カリオン・シューレ

1989年(平成元年)当時住んでいた家の数軒先の古い家が取り壊されて、
三角屋根のおしゃれな建物があらわれた。

 聞けばシュタイナー教育を目指す「カリオンシューレ」という塾だそうだ。旧街道沿いに家が並び、周囲は田んぼが広がる岡山市の郊外、こんなところにといぶかりながらみていると、塾を開くにあたって講演会をするというチラシが配られた。
 講師は映画『泥の河』の小栗康平監督、作家の藤原てい氏、あと幼児教育の先生とサッカーの高名な指導者。これは面白そうだと出かけた。
てい先生の時は部屋っぱいの人で、満州からの引き上げの話に、みな涙ぐんで聞いていた。

 そのてい先生を講師とするエッセイ教室が始まるという。たぶん添削だと思ったが、添削でもいい、是非参加したいと申し込んだ。
 当時私は四十四才、十年ばかり前に夫と内科医の義弟が診療所を開業して、多忙を極めていた。しかも夫の母が急に亡くなり、田舎で一人暮らしをする高齢の父の事もほっておけない。

 私は昔から書くことは好きで日記や手紙、また取りとめないことを書きつらねたりなどしていた。こんなチャンスはない。たまる一方の想いを、是非文章にしてみたい。
 こうして始まった「藤原ていエッセイ教室」、初日の参加者は6人だった。
 それから毎月先生は日帰りで東京から来てくださった。テーマも字数も制限はなく、私たちは好き勝手に自由に思いのたけを書くことができた。
 
 当時の原稿が今も手元にある。欄外に「書け書け、その調子」とか「近来の傑作!」「問題ないが山がたりない」などと、先生の赤いペン字がおどっている。
 先生は新田次郎氏に出会った時の事、満州からの引き上げの事、また今の家族の話などなんでも話してくださり、私たちも悩みを打ち明けたり、相談にのってもらったり、実に濃密な二年間であった。
 その後は山陽新聞のカルチャーセンターに移行して藤原いエッセイ教室は5年間続いた。てい先生に出会えたからこそ、私はこのような作品を残すことができたのだ。
 
 誰に見せるためでもなく、ただその時の想いを文字にし、文章にしただけで、30年間引き出しの奥に眠っていた原稿用紙。
 私もここで78歳になり、本気で終活を考えるようになった。一応パソコンに打ち込みながら、やっぱり誰かに読んでもらいたい。子供や孫にも読んでほしい。もうこの年になると、すべて時効で恥ずかしさもなくなった。
 実はもとの原稿の、書きたりてないところや未熟な表現を、加筆しようともくろんでいたが、それは全く余計なことだった。その時のリアルな感性が一番の表現につながったのだろう。 
 そして何より意外だったのは、その時の私と今の自分が少しも変わっていないことだ。きっと、がむしゃらに目の前にあることだけをしてきて、今があるのだろう。

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