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リハウスとパエリア

夜は明るい。明るすぎる。それが、杉江が副業に抱いたおおよその印象だった。鍵盤から指を離して残響のチェックをする。見立てが狂う。浄水場の跡地に築かれた高層ビル群の半地下にある広場には、壁沿いに滝状の噴水が設けられており、それが花崗岩が生み出すはずの反響を和らげるのだった。街の歴史を水で紡ぐ。いかにも、近所のビルに社名のつく大手総合建設業者が考えそうなことだと杉江は思う。昼の職場の斜向かいの8割程を彼らは占めている。杉江は、弦楽器と管楽器を混和する。音の立ち上がりが後ろノリになるので、ヴィオラのボタンを押し消す。爪だけが素爪だ。週末、妻と衣装を裁縫した。それは、赤いワンショルダーのマイクロミニワンピースだった。杉江の医院が入居するビル街のクリスマスコンサートの伴奏を務める為だ。グローヴには使い捨てのカイロが仕込んである。手指の感覚は一日を通して鮮明に保たなくてはならない。杉江は、オフィスビルのクリニックモールで美容外科を営んでいた。

杉江は終業後、とある電子鍵盤楽器を弾く。それは、シンセサイザーではない。2段に分けられた鍵盤、足元には右足を用いて操作する音量と各種機能を切り替えるペダルと左足用の鍵盤、膝元にレバーがあり、各々を自らの四肢で操作し、内蔵されたリズムパターンと音色を調整して実演する。大衆音楽全般を一台で網羅でき、実演による余白と再現可能性を合わせ持つ夢の楽器。杉江の幼少時、それは無敵の楽器に思えた。

しかし、ライバルは競合他社の電子オルガンではなく、打ち込みだった。舞台での見栄えを考慮した場合、シンセサイザー奏者の見せる情熱と怜悧の調和も、スティールギターを弾く者の仙人然とした佇まいもなく、杉江は自分の見せ方に戸惑うのだった。杉江は、仕方なく兄のお下がりのベースに持ち替えた。中学生の頃だ。医学生の兄が、一昔前のアーティストのコピーバンドをしていた。敬愛からではなく、誰もが曲を書くのをためらったのだった。全てヴォーカルは兄が取った。杉江は、歌うことに気恥ずかしさがあったが、コーラスからは逃れられないのだった。なぜ人は、どのグループ名の“The”も省くのか。兄たちは杉江の家に集うと、往年の名曲を流す深夜放送をかけ、曲紹介の際にパーソナリティが”The”と言うかどうかに所持品を賭けた。杉江が勝っても大方は未成年を理由に没収された。兄たちが、お年玉をくれた冬があった。杉江は、ついに1人になった気がした。兄の母校へは受かったが、自分が出来ることを考えなくてはならなかった。杉江は、鍵盤楽器へと回帰した。折しも、打ち込みによるダンスミュージックがポップス市場を席巻していた。杉江には、有利な筈だった。

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電子鍵盤楽器奏者は、その美醜に関わらず、線の細い印象を与える青年が多かった。皆一様に、照明による猛暑の中、長袖のシャツを腕まくりし、譜面台にカフスボタンを転がしているではないか。杉江には適性のないスタイルだった。杉江の話し声は未来の外科医らしく大きい。リハーサルスタジオの姿見に歌姫の卵を認める。その奥には、ゴリラの眉、撫でつけたライオンの鬣、熊の手指。自分の身体に尻尾と牙が生えてきそうだった。杉江は退散した。彼は美容外科医になることに決めた。何を聴いてもドレミにしか聞こえない。それを嘆く感覚すら失われた杉江は、一層拗らせた。聴こえて来るのは、有線がプッシュするダブルミリオンを達成したシンデレラガールの澄んだ声色だった。

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発端は、兄の結婚式だったように杉江は思う。稚拙な婚礼の合唱、愛と恋に関する歌々。僕/俺/私と、君/あなたが増殖した。其方であれば許せたかもしれない。ソナタ、ソナチネ、カンタータ......
人々は、いつの世も、雀が鴉に食べられないかしらと案じ、月を愛で、相手方に生き霊を送り込むのだ。杉江は辟易した。その頂点が、I Love You、と唄う兄の伴奏を努める杉江自身になるはずだった。会場には、最新式の当該電子鍵盤楽器があった。リズムパートと、おおよその音色は、フロッピーディスクに入れてあった。兄は巧くはないが美声だ。サビを一度終えると、新婦が「男」のように泣いていた。それは、誰よりも遅く涙しようとして堪えきれなかった者の顔だった。情欲が煮え滾った。杉江は、その足で会場の責任者の元へ、奏者のアルバイト雇用の交渉へ行った。式毎に5千円だった。杉江は、棒立ちで歌う人間を滑稽に見せない曲の気配に慄然としつつも、より彼を陶然とさせたのは、彼女たちの解けかけのつけ睫毛であり、嗚咽で窮屈そうに揺れる、コルセットで引き寄せられた胸元であり、急拵えの指先の所作だった。杉江は、彼女たちの振る舞いを公然と模倣する自らのショーを夢見始めた。

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その日、杉江は妻の母校を2人で散策していた。娘が生まれる少し前だった。正門脇のチャペルからパイプオルガンの練習音がした。このレンガの積み方は何式か。
建物の隙間に、酔い潰れた女が挟まっていた。網タイツから両方の親指が突き出ている。その様は、杉江に南洋で捕らえられた大型魚を思わせた。よく見ると、彼女は「男」だった。その人の横を妻は、ただ通り過ぎた。杉江は、「彼女」が身を起こし、赤いハイヒールをシンバルのように叩き出すのを確認してから立ち去った。生きていても、窒息したら人は死ぬのだった。杉江は、妻が見ようとしなかった物事について考えた。それは、状況か、それとも人だったのか。それは「彼女」か、それとも「彼」なのか。
帰宅すると妻は靴箱を整理すると言った。スニーカーを買い、バレエシューズを残すとのことだった。妻が売ると決めたハイヒール一塊を杉江は磨いた。一足、靴底が赤く塗られた黒いピンヒールがあった。
「さっきの人綺麗だったね」
妻は言った。杉江は、誰が、とは問わなかった。
「これは取っておこうかな」
妻は、艶めくルブタンを手にしていた。
「僕を売らないで」
と、妻は腹話術をして戯けた。
負けじと彼は並んだ靴のインソールに順に手を沿わせ、タップを踏もうとした。上手く踊れそうな一足があった。足の甲にストラップのついた靴だった。このままペダル鍵盤を叩いてみたらどうだろう。杉江は思った。2人は思いついてしまった。彼らは教育費と開業資金を欲していた。杉江は、ベビーシューズの注文ついでに、28㎝のメリージェーンを特注した。あとは、杉江をメリージェーンに似合わせるだけだった。妻が量販店へ、ウィッグを幾つかを買いに出た。杉江は、バレエ用品店で白いタイツを泰然と購入した。手芸店でペイズリー柄の生地を3メートル買った。型紙を得る為、妻のボウタイワンピースを切り開き拡大コピーした。何も彼らを妨げなかった。当該電子鍵盤楽器は、まだどの式場にもあった。

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昼食にパエリアを作るようになったのはいつ頃からだろう。杉江は毎週末、食具と敷物を変えて撮り、アップロードする。父親をパエリアと呼ぶ娘を妻が叱る。アイコンがパエリアなので仕方がない。配信は金曜の夜にする。ジェーン・パエリア。それが、「彼」の通称だ。撮影機材越しに、妻が裏声を駆使して喋る。コメントには、娘が返す。娘は、「女」を補強し、武装した杉江の面に慣れていた。誰も傷付かなかった。ジェーンは、圧倒的な他者であり、無害な珍獣なのだろうか。ジェーンは杉江に言い聞かせた。「彼ら」は、小規模ながらホワイトなマネジメント会社と業務提携契約を結んでいる。月曜に出勤すると、医療事務員が、
「美味しそうでした、今日はどちらですか」
と杉江へと声掛ける。彼らは送迎車を手配してくれる。簡易な営業は、肩掛けキーボードでこなす。控え室のないライブハウスが稀にある。仕事終わり、開演時間を気にしながら低層階の白黒灰紺の人群れを蛍光色の花柄が突っ切る。メリージェーンはベルトがついて走りやすい。エレベーターの扉が開く。労いの言葉をかけられる。誰も驚きはしない。噴水広場で、大会名が毛筆されている。

”S副都心合同歌合戦”

おそらく近くのホテルの筆耕係だろう。杉江は思う。写真を撮る音がすることがある。ジェーンは#をぜひ、と思う。ジェーンは、タクシーでビル街を流す。青銀がかったガラス窓を鏡にして踊る者がある。片手マイクの女性たち、連れ立って同期する若い男たち......
電柱のない目抜き通り、ブルースハープを首掛けにしている壮年の男がいた。彼は涼しい顔で、ガンバレ、と弾き語る。横断歩道の手前、知った顔が、アンプ内蔵のミニギターを鳴らしていた。彼女は、コードを今から4つ覚えて片付けると言った。さながらサイボーグだと杉江は頼もしく思った。
街路樹の向こう、揃いの制服姿が枯葉を紙吹雪にして遊んでいた。黒尽くめの手脚が幾つも跳ねた。きっとローファーが鳴っている。
「リハウスガール?」
ジェーンは呟いた。最早、彼女たちは誰も、お姫様に仕立てられようとはしない。杉江は思った。

Fin

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