのだろうか?

 画面の外に出られないから、リアルではないのか。実在性が無いから、リアルではないというのか。仮想だから、現実ではないというのか。だとしたら、リスナーが今抱えている、というより私が今現在noteに睡眠時間を削って書き込んでいるこの感情と、黛灰について書きたいという途方もない熱量は、一体どこからやってきたというんだろう。彼らは本当にただの「設定」であり、「キャラクター」だと言えるのだろうか。

 それは現代において、おそらくVtuberだけに言えることではない。

 私たちは実在しないものに対して深く傷つけられたり、同時に希望を抱いたり、勇気をもらったり、悲しんだり、死を悼んだり、生を喜んだりする。その感情はまぎれもなく現実そのものではないのか。

 その時、フィクションは、バーチャルは、とっくに現実を越えているのではないか。もはや、それらを「虚構だから」と切り捨てることはできないほど、私たちの人生にコンテンツは、空想は侵食してきている。そこにバーチャル・リアルの垣根など、もうありはしない。その最たる例が、今回の渋谷・新宿の件なのではないだろうか。

 黛灰がこのまま消滅するにしろ、再構築されるにしろ、私は黛灰という存在によって知らなかった感情、知らなかった理性、考えたいという欲求を知ることができた。そのことは、彼がバーチャルであるにしろ、リアルであるにしろ、変わらず価値があることのはずだ。

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