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花様年華THE NOTES⑪



ホソク
22年5月12日


非常口のドアを開け
階段を駆け下りた。

心臓が今にも張り裂けそうなほど
ドキドキ鳴っていた。

病院の廊下で
すれ違った顔は確かに母だった。

振り返った瞬間
エレベーターのドアが開き
人が溢れ出た。

一瞬、母の姿が視野から消えた。

必死に人をかき分けていくと
母が奥の非常口に入ってくのが見えた。

焦って階段を2段飛ばしで下りた。

休まずに数階を駆け下りた。

「母さん!」

母が立ち止まった。

僕はさらに1歩
踏み出した。

母が振り返った。

もう1階、下りた。

母の顔が見え始めた。

その時だった。

かかとが階段の角で滑って
瞬間的にバランスを崩し
体が前に傾いた。

バランスを取ろうと
腕を振り回したが
すでに手遅れだった。

前にばったり倒れるだろうと思い
ぎゅっと目を閉じた。

その時だった。

誰かが後ろから
僕の腕をつかんだ。

おかげで、 かろうじて
バランスを取れた。

振り向くと、ジミンが
驚いた顔をして立っていた。

ありがとうと言う間もなく
僕はまた振り向いた。

1人の女性が見えた。

驚いている顔だった。

隣には小さな男の子がいた。

女性は大きな目で
まばたきをしながら僕を見ていた。

母ではなかった。

女性が男の子を背後に隠し
後ずさりした。

僕は女性の顔をじっと見たまま
黙って階段の上に立っていた。

何と言ってその場を
切り抜けたのかは
はっきり思い出せなかった。

すみませんとか
人違いだったと言ったような気がする。

そういえば、ジミンがなぜ
そこに現れたのかも聞かなかった。

そんなことまで一つ一つ気にして
確かめるには、頭の中が複雑すぎた。

女性は母ではなかった。

ある意味、僕はその事実を
最初から知っていたのだと思う。

遊園地に1人残された日から
10年以上の時間が過ぎた。

その分、母も年を取っただろうし
僕が覚えている姿とは違うはずだ。

母に再会するとしても
もしかしたら
気づかないかもしれない。

いや、正直なことを言えば
僕はもう母の顔は
ほとんど思い出せなかった。

振り返った。

ジミンが黙ってついて来ていた。

高校時代、救急救命室で別れて以来
ジミンはずっと、この病院で
過ごしていたと言った。

出たくないのかと聞いた時
ジミンはどうしたらいいか
分からなかったのか
もじもじするだけだった。

ひょっとすると
ジミンも僕のように
自分をがんじがらめにする
記憶に囚われたまま
その中に閉じ込められて
いるのではないだろうか。

僕はジミンに一歩

近づいた。

そして言った。

「ジミン。ここから出よう」



ジミン
22年5月15日


兄さんが退院して3日が過ぎた。

元気でという挨拶はしたくなくて
病院を出ていく兄さんに
こっそりついて行った。

隠れたり歩いたりしている間
兄さんは長い廊下を歩き
病院の外に向かっていた。

僕がいつも立ち止まる
あの地点、非常階段の辺りを
兄さんは何の気なしに通り過ぎ
ドアに向かって歩いた。

僕は兄さんの後ろ姿をながめた。

知らないうちに
足を止めた状態だった。

あと5歩は先に進める地点で
僕は立ち止まっていた。

ホソク兄さんはゆっくり手を伸ばし
静かにドアを押した。

ドアが開き、日差しが
一気に降り注いだ。

やや鼻につくようでもあり
爽やかでもある空気が押し寄せた。

ドアの向こうの風景が
一気に飛び込んできた。

兄さんが外に出ると
ドアは閉まり始めた。

走っていけば、完全に閉まる前に
手が届く距離だった。

足元に視線を落とした。

床には僕にだけ見える
境界線が引かれていた。

僕は背中を向けた。

いや、そうしたかった。

でも誰かが肩を強く
ぶつけて通り過ぎた。

僕は思わず1歩、前に進み
そのまま転けてしまった。

倒れたまま顔を上げた。

一度も越えたことのなかった
その線を越えていた。

目の前をマヌケが
通り過ぎていった。

そいつは僕を押しのけると
ドアに向かって走っていた。

僕以外にも肩がぶつかったり
押されたりする人が多かった。

しかし、そいつは
お構いなしに走った。

そして思いきりドアを開け放つと
再び日差しが降り注ぎ
そいつは外に飛び出した。

看護師が追いかけていったが
そいつの足の方が速かった。

もう一度、ドアが閉まり始めた。

僕は体を起こした。

境界線を一歩、越えた所。

そこから、さらにもう1歩
踏み出してみた。

ドアまでは、あと3歩くらいだった。

しかし、また背を向けてしまった。

僕は自分の限界線を知っていた。

ホソク兄さんがいたベッドには
すでに別の患者が来ていた。

目を閉じたが眠れなかった。

兄さんが退院する直前に
言った言葉が何度も頭に浮かんだ。

「ジミン。 ここから出よう」

あの時、兄さんは今まで
一度も見せたことのない
複雑な表情を浮かべていた。

あんな表情も
あんな言葉も初めてだった。

どう受け止めたらいいのか分からず
僕はもじもじしながら立ちつくしていた。

あの瞬間を繰り返し思い出すのは

単に「出よう」という
言葉のためではなかった。

それよりもその直前にあった
出来事のためだと言った方が近い。

あの時、僕は物理治療を
受けるために2階に行った後
エレベーターを待っていた。

マヌケとケンカして転んだのだが
そのときにくじいた手首の治りが遅かった。

ホソク兄さんが退院する
時間だったから気が急いていたが
エレベーターが9階から
なかなか下りてこなかった。

「ジミン」

と名前を呼ばれた気がして
振り向いたのは、階段で
上がろうかと考えていた時だった。

少し離れた廊下の先の
非常階段の前に誰かが立っていた。

窓から差し込む日の光で
顔はよく見えなかった。

1歩近づくと、その人は
非常口のドアを開け
中に入ってしまった。

一瞬、横顔が見えたが
誰だか分からなかった。

誰だろう。

僕は妙な気持で
非常階段の方に歩いていった。

非常口のドアを開けて
頭を突き出すと、誰かが
目の前をすっと通り過ぎた。

反射的に頭をさっと引っ込めた。

危うくぶつかるところだった。

「母さん」

そう叫ぶ声に僕はもう一度
顔を突き出した。

あたふたと階段を下りていくのは
ホソク兄さんだった。

階段の下の方には
1人の女性が立っていた。

どうしたのだろう。

僕は踊り場に踏み込んだ。

兄さんの足がもつれたのは
次の瞬間だった。

反射的に駆け寄って手を伸ばし
兄さんの腕をつかんだ。

駆け下りていた速力に
ブレーキがかかったことで
兄さんの体がふらつき
僕もバランスを失うところだった。

また階段を上がり
5階の廊下に入るまで
兄さんは黙っていた。

廊下を歩き、病室に
向かっている間もそうだった。

急に立ち止まった
兄さんが僕を見て言った。

「ジミン。 ここから出よう」

僕は何も答えられなかった。

兄さんは頼み込むように言った。

「また迎えにくるよ」

僕は言った。

「何日か後には精神科病棟に戻るんです」

それから3日が過ぎた。

明日になれば、また精神科病棟に戻る。

所持品を片づけた後
ベッドに横になった。

少し体をもぞもぞ動かしたが
すぐに眠気に襲われた。

眠りから覚めたのは
何かが落ちるような
気配がしたからだった。

病院は妙な所で
なかなか深い眠りにつけなかった。

目を閉じていても
四方の気配を感じてしまい
ごく小さな音にもすぐ目が覚めた。

病気は真っ暗だった。

開け放たれた窓から風が吹いてきた。

季節外れの少し蒸し暑い空気に
カーテンがなびいた。

天井と床、暗闇と静寂
全て慣れ親しんだものだった。

スタンドの明かりをつけようとすると
誰かの手が僕を制止した。

ホソク兄さんだった。

驚いて体を起こすと
兄さんが唇に人差し指を当てて見せた。

「皆、一緒に来た」

皆が僕を待っているのだと言う。

すると、一緒に出ようと
言いながら兄さんは手を差し出した。

僕にはまだ怖いものがたくさんあった。

両親にとって僕は
いないも同然の息子だったし
周りの人たちにとっては
閉じ込められていた精神科病棟から
脱走した患者に過ぎないだろう。

ただ素直な子として
ここにいる方が安全かもしれなかった。

外に出てうまく過ごせると
自信を持って言うこともできなかった。

ここにいなければならない
論理的な理由を100通りは
挙げられると思った。

兄さんは待たなかった。

いきなり僕の手をつかんで起こすと
Tシャツを差し出し
僕をベッドから引っ張り出した。

僕はとっさにその手をつかんだ。

廊下は静かだった。

受付のデスクには看護師が
2人ほど座っていた。

それぞれ仕事が忙しいらしく
僕たちの方には関心を見せなかったが
兄さんと僕はすっかり緊張したまま
静かに歩いた。

エレベーターは5階に止まっていた。

ドアが開くと、ナムジュン兄さんと
ソクジン兄さんが乗っていた。

1階にたどり着き、廊下に入ると
ホソク兄さんが突然
左側のドアに僕を引き入れた。

休憩室だった。

普段、患者と身元引受人で
にぎやかな休憩室は
窓の外の街灯以外は一面
真っ暗だった。

片側のテーブルの上の
ろうそくにバッと火が付くと
ジョングクとテヒョンの顔が現れた。

暗闇の向こうにユンギ兄さんも見えた。

テーブルにはスナックや
炭酸飲料が置かれていた。

看護師が裏門を開けて現れたのは
飲み物を数口も飲んでいない時だった。

「兄さん、久しぶりです」

簡単な挨拶が終わる前だった。

ここで何をしているのかという
看護師の問いかけに
ユンギ兄さんが
誕生日パーティーだと言いつくろった。

看護師は休憩室に一歩
足を踏み入れた。

「皆さん、本当にここの患者さんですか?
  違うみたいだけど」

僕たちの中で患者衣を着ているのは
僕しかいなかった。

缶を持っていた手に
無意識のうちに力が入った。

アルミニウムの缶が
奇異な音を立ててつぶれた。

ホソク兄さんが僕の肩をつかんだ。

「大丈夫だ」

ナムジュン兄さんの声だった。

「兄さん。合図をしたら
  すぐ走るんですよ」

そう言ったのは
ジョングクのようだった。

いつの間にか、前方のドアまで
行っていたソクジン兄さんが
目配せをすると、外に出た。

ホソク兄さんが全員を見回した後
声を低めて言った。

「走れ。 ジミン」

その言葉を合図に
僕たちは全員、駆け出した。

僕もその中に巻き込まれ
一緒に走った。

テヒョンが足を踏み外して
転びそうになり
菓子の袋とペットボトルが
空中に舞い上がった。

テーブルの間を横切り
1階の廊下に出た。

看護師の声と足音が
僕たちを追ってきた。

廊下は昨日と同じ姿で伸びていた。

何かずしんと重みを
感じるような気がしたのは
給湯室を通り過ぎ、非常階段が
近づいてきた時だった。

いつの間にか、足取りが遅くなっていた。

100通りの論理的な理由が
たたみかけるように質問を浴びせた。

本当に大丈夫か?平気なのか?
外の方が大変かもしれない。

もしかしたら誰も君を
かばってくれないかもしれない。

いっそのこと、ここにいた方が
安全で気が楽かもしれない。

今からでも遅くない。

立ち止まれ。

限界を認めろ。

素直な子にならないと。

境界線は目の前だった。

無意識に振り返った。
警備員までもが友達の背後を
ぴったりくっ付いて追っていた。

Tシャツを握った手が震えた。

今にも捕まりそうな気がした。

もしかしたら
もう後戻りできないかもしれない。

「大丈夫だ。 パク·ジミン。 走れ!」

その声に押し流されるように
また前を向いた。

そして1歩、進んだ。

僕は境界線を越えた。

ドアまでの距離は
わずか1歩縮まっただけだった。

それなのに、たくさんのことが
変わった気がした。

切り立った絶壁と絶壁の間を
一気に飛び越えたように
胸の中で何かが激しく揺れた。

患者衣を脱ぎ捨て
Tシャツに着替えた。

同時にドアに向かって
もう1歩、進んだ。

次の1歩はそれよりもう少し速く
さらにその次はもっと速かった。

壁がかすめて通り過ぎ
ドアは大股で近づいてきた。

境界線からドアまで5歩。

他の人にとってはたったの5回
足を踏み出す動作に過ぎない距離。

しかし、僕にとっては
背中を押されなければ
踏み出すことさえできなかった
その距離を、初めて
自分の意思で越えてきた。

今、ドアは手を伸ばせば
届くほど近づいた。

あのドアを開けて出れば
今までとは違う風景が
待っているはずだ。

次に起こることは
今は考えないようにしよう。

今はただ、1歩踏み出すことだけを考えよう。

力いっぱいドアを押した。

外の空気が全身にぶつかった。

今まで幾度となく
想像していた熱い日差しも
激しい風もなかった。

それなのに、なぜか
涙が出そうだった。

高鳴る胸の鼓動が
四方に響き渡った。



……To be continued

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