泣き虫 1

 長女が6歳の時、急性腎炎にかかりました。
当時30歳の私は、ただおろおろするばかり。夫は大学病院勤務
弟は3歳と1歳でした。
その時の克明な病床日誌が残っていて、それを見て思い出しながら、
15年後の1990年に書きました。


     泣き虫  1

「もう決まっていることで仕方ないんだ。我慢してくれ」
「平林先生がかわってあげると言ってくれたのに・・・」
胸の中に膨れ上がる思いをやっとそれだけことばにすると、涙があふれてきた。
「平林先生だって忙しいんだ。そういう訳にはいかんよ。千枝の事は山磨
先生に頼んであるから心配するな。いつかいい日が来るよ」
 夫はそういうと、うつむいて涙にくれている私の肩を抱きよせた。されるままにされながら、私はこみ上げる嗚咽を止めることができなかった。
家族がバラバラになってしまう、私の大切な家族がこわれてしまう。こんな時こそ傍にいてほしいのに。力になってほしいのに・・・

娘の千枝が六歳の誕生日を迎えて間もない二月二十二日、その日は土曜日でお昼前に幼稚園から帰ってきた。送迎バスの先生に
「千枝ちゃん、なんだか顔が腫れぼったいみたい。いつも通り元気はあるんですけれど」と言われた。
後一カ月半もすると小学校の入学式、制服もランドセルも文房具もそろい、就学前の身体検査も無事終わっていた。夕方大学病院から帰ってきた夫に話すと
「おかしいな、腎炎かもしれんな。明日は日曜日でどうにもならんから少し様子を見よう」
 翌日は明らかに顔が変わっていた。瞼が膨れ上がり顔は丸くなり
うっとうしそうだ。機嫌はいつもと変りなく弟たちと遊んでいるが、私たちの心配そうな様子を怪訝そうにうかがっている。素人目に見ても腎臓の異常であることは確かだ。夫の勤めの関係もあり大学病院にかかることを決め、知り合いの小児科の山磨先生に電話をして、あらましの様子を話し、入院した場合のお願いをした。
 腎炎が治りにくい厄介な病気であることは知っていた。産婦人科医の妻として妊娠中毒症の怖さも見てきた。千枝はこれからどうなるのだろう。漫然とした不安がだんだん形を持ってくる。入院の準備をして、弟たちを見てもらうために実家の母に来てもらった。母の顔を見ると思わず涙があふれた。
 教授の診察はあっという間に終わり、即入院となった。痛みも苦しみもないままベッドに寝かされた千枝は事態がよく飲み込めず、それでも周囲の緊迫した雰囲気を感じ取って神妙にしている。目が開けられないほど晴れ上がった顔は無残だ。
 看護婦さんがやって来て、水分や果物を十分与えること、塩分は厳禁、尿量をはかって記録をする事、食べたものと出たものをすべて記録する事などが言い渡された。ベッドの頭の上の棚には色鉛筆で描かれた卵の絵が貼られていて
「千枝ちゃんはね、今日から卵なのよ。おりこうさんにしていて卵が割れてひよこさんになったら、ベッドの周りを歩いてもいいし、もっと良くなってニワトリさんになったら遠くにもいけるの。でも今は卵さんなのよ、ベッドの中でおとなしくしていましょうね」と絶対安静を宣告された。

 二人だけになるとじわりと涙がにじんでくる。だめだ、千枝に涙を見せてはいけない。不思議そうにこちらを見ている彼女の視線にであい、あわてて枕元を片付けてみたり、ジュースを勧めてみたり。その日はインスタントコーヒーのような尿が170cc出ただけだった。
 翌日から塩分の全くない食事が始まった。
「こんなの、おいしくない」という千枝に
「お願い、食べて頂戴。食べて!」という私の声は震えて顔が引きつっていた。娘は一瞬母親の剣幕に驚き、それからはもう何も言わずに一口ずつ無理して、全く味のないごはんと豆腐とすりおろした山芋を口に運んだ。
ああ、なんてだらしない母親なのだろう、自分ながら情けない。もっと優しくもっとかしこく接することはできないのだろうか。
 二日目は尿のコーヒー色が少し薄くなり、三日目は紅茶色になって380cc出た。四日目からはやっと1400ccと平常に戻り、一週間してむくみも取れてきた。
「千枝ちゃん、やっと元の可愛いお顔になったわね」
山磨先生に言われ、千枝は嬉しそうに、はにかんでいた。

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