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「蜜蝋部屋にて」

「こちらα区警察署……発砲事件発生中。発砲事件発生中。近隣にお住まいの皆様、直ちに窓から離れ安全な屋内へ退避してください」

街道を遠ざかるサイレンの音が、いつも通り過ぎるだけで侘しいと思い始めていたところだった。救急車、消防車、火の用心、ガス工事。私は、即座に端末チェックは後回しと決めた。

かつて、この部屋の下見の際、仲介業者の担当者が言っていた。
「こちらの物件、この辺りでは珍しい低層住宅でして間取りも1DKと、おひとり住まいですとゆったりめかと。浴室と水廻りの設備は最新のものへと付け替え済みでして、入居をご検討頂ければエアコンも無償で交換可能となっております。少々築年数は経ちますが、その分お手頃なお家賃で住んで頂けるかと」
私は、その日に巡ったすべての部屋に対して、平等な関心を装うことに疲れていた。案内人は手応えの薄い客相手に、私よりもさらに消耗しているのだろう。私は思った。そして、案内人は利発さをより一層押し出してくる。期待されうる質問にも限りがある。試験官の扱いに不慣れな者を気取って、雑談と質問のあわいを行き来した。
「この家賃は、不気味というほどではないですけど、若干気になりますね」
「正直に申し上げますと」
案内人は機嫌よく言った。私は明らかにこの部屋にまつわる何か具体的な不運を期待していたはずだ。
「徒歩圏内の方々に病院が3軒ありまして、うるさいんです、特に夜中」
「ほうぼう……どなたが、その」
「ああ、車が、です。救急搬送の。車の走る音は慣れるんです。爆音、そう昔で言うと暴走族ですか?あんなのも平気で、ああ週末だなあ程度で。ただ、緊急車両系だけは」
「ぴーぽーぴーぽー、ちょっと違うか」
私はたどたどしく戯けた。
「ただし、ご自身の身に何かあった場合は心強いかもしれないですね」
「確かに」
私たちはベランダへと出た。物件に面した街道沿いに春の花が咲き控えていた。見下げると、崩れた樹形がより際立って感じられた。

しーそー、しーそ、しーそー、しーそー

「ほら、また近づいてきましたよ」
「聞き慣れますかね」
「気にするか、気にしないか、それだけですよ」

それから私は、あらゆるサイレンに対して、どうかご無事に、という挨拶を忘れないよう努めた。しかし、それはくしゃみした人間の幸運を祈る心持ちに似通ってきつつある。

うぃーっん、うぃーっん、うぃーうぃっ、うぃ、うぃ

「こちらα区警察署……発砲事件発生中。発砲事件発生中。近隣にお住まいの皆様、直ちに窓から離れ安全な屋内へ退避してください。」

それは長期休暇最終日の夜、私が脱衣所で爪を切っていると聞こえてきた。ここはβ区。α区との境界に位置する。街道の向こうがα区……

安全な屋内!それはきっと、このユニットバスのこと!

私は情報機器のあるリビングよりも先に内廊下方向へ駆け、非常用持ち出し袋を手に浴室へと戻った。私が真っ先にしなくてはならないことが、知人への安否確認ではなく髪を乾かすことだとは、なんと間の抜けた非常事態なのだろうか。もう少し、不自由な日常を装いたいものだ。乾パン、軍手、ヘルメット。手巻き式充電の携帯ラジオ。これにはライトもついている。水、トイレ。これらは今は、無くて良い……

かつて私が住んでいた地区に避難勧告の出た夜があった。台風が近づいているのだった。不安を遥かに上回る不思議な高揚。ひとの生業に関わる心配事だとも気がつかず、水位を確かめるために河川へ向かい、流されるのは当然だと思っていた。迂闊だ。帰路、造成途中の区画に針葉樹林がなだれているのを見かけた。まだ誰も住んではいない。工事は中断していたはず。私は信じた。

うぃーっん、うぃーっん、うぃーうぃっ、うぃ、うぃ

感傷はいけない。今、ここ、に意識を向けなくてはいけない。私は、持ち出し袋の中身を点検することにした。しかし、それが、この非常事態に相応しい振る舞いなのか判然としなかった。マスク、小銭、ホイッスル。ラムネ味のゼリー飲料、紅茶味の小型羊羹。圧縮タオル、レインコート、耳鼻咽喉科に勤める大叔母のお下がりのペンライト。廉価版のか弱そうな食品用ラップ。創傷の一時保護を考えると……どうしても逸脱してしまう。キッチンへと這ってお気に入りの品を取りに行こうか。どこまでが窓辺か。いや、それは関係がない。近くには、救急車がいるはずなのだ。続けよう。テレホンカード、予備用メガネ、ライター、常備薬、蝋燭、裁縫セット。なぜ入れた?それにしても、詰める順番に明かな不備がある。そこに気がついたのが今日でよかった。いつかは訪れる、その日の為に……
早速ラジオの作動チェックをしてみよう。私は初めて手回し充電を試みる。選局が手動なのか。初めて知った。

キューン、ざくざくざく。

私は耳に当てた貝殻から波音が聴こえないものかと期待するよりも明かに不真面目に、話し声を探した。何か曲を、とは思わなかった。もう少しの寂しさがあったのならば、私は誰かの歌声を欲するのかもしれない。

ラジオが告げたのは、ここからは遠い土地で起きている災禍のうち誰かに選ばれた幾つか。ダイヤルを送れば、そこにはきっと、朗らかなお喋りや華やいだ音楽があることは分かっている。私は留まる。詳細の伏せられたトピックスが、かえって事態の陰惨さを縁取る。退屈が贅沢の言い換えになりかけている。そして、α区とβ区に関する事件に関しても、もうじき報じられるだろう。私は何を期待している?大丈夫?ここは、本当に、安全な屋内?

私は、リュックの底に入れた硝子器に入れられた野太いロウソクを思い出した。それは、たとえ対象を欠いていたとしても、何か祈りを捧げたい気分を人に与えるのだった。風にそよぐことなく、健気に灯る一点の橙。私は、それを欲した。私は、ロウソクを薄く覆うカビを払い、着火した。こよりにも見える芯の袂、溶かされた蜜蝋が沸りながら徐々に、その温い湖沼を広げていく。見つめていると、溺れずに生きている私の足首手首を掴もうと、榎茸を思わせる頼りない小さな手が伸びてくる。

だだだだだ、ばこーん。

発砲というよりは銃撃と爆発か。聞き分けることは、私にはまだできない。予期していたよりも近そうだ。安全な屋内。今となっては、それがどこなのかは分からない。誰かが即座に示してくれそうにはない。いつものように救急車のサイレンは幾つか往来するのだろう。端末を手繰り寄せようと充電コードをコンセントから外す。空低くヘリコプターのプロペラが鳴っているにも関わらず、私が想起するのは、稀に見聞きする航空機のジェットエンジンに巻き込まれたはぐれ鳥の不運。
いよいよか。私は思った。

(了)


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