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花様年華THE NOTES⑫



ジミン
22年5月16日


ホソク兄さんの家は
とても高い地帯にあった。

大通りからだいぶ上っていき
曲がりくねった狭い路地を過ぎると
行き止まりの道にたどり着く。

その一番奥にある屋上の簡易住居
そこが兄さんの家だった。

部屋が1つしかない家に入りながら
兄さんは、ここはまさに世界を
足元に置ける都会の最上階だと
得意げに言った。

兄さんが言うように
屋上の簡易住居からは実に
さまざまなものが見渡せた。

正面の眼下に電車の駅があり
線路沿いに立ち並んだ
コンテナも見えた。

そのうちの1つに
ナムジュン兄さんが住んでいた。

そこから少しだけ
別の方に顔を向けると
僕たちが一緒に通った学校が現れた。

僕は学校から川の方に顔を向け
川の向こう側をながめた。

山裾に沿って大規模な
マンション群が並んでいた。

そこが僕の家、いや、両親の家だった。

僕は当てもなく病院を逃げ出してきた。

両親に連絡が行っているはずで
今頃は僕を捜しているかもしれない。

まだ両親と対面する自信がなかった。

病院を出たものの
家には帰れなかった。

行く当てもなく、金もなかった。

もじもじして立っている僕に兄さんは
ついて来いと言うと、先に立って歩いた。

そうして着いた所がここ
兄さんの家だった。

もう一度、視線を移し
マンション群をながめた。

いつかはそこに
行かなければならない。

両親に会い、二度と
病院に行かないと
言わなければならなかった。

息を大きく吸い込むと
ホソク兄さんが近づいてきて

そばに立った。



ホソク
22年5月16日


家は僕が世界で一番
正直になれる所だ。

家にいる時は、たまに
窓の外に向かって大声で叫んだり
歌を歌ったりする。

音楽をかけっ放しにして
ダンスを踊る時もある。

泣きながら目を覚ます夜もあったが
そんな時は、しばらくじっと横になり
天井を見つめた。

何よりも家にいる時は
ナルコレプシーで
倒れることがなかった。

ジミンは病院を出た後
家に帰らなかった。

その代わり僕の家に来て今
屋上の欄干にもたれて
都会を見下ろしている。

学校がどこにあるのか
ツースターバーガーが見えるか
線路をたどっていきながら
明かりがどう変わるのかなどを
見ているはずだった。

そして、きっと自分の家を探すだろう。

それは人の本能の
ようなものかもしれない。

高い所に上った時
あるいは大きな地図を広げた時
自分の家を探してみるのは。

でもジミンはなぜ
家に帰らなかったのだろう。

聞こうとしたがやめた。

頭の中が複雑だろうから
余計なことは聞きたくなかった。

救急救命室で見たジミンの母を
思い浮かべれば、ある程度
見当もついた。

実を言えば、僕は友達に
あれこれ聞く方ではなかった。

理由はたくさんあった。

聞かなくても分かる気がして。

答えにくいだろうから。

とやかく聞かれたら
面倒くさいだろうから。

本当は友達が店の前を通ると
行き先が気になった。

でも駆け寄って
聞いたことはなかった。

ジョングクは傷を作って
どこに行くのだろう。

ユンギ兄さんの作業室は
あの方角だったか。

ナムジュンはなぜ
学校をやめたのだろう。

テヒョンはグラフィティを
どこで習ったのだろう。

思い起こしてみれば
僕は友達について
知っていることがあまりなかった。

「見つけたか?」

僕はジミンの隣に
近づきながら聞いた。

「何をですか?」

ジミンが聞き返した。

「家」

僕の言葉にジミンが
こくりとうなずいた。

「僕はあそこに見える養護施設で育った」

僕は線路の向こうを指差した。

「ほら、ナムジュンが
  アルバイトしてる
  ガソリンスタンドから
  川の方に行くと
  スーパーが見えるだろ。
  そ の後ろにクローバーの
  形をしたネオンサインの
  看板が見えるよな。
  そのすぐ左側だ。
  あそこに10年以上
  住んだかな」

ジミンがそんな話を
なぜするんだと言いたげに僕を見た。

僕が養護施設で育ったことは
友達全員が知っている事実だった。

僕はそこを家だと思って育った。

無理やり家だと思い込んで
気持ちの安らぎを得ようと
必死になったのではなく
本当に家だと思っていた。

ただ、その家に
母がいないだけだった。

「ウソをついてたことがある」

ジミンにだけでなく
誰にも話していなかった。

僕のナルコレプシーが
ウソだという事実を。

もしかしたら
だから誰にも何も
聞けなかったのかもしれない。

相手を傷つけそうだからではなく
僕がウソを隠しているから
それを話す勇気がなくて。

そして、それを話したら
単に養護施設という家に
母がいないだけではなく
この世のどこにも母と呼べる人が
いないことを認めざるをえないから
友達の誰の状況も、誰の事情も
聞かなかったのかもしれない。

ジミンは表情を隠すのが
得意な方ではなかった。

どれほど驚いたのかが
そっくりそのまま顔に表れた。

すまないという言葉では足りなかった。

僕のせいでジミンが
慌てふためいたのは
1回や2回ではなかった。

たぶん、初めて目撃した時は
泣き出したことだろう。

「わざとそうしたわけじゃない。
  よくなる方法があるという
  事実を知っていながら
  顔をそむけたと言うべきか。
  どういう意味か、よく分からないだろ?
  実は僕もうまく説明できない」

「じゃあ、もう大丈夫なんですか?」

黙って聞いていたジミンが
僕の方に顔を向けて聞いた。

もう大丈夫なんだろうか。

自分に問いかけてみた。

ジミンはまだ僕を見ていた。

顔には非難も同情も
にじんでいなかった。

華やかな明かりに彩られた
都会が眼下に広がっていた。

「さあな、 分からない。
  これから生きてく中で分かるだろう。
  楽しみじゃないか?」

ジミンがくすっと笑った。

僕もつられて笑った。



ジミン
22年5月19日


結局、プルコッ樹木園に
行かなければならなかった。

そこで見たことを
思い出せないというウソは
やめなければならなかった。

病院に隠れて生きていくことも
発作を起こすことも全て
やめなければならなかった。

そのためには
そこに行かなければならない。

気持ちはそうだったが
僕は何日もプルコッ樹木園の
シャトルバス停に行くだけで
バスには乗れなかった。

ユンギ兄さんがそばに来て
どっしり腰を下ろしたのは
今日だけでバスを3台
見送った後だった。

どうしたのかと聞くと
兄さんは、することもないし
退屈だから来てみたと言った。

そして僕に、なぜここに
座っているのかと聞いた。

僕はうつむいたまま
靴の先で地面をトントン突いた。

ここに座っている理由
それは勇気がないからだった。

平気なふりや知ったかぶり
その程度のことは軽く
やりこなせるふりをしたかったが
本当は怖かった。

どんな出来事に出くわすのか
それに耐えられるのか
また発作を起こさないか
全てが怖かった。

ユンギ兄さんはのんびりしていた。

世の中、急ぐことはない
というふうに、どっしり構え

「いい天気だ」

のん気なことを言った。

確かに本当に天気がよかった。

緊張のあまり、天気も何も
周りを見渡す余裕がなかった。

空が抜けるように青かった。

時々、ほどよく暖かい風も吹いた。

向こうからプルコッ木園の
シャトルバスが近づいてきた。

バスが止まり、ドアが開いた。

運転手が僕を見た。

兄さんに聞いた。

「兄さん、一緒に行ってくれますか?」



ホソク
22年5月20日

テヒョンを連れて警察署を出た。

「お世話になりました」

頭を下げながら
わざと元気に言ったが
とてもそんな気分ではなかった。

警察署からテヒョンの家までは
それほど遠くなかった。

警察署から遠い所に住んでいたら
テヒョンはこれほど頻繁に
警察署に出入りしなくても済んだのだろうか。

テヒョンの両親はなぜ
こんなに警察署に近い所に
家を構えたのだろうか。

バカがつくほど優しくて
繊細な奴に世の中は実に不条理だった。

テヒョンの肩に腕をのせ

「腹減ったか?」

さり気なく聞いた。

テヒョンは首を横に振った。

「警察署の兄さんたちは
  喜んでメシでもおごってくれたか?」

その問いかけにもテヒョンは
やはり答えなかった。

日差しの中を2人で歩いた。

心に冷たい風が吹いた。

僕の気持ちでさえこうなのに
テヒョンはどんな心情だろうか。

どれほど心をズタズタに引き裂かれ
踏みにじられたのだろうか。

心臓は無事に残っているだろうか。

心の中にどれほど多くの
苦しみがあるのだろうか。

そんなことを考えたら
顔を合わせることができず
代わりに空を見上げた。

かすんだ日差しの中を
飛行機が通り過ぎていた。

テヒョンの背中の傷を
初めて見たのはナムジュンの
コンテナにいた時だった。

新しいTシャツ姿で
明るく笑っているテヒョンの
顔に向かって、かける言葉が
どうしても見つからなかった。

僕には両親がいなかった。

父の記憶は少しも残っておらず
母の記憶も7歳の時までしかなかった。

家族と子どもの頃の心の傷なら
誰よりも事欠かなかった。

人々は言う。

心の傷を乗り越えるべきだと。

受け入れて慣れるべきだと。

和解して許すべきだと。

そうしなければ生きられないと。

しかし、それを知らないからではなかった。

嫌だからではなかった。

努力をしたからといって
全て成し遂げられるものではない。

誰もその方法を教えてくれなかったし
古い心の傷が完全に癒えないうちに
世の中は新しい心の傷を与えた。

世の中に心の傷が
ひとつもない人はいないだろう。

よく分かっている。

しかし、これほどまでに
深い傷が一体、なぜ必要なのだろうか。

何のために、どうしてこんなことが
起きるのだろうか。

「兄さん、 大丈夫です。
  1人で行けます」

分かれ道でテヒョンが言った。

「分かってるよ、こら」

僕は先に立って歩いた。

「本当に大丈夫ですよ。
  ほらね、平気です」

テヒョンが笑って見せた。

僕は答えなかった。

大丈夫なはずがなかった。

大丈夫ではないが
それを認めてしまうと
さらに耐え難くなるから
目をそむけているのだ。

それが癖になっているのだ。

テヒョンはフードをかぶり
後をついて来た。

「本当に腹は減ってないんだな?」

テヒョンの家に続く
廊下に着いてから聞いた。

テヒョンがバカっぽい笑顔を
見せながらうなずいた。

廊下を歩いていくテヒョンの
後ろ姿をしばらく見守った後

踵を返した。

あいつが歩いていく廊下も
僕が戻っていく道も
狭くて荒涼としていた。

あいつも僕も1人だった。


ソクジン
22年5月20日

テヒョンの家がある建物は
この町内で最も古いものの1つだった。

あちこちペンキが剥がれていたり
割れたセメントの隙間から
雑草が生えたりしていた。

今にも倒れそうなほど危うかった。

僕は建物の裏の坂道にある小さな公園で
さっきからテヒョンとホソクを待っていた。

坂道のおかげで公園から
テヒョンの家がある階の
廊下がそのまま見下ろせた。

向こうの路地を曲がり
ホソクが姿を現した。

テヒョンも後について来ていた。

かぶっていたフードのせいで
テヒョンの顔はよく見えなかった。

テヒョンとホソクは
路地の入口で二言三言
言葉を交わしていた。

テヒョンがもう帰っていいと言い
ホソクが大丈夫だと
言っているようだった。

先に歩き出したのはホソクだった。

2人は黙って建物の前まで歩いた。

ホソクは階段を上がり
テヒョンの家の前にたどり着くと
立ち止まった。

テヒョンの肩を軽く叩き
ホソクは早く入れというような
ジェスチャーをして見せた。

そして背を向け、出口の方に
向かって歩き出した。

テヒョ ンがそんなホソクの
後ろ姿を少し見守ってから
玄関のドアノブをつかんだ。

テヒョンがドアを
開ける瞬間を待って
電話をかけた。

呼出音が3回鳴り
ホソクが廊下の真ん中辺りで
電話を取り出した。

その間、テヒョンは
家の中に入っていくところだった。

「ホソク、もしかして
  テヒョンと連絡取れるか?」

ホソクが立ち止まった。

「たった今、 テヒョンと
  別れたところですけど」

僕は、ちょうどよかった
皆、海に旅行に行きたがってるから
テヒョンにも聞いてみるようにと言った。

ホソクは、当然
行くに決まってるじゃないかと笑った。

「でも、はっきり聞いた方がいいから
  一度、聞いて電話くれるか?」

僕は急いで電話を切った。

今だった。

今、ホソクがテヒョンの家に
入らなければならない。

ホソクは電話が切れたのを確かめ
首をかしげると、引き返した。

そして、まだ開いている
テヒョンの家の玄関に入った。


テヒョン
22年5月20日

手のひらを見下ろした。

血がにじみ出ていた。

急に脚の力が抜け
しゃがみ込もうとすると
誰かが後ろから抱き寄せた。

ぼんやりした日差しが
窓を通って降り注いだ。

姉が泣いていて、ホソク兄さんは
何も言わずに立っていた。

汚れた家財道具と布団が
いつものように散らかっていた。

いつ、どんなふうに部屋を
抜け出したのか
父が立っていた所には
誰もいなかった。

父に飛びかかった瞬間の
抑えがたい怒りと悲しみは
まだ俺の中に消えずに残っていた。

父を刺そうとした瞬間
俺を制止したものは何なのか

分からなかった。

張り裂けそうな心を
どう紛らわしたらいいのかも分からなかった。

父ではなく、いっそのこと
俺自身を殺したかった。

そうすることさえできたら
今すぐにでも死んでしまいたかった。

涙も出なかった。

泣きたいのに、叫びたいのに
何もかも蹴飛ばしまくって壊したいのに
自分が壊れたいのに、何ひとつ
思いどおりにできなかった。

「兄さん、ごめんなさい。
  大丈夫だから、行ってください」

押しつぶされそうな心とは裏腹に
声は乾いていた。

帰ろうとしない兄さんを
無理やり見送り
手のひらを見下ろした。

まだ血がにじみ出ていた。

父を刺す代わりに俺は
酒の瓶を床に叩きつけた。

瓶が粉々に砕け
手のひらが裂けた。

目を閉じると
世界がぐるぐる回った。

何の考えも浮かばなかった。

これからどうすればいいのか
どう生きていけばいいのか
何も分からなかった。

気を取り直してみると
無意識にナムジュン兄さんの
電話番号を見下ろしていた。

こんな状況に至っても、いや
こんな状況だからこそ
なおさら兄さんの存在が切実だった。

兄さんに話したかった。

「兄さん。僕が、父を
  僕に命をくれた父を
  僕を毎日、所構わず
  むちゃくちゃに殴った父を
  殺しかけました。
  本当に殺し かけたんです。
  いや、本当は殺しました。
  何度となく殺しました。
  心の中では数えきれないほど
  殺しました。
  殺したいです。
  死にたいです。
  これからどうしたらいいのか
  何も分かりません。
  兄さん、今会いたいです」



……To be continued


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