天狗連
わたくしの坊や時分、そうですね、こちらでは坊やのわたくし、とでも申しておきましょうか。その坊やのわたくしですが、このように皆様の前で、ぱーぱーぱーぱー話をしたがる兆しが充分にありまして、家、街、親、各々ぼうぼう燃え尽きたついで、方々廻る大きな客船に乗り込んでですね、毎晩お喋りついでに楽器を吹き吹き、お歌チャラチャラ、小銭を稼いでおりました。寄る街去る街、味噌くさかったり、巻きあげられた土の香り、スパイスと腋臭の間をいくようなにおいだったり色々ありましたけれども。でもあれですね、どこもかしこも、お揃いのように路面電車が走っておりまして、石畳の急坂、ガス灯をケチ臭くぽっぽぽっぽ並ばせた目抜き通り、そこを少し外れたら、化け猫、ゴースト、吸血鬼の類が我が物顔でのっそり佇んでいそうな裏道。もうお腹がいっぱいですね。
さて、坊やのわたくしですが、トランペット、知っておられますか。きらきらのあれです。乗っていました船の真ん中あたりに舞台がありまして、周りが四階分の吹き抜けになっておりました。連日のディナーショー以外、お客様はまあ素通りですね。坊やのわたくしは、不貞腐れることも馬鹿らしくって、昼間は熱心に恋歌を背伸びして演って。軍歌はいやですねえ。夜は、連れのないご婦人の荷物持ちをして口説いたつもりで玉砕。昔も昨日も今日も、まあそんなもんです。それでも機関士、船員のお兄さんたちには随分と可愛がられたものですよ。愛でられ方は大海原の中選べないのは仕方がない。そう思いまして、ひえひえ耐えた夜もあったような気もしますが……まあ、調子づいた輩が、お客さんに手を出したのがバレて凪いだ海にぶっ込まれたのを知りまして、それはそれで、すうっとした気も束の間、立場変わって、坊やのわたくしが居ないものとされる日も遠くはない。そう思ったものですよ。いつか、この船をそっと降りてやるんだ。あとのことは知らねえ。わたくしには、トランペットと、なんやかや適当を言ってその場を凌げる口がある。坊やのわたくしは、だんまりこの坊やのわたくしを陸にあげてくれそうなやさしいひとは居ないかしらと思いながらよく船内、港町、探し歩いたものです。やさしいひと、と言いましても、親切なお巡りさん連中ではありませんよ。そうですね、最近梅雨があけまして……そう、ラムネ瓶を熱々に柔らかくして、ぴょりっと飲み口からひっくり返したような立派なお姉さん、あわよくばお嬢さん、居ねえかな。そう思っていたのでしょう、か?見事な砕け様……ざまあみやがれとでもなんとでも言って、安酒かわして盛り上がりましょうね。あと少しの辛抱です。さて、今となっては、こんな婆さん風情の猿顔のお爺さんでしょうけれども、坊やのわたくしは、日に焼けて逞しくって険しい顔つきのお兄さん方の中にあって、そよそよとしたひとりの坊ちゃん。一丁前にトランペットなんてかっこいいつもりで演って、実のところ、学校にハーモニカ置き忘れただけじゃなかったのかとからかわれるのが丁度いいような、そんな頃合いのことであります。
その日、坊やのわたくしがしてしまった、いや、されたことでしょうか。いつもそうしますように、とあるお姉さまをお部屋までお見送りして、見込み無しと思い、おやすみなさいとお行儀よく申しましたら、お姉さまがおっしゃるんですね。
「シュッとしてて気に入らないね」
坊やのわたくしは、今のわたくしよりもさらに愚かですから、
「ごめんなさい」
と返したんですね。
「気の利くひとは、ごめんなさいをこっちに言わせるもんだよ」
坊やのわたくしは、あれ、わたくしは人でなしかなにかなのかなあ、とぼんやり突っ立ていたのが、その方には、鷹揚に構えているとでも言いましょうか。お澄まししているように見えたのでしょう。
「そういうのがいけすかないね、ちょっとばかし珍しがられてるだけで調子乗ってんじゃないよ、そのトラン…ペット?お前がそこから鳴らして出てくるのが卵か糞か分からないうちにとっとと消えちまいな」
ぱたん。皆様お察しの通り、坊やのわたくしは閉まりかけた扉に右手を挟みまして、とぼとぼ救護室へと向かいました。それはそれは無様なもんですよ。ふかふかの赤絨毯を踏みしめながら、知った顔から声がけられる。ごきげんよう、ごきげんよう、ご機嫌麗しゅう。坊やのわたくしが毎晩試みていたことは、すべて彼らに筒抜け。むしろ応援されていたようなものでした。まあ、運良くば退屈凌ぎに話でも聞いてみようか。そんなものでしょう。肝心の坊やのわたくしは、包帯巻の手のひらを招き猫のようにしながら、しばしデッキに佇みました。こうなったらもうなんだってしてやるんだ。まずははじめに死んでやる。手始めにトランペットを落として様子を見てみるか。いや、それはもったいない。まずは革靴を。左脚、右脚。なんともいわないもんだな。まったく平気だ。最後にひと吹き。坊やのわたくしは、見事、捕らえられました。二番目にわたくしを抑えにかかったお兄さんは、トランペットを海へと放りました。なんでもいつもの癖で、何か凶器だと思ったとのことですね。坊やのわたくしは、必死です。何をされるか分からない。慌てふためいて、なんでもするから助けてください。確かにそう言いました。本当になんでもするのか?お兄さんの中にあっても、お兄さんのお兄さんは、船の中、坊やのわたくしを連れて、ずんずんと先を行きます。一等客室の上の階は、いよいよ船長室。その先には、操舵室があるらしい。坊やのわたくしにとっては未知の世界。通された船長室は、案外簡素な造りです。ただし、船長の気慰めだったのでしょうね。小さな動物の平たい毛皮が幾つか広げられています。各々作りかけの剥製標本とのことでした。絵を描こうか、それとも本を読むか。毛皮を買って集めるか。船長さんは、薩摩芋ごときモグラに綿を詰め詰め縫っています。売り物ではないので、なるべく真っ平らを狙って形を作っていきます。外に放れば、場所取らず。とはいかないようでした。船長さんは、抜けた糸を針にするっと1発で通したあと言いました。
「なんでもするって聞いたよ」
坊やのわたくしは、
「それはちょっと」
ときっぱりさっぱりただ一言。いざというときひとは互いに、戯けるものですね。
「これか。誤解させて悪かった」
船長さんは、深刻さのかけら一つもなく、ぽおんと言いました。
「この部屋から何かひとつ値の付けられそうなのを持って行きなさい」
部屋の隅に重ね置かれた、ネズミ、モグラ、縮こまったままの小さな蝙蝠。坊やのわたくしから見て綺麗だと思える鳥や獣は見当たりません。さっと棚に目をやると、ぽろんと丸っこい尾っぽの横に蹴爪のついたのが突っ込まれています。引き抜くと、前脚には水掻きが付いて、頭には嘴までついている。これは、売れる。坊やのわたくしは思いました。
「船長、これにしてもよろしいでしょうか」
「それか。お目が高くていらっしゃる。なんて言って売るんだい」
「と言いますと」
「何か売ろうと思ったら、ぼうっと立ってるだけじゃいけないだろう。さおやー、さおだけーとかなんとか」
「つぎはぎ……つぎー、はぎー」
「カモノハシってんだよ」
坊やのわたくしは、手にしたものがカモノハシという生き物だったと知らされて、土を被ったままの根菜のように吊るし持っていたのを改めて抱きなおしました。
「泳げて歩ける。でも目はあまり良くないようだから、船乗りには向かないだろうねえ」
船長さんは、坊やのわたくしにそう言いました。
「かものーはし、かものーはし」
「その調子だ。楽器のことは悪かったな。で、なんて言われた。自分で商売道具の手を反故にしたってこともないだろ」
「あ。そういうのがいけすかないね、ちょっとばかし珍しがられてるだけで調子乗ってんじゃないよ、そのトラン…ペット?お前がそこから鳴らして出てくるのが卵か糞か分からないうちにとっとと消えちまいなって」
「そうでしたか。それはそれはご苦労様です。坊や、おやすみなさい」
船長さんは愉快そうに言いました。
「おやすみなさい」
と返しますと、わたくしは商いに出たまま帰って来ず、坊やのわたくしだけがどこかで留守番している。そんな心地が、今晩も致します。
了
参考図書
『カモノハシの博物誌~ふしぎな哺乳類の進化と発見の物語 』浅原正和(2020 技術評論社)
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