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花樣年華 THE NOTES⑤




ジョングク
19年6月12日


海辺の駅に着いた時も
日差しはまだ熱かった。

影は足元をついて回り
日差しから身を隠しようがなかった。

波の音が聞こえたかと思うと
すぐに砂浜が広がった。

夏の始まりだった。

気の早い避暑客の
パラソルの花が
あちこちに咲いていた。

海はなぜか人を
胸がいっぱいになった
気分にさせる。

テヒョン兄さんと
ホソク兄さんが
叫び声を上げながら走っていき
2人が振り向いて手招きをすると
ジミン兄さんと
ソクジン兄さんが加わった。

「ジョングク」

僕を呼ぶ声に手を
振ってうれしそうに笑った。

いや、うれしそうなふりをして
笑って見せた。

感情を気兼ねなくさらけ出したり
見知らぬ環境にすぐに
馴染んだりするのは
相変わらず苦手だった。

そんな僕のことを誰かが
いつもいじけた子ども
みたいだと言っていた。

今でも変わらない。

兄さんたちにまだ馴染めていない
ところがあって近寄りがたく
ここも僕の居場所ではない所に
来ているようでぎこちなかった。

当てもなくやって来た
海でできることは多くなかった。

「駆けっこ勝負をしよう」

いきなり走り出した
ホソク兄さんにつられて

皆、少し走りはじめたが
すぐにあきらめた。

ひどく暑かった。

ナムジュン兄さんがどこからか
破れたパラソルを引っ張ってきた。

パラソルの陰に
7人で寝そべった。

あちこち破れた穴から
日差しが漏れた。

丸く降り注ぐ日差しが
少しずつ動き
僕たちはその光を避けて
もぞもぞと尻を動かした。

「この岩を見に行きませんか?」

ホソク兄さんが
携帯電話を持ち上げて見せた。

携帯電話の液晶画面には
海岸にそびえ立つ
大きな岩の写真が映っていた。

「この岩に上って
  海に向かって夢を叫んだら
  叶うっていう伝説があるそうです」

ジミン兄さんが
携帯電話を取り上げ
のぞき込んで言った。

「でも少し遠いんじゃありませんか?
  ここから3.5キロは行かないと
  いけないみたいですけど」

ユンギ兄さんが
横になったまま背を向けて答えた。

「俺は行かない。
  叶えたい夢もないし。
  あったとしても3.5キロを
  このかんかん照りに······。 やめとく」

その時、テヒョン兄さんが
がばっと起き上がった。

「俺は行く」

僕たちは破れたパラソルを
前に突き立てて歩いた。

砂浜は日差しにすっかり熱くなり
風ひとつ吹かなかった。

ズボズボ足が沈む熱い砂の上を
僕たちは敗残兵のように歩いた。

たまにホソク兄さんが
冗談を言ったが
反応はあまりなかった。

テヒョン兄さんがもう歩けないと
言ってしゃがみ込むと
ナムジュン兄さんが背中を押した。

皆の顔が真っ赤にほてり
あごの先から汗の粒がぽたぽた落ちた。

Tシャツの裾を振ってみたが
暑い風が起きるだけだった。

それでも僕たちは
ひたすら前に向かって歩いた。

少し前、兄さんたちに
夢について聞いたことがあった。

ソクジン兄さんは
いい人になりたいと言い
ユンギ兄さんは
夢なんかなくてもいいと言った。

ホソク兄さんは
幸せになりたいと言った。
ナムジュン兄さんは何て言ったか。
思い出せないが
特別なことではなかった。

つまり僕たちは誰も
これといった夢がなかった。

だとしたら

"夢が叶う"

という言葉につられて
かんかん照りの3.5キロの
海岸をなぜ歩いているのだろうか。

ナムジュン兄さんと
ホソク兄さん、ソクジン兄さんが
交替で持っていたパラソルは
途中でとうとう捨てた。

それなりに日差しを
遮ってはくれたが
鉄製の中棒が重く
体力の消耗が激しかっ た。

「それ、やるなよ」

ユンギ兄さんが
僕に向かってそう言ったのは

パラソルを捨てて
少し休んでいる時だった。

最初は何のことか
意味が分からなかった。

実は、ユンギ兄さんとは
ほとんど話したことがなく
僕に言ったとも思わなかった。

ユンギ兄さんが
自分の指を広げて見せた。

「こんなふうになる」

兄さんの指にも
爪を噛んでできた傷があった。

僕はもたもたしながら
ポケットに手を入れた。

何と言ったらいいのか分からず
何も答えられなかった。

「そうだ、 お前の夢は何だ?」

兄さんが聞いた。

「あの時、お前だけ
  言わなかったじゃないか」

本当に気になっている
顔ではなかった。

特に話すことがなくて
聞いているようだった。

「分かりません。
考えたことがありません」

「そうか。まあ、それもありだな」

兄さんが言った。

「あの、兄さん、夢は何ですか?」

僕はためらいがちに聞いた。

兄さんは例の
おっとりした口調で答えた。

「ないって言ったじゃないか」

「いいえ、兄さん。
  そうじゃなくて······」

僕はもじもじしながら話を続けた。

「夢って何だろうと思って。
  僕は皆が言う夢って何なのか
  よく分からないんです」

兄さんは僕を一度見ると
眉をひそめて空を見上げた。

「人生で叶えたい何か。
  まあ、そんなことじゃないか?」

前にいたホソク兄さんが
携帯電話を振って
見せながら話に加わった。

「辞書の定義によれば夢とは
  1、寝ている間に
  起きている時のように
  物事を見たり聞いたりする現象。
  2、実現したい希望または理想。
  3、実現する可能性が
  ほとんどないか全くない
  虚しい期待や考え」

「3つ目はおかしくないですか?
  叶う可能性がないのに夢だなんて。 」

誰かの言葉に
ホソク兄さんが答えた。

「夢から覚めろ!
  そう言うこともあるだろ。
  だから、もし岩まで行く前に
  家に帰ることを考えるなら
  夢から覚めろ!こんなふうにな」

兄さんの何人かは笑ったが
他は笑う元気もないのか
特に反応がなかった。

「不思議ですね。
  一生をかけて一番叶えたいことも
  絶対に叶う可能性のないことも全部
  夢って呼ぶなんて」

ユンギ兄さんがにっこり笑って言った。

「叶わないことを知っていながら
  あきらめきれないほど
  切実なのが夢だっていう意味だろう。
  でもさ、お前は夢なんか持つなよ」

僕は兄さんの方を振り向いた。

「どうしてですか?」

いつの間にか爪を
噛んでいた兄さんが
僕の視線を意識したのか
ポケットに手を入れ
大したことじゃないと
いうふうに言った。

「そんなのがあると面倒になる」

兄さんはどうして
爪を噛むのか気になったが
聞きはしなかった。

代わりに自分の指を見下ろした。

小さな傷を作るのは
子どもの頃からの習慣だった。

いつからだったかは分からない。

ただ覚えているのは
ある日、カッターナイフで
指を切った時のあの感覚だった。

めまいがするほどの
痛みが過ぎた後
真っ赤な血が噴き出した。

ひりひりしたり
びりびりしたりもした。

病院に行き
数針縫って、消毒し包帯を巻いた。

医者の前で母は少し
大げさに振る舞っていたが
家に帰ってくると
夕飯をくれるわけでも
薬を塗ってくれるわけでもなかった。

不満はなかった。

父が出ていった後
母はだいたいそうだった。

傷の治りは遅かった。

僕が爪で何度も
押してしまうからだった。

そのたびに、また痛みが走り
涙が出るほど痛い時もあった。

でも、そんな時はぼんやりしていた
気持ちが引き締まった。

今でも僕はよく
ぼんやりすることがある。

全てのことが無意味で
無気力に感じられたりもする。

「あとどれくらいですか?」

テヒョン兄さんが聞くと
ホソク兄さんが眉毛を
一文字にして困った表情を浮かべた。

「おかしいな。
  確かにこの辺りのはずだけど」

全員、立ち止まって
周囲を見回した。

青い空の下
砕け散る波の音だけが
静寂を埋めていた。

つま先に蹴られる数千
数万個の砂利が、とても
小さな砂粒のように散らばっていた。

写真で見た
巨大な岩はどこにもなかった。

「もう少しだけ行ってみましょうか?」

「もう1歩も歩けない」

「腹減ったしのども渇きました」

ジミン兄さんが
短い嘆息をこぼしたのは
そんな会話が行き交っていた時だった。

隣でジミン兄さんの
携帯電話をのぞいていた
テヒョン兄さんが虚しい顔になり
石ころを足で蹴飛ばした。

ジミン兄さんが記事を読み上げた。

「この海岸にもうすぐ
  高級リゾートができる予定であり
  建設業者側はリゾートの
  1、2階の客にとって展望の
  邪魔になるという理由から
  その岩を爆破した」

僕たちはいっせいに辺りを見渡した。

遠くの海岸の先に
開発エリアであることを
知らせる黄色いテープが
張り巡らされており
その後ろの巨大な
掘削機も目に入った。

ようやく"防波堤建設予定"
という表示板も見えた。

「ここで間違いないみたいだな」

ホソク兄さんがスニーカーの
先で砂利をトントン突きながら言った。

足元に散らばっている
無数の砂利は
もしかしたら爆破された
岩の破片かもしれなかった。

「いいさ。本当に夢を
  叶えてくれる岩なんか
  あるわけないだろ」

ナムジュン兄さんが
ホソク兄さんの肩を叩きながら言った。

「どうせ夢もないし」

「あるとしても叶う可能性もない」

「僕たちに夢なんか」

皆、ひと言ずつ言い添えたが
どうしようもなく体から力が抜けた。

何か大きな期待を
していたわけではなかった。

しかし、こんなことを
予想していたわけでもなかった。

「夢なんか持つな。 面倒になる」

そう言っていた
ユンギ兄さんも同じだった。

ぼんやり海を見ていた兄さんが
また爪を噛み出した。

自分が何をしているのかも
分かっていないような顔だった。

「兄さん」

僕の声に兄さんが振り向いた。

「それ、 やめ······」

僕の声は、耳をつんざくような
ドリルの音にかき消された。

僕たちは同時に振り向いた。

工事がまた始まるようだった。

巨大な岩石を削り落とすような
音に周りの空気が激しく揺れた。

ユンギ兄さんが
顔をしかめて僕の肩を叩いた。

「何て言ったんだ?」

兄さんが口をやや大きく開けた。

「それ、しないでくださいって」

僕は両手で丸い形を作り
口に当てて叫んだ。

聞こえなかったらしく
兄さんはまた顔を
しかめながら首を横に振った。

もう一度言おうとしたが
兄さんはもう爪を噛んでいなかった。

兄さんの肩越しに海が見えた。

足元には数え切れないほどの
砂利が敷かれていた。

かつては全ての人の夢を
叶えられるほど大きくて
強く古い岩だったのに........

今はただの砕けた
石ころに過ぎなかった。

「兄さんも世の中が重いですか?」

僕は聞いた。

地軸を揺らすようなドリルの
音の中で僕の声が
聞こえるはずもなかった。

兄さんはやはり
聞こえないという表情を浮かべた。

僕はもう一度、叫んだ。

「兄さんも世の中を
  あきらめたいですか?」

今度は兄さんが何か答えたが
僕の方が聞こえなかった。

僕が首を横に振ると
兄さんはまた何か叫んだ。

その様子を見ていた
ホソク兄さんと
テヒョン兄さんが笑い出した。

何の声も聞こえなかったが
大きく開いた口の形だけでも
笑いは伝わった。

いつの間にか僕たちは
海に向かって叫んでいた。

ホソク兄さんは
耳をふさいだまま
口を大きく開いた。

ドリルの音と競うように
声を張り上げているようだったが
僕の耳には聞こえなかった。

テヒョン兄さんとジミン兄さん
ナムジュン兄さんも同じだった。

それぞれが自分の場所で
どこにも届くことのない
言葉を叫んだ。

僕はユンギ兄さんと
ソクジン兄さんの
後ろにいたが、前に出た。

波が打ち寄せる所まで歩いていくと
全身の感覚がさらに鮮明に
研ぎ澄まされるようだった。

入り乱れる兄さんたちの声
少し生臭いながらも
爽やかな海の香り
そして指先に伝わる風まで。

それぞれの感覚が
1つに絡み始めた。

僕も無意識に海に向かって叫んだ。

ドリルの轟音の中で
僕の夢は僕の耳にさえ聞こえなかった。

すると、ぴたりと
ドリルの音が止まった。

まるで刀で斬り落としたかのように
周囲は静かになった。

一瞬だった。

しかし、僕たちの叫び声は
一糸乱れず揃っている
とは言えなかった。

テヒョ ン兄さんが驚き
慌てて口を閉じたが、

むせたようにゲホゲホ咳込み
誰かの声は急に高くなったりもした。

最後に聞こえたのは、

「······してください」

というソクジン兄さんの言葉だった。

そして全員が口をつぐんだ。

少しの間だったが誰一人
動かなかった。

すると突然
一斉に笑い出した。

僕たちはお互いを指さし合い
からかうように腹を抱えて笑った。

「ここで写真撮ろう」

ソクジン兄さんの言葉に
僕たちは海を背にして並んで立った。

兄さんが
タイマーをかけて走ってきた。

カシャという音とともに
蒸し暑い初夏のある1日が
写真の中に鮮明に刻まれた。

帰り道は
来た時より短く感じられた。

半分ほど来たかと思ったら
もう僕たちが捨てたパラソルが現れ
間もなく駅が見えた。

「兄さん、写真
  もらってもいいですか?」

ソクジン兄さんが
カバンからポラロイド写真を取り出し

"6月12日"

と書きながら言った。

「お前がさっき叫んだ夢
  きっと叶うよ」

兄さんを見上げた。

「僕が何て言ったか
  聞こえたんですか?」

兄さんは何も答えずに
僕の肩をポンと叩くと

先に歩いていった。




ソクジン
19年6月25日



倉庫の教室には誰もいなかった。

約束をして
会うわけではなかったが

ドアを開ければ
たいてい誰かがいたし
いつもにぎやかだった。

誰もいない日は珍しかった。

中に入ると、植木鉢が1っ
窓際に置かれているのが目に入った。

植木鉢を
持ってきそうなのは誰だろう。

電気が通っていなくて
いつも薄暗い教室
汚れたガラス窓に差し込む
ぼんやりした光の中で
緑の葉はなおさら強烈に見えた。

携帯電話を取り出して
写真を撮った。

写真は思いどおりに
撮れていなかった。

いつも感じることだが
写真は人の目が捉えたものを
うまく焼き付けられない。

近づくと、植木鉢の下に

"ㅎ"

の字が見えた。

植木鉢を持ち上げた。

"호석(ホソク)の植木鉢"
という文字が現れた。

にっこり笑みがこぼれた。

誰かが植木鉢を
持ってきたとしたら
やはりホソクしかいなかった。

"ㅎ"の字まで全て隠れるように
植木鉢を置いた後、周りを見回した。

今まで一度も気づかなかったが
窓枠はびっしり落書きで覆われていた。

窓枠だけでなく、壁と天井まで
落書きで埋め尽くされていた。

"合格しなければ死ぬ"

初恋の相手の名前、日付。
そして今では
はっきり読めなくなった
数々の名前。

この教室も最初から
倉庫ではなかったはずだ。

生徒たちが毎日登校し
授業が行われ、午後になれば
また空っぽになっただろう。

休みの間はずっと
空室になっていて
新学期が始まる日には
生徒たちが集まって
にぎやかだったろう。

その頃にも遅刻して罰を受けたり
こんなふうに授業を
サボったりする僕たちのような
生徒がいただろう。

無慈悲に暴力を振るう
先生や終わりのない試験と
宿題もあっただろうか。

そして僕のような
生徒もいただろうか。

僕のように校長に
友達のことを話す生徒。

ふと父の名前もあるか、気になった。

この学校は父の母校でもあった。

父は代を継いで
同じ高校同じ大学に通うことで
家門の伝統に品位が増すと信じていた。

僕は目で1つ1つ
名前をなぞっていった。

そして左側の壁の
真ん中辺りに書かれた
数人の名前の中に
父の名前を見つけた。

その下には
こんな言葉が書かれていた。

"全てはここから始まった"



……To be continued


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