見出し画像

花樣年華THE NOTES②



ソクジン
9年10月10日



「行こう、 逃げなくちゃ」
僕は友達の手をつかみ
教室の後ろの戸に向かった。

廊下をつたって駆け出したが振り返ると
大人たちが後ろの戸から出てくるところだった。

「待て、捕まえたら、ただじゃおかない!」

大人たちの声が
首筋につかみかかるように
追いかけてきた。

階段を駆け下りながら
どこに行こうか考えた。

真っ先に思い浮かんだ所が
学校の裏山だった。

運動場を横切って
校門さえ抜け出せば
そのまま山に登れた。

高くはない山だが
石が多くかなり険しかった。

散策路まで行かず
校門を抜けて角を曲がると
すぐに草むらに飛び込んだ。

木の枝をかき分けて走った。
どれくらい走っただろうか。
追ってくる足音はもう聞こえなかった。

ようやく立ち止まった。

木の葉が積もった地面に
そのまましゃがみ込むと
あごの先から汗がぽたぽたこぼれ落ちた。

「ここまでは追いかけてこられないよね」

友達が息を切らしながら
こくりとうなずいた。

Tシャツの裾をたくし上げて汗をぬぐった。

友達の顔は汗と涙にまみれていた。
手首の青黒いあざが目に入った。
Tシャツの首回りも破れていた。

「パパが一週間、家に帰ってこない。
ママはずっと泣いてる。
お手伝いさんと
運転手のおじさんももう来ない。
叔母さんが言ってたんだけど
パパが会社をたたむことになったって。
さっきのあの人たち、昨日の夜
うちに来た人たちだと思う。
ずっとインターフォンを押しながら
パパを呼んでた。
ママと叔母さんが家の中の明かりを
全部消してたのに
ドアの外で悪口を言ったんだ。
朝まで全然眠れなかったよ」

友達が涙ぐんで言った。

僕はどんな言葉を
かけたらいいのか分からず
ただ泣くなとしか言えなかった。

教室の前の戸が開き
その人たちが押しかけてきたのは
授業が始まって間もなくだった。

4、5人ほどの大人が
はばかる様子もなく
教室の中に入ってきた。

「チェ社長の息子はどいつだ、どこにいる?」

先生が目を丸くして驚き
出ていくように言ったが
聞く耳を持たなかった。

「ここは2年3組だろ?
ここにいるのは分かってる。
早く出てこい」

クラスメートの何人かが僕の隣の席の
友達をちらちら見ながらひそひそ話し
すぐに気づいた大人たちが
僕たちに近づいてきた。

「今、授業中なのが
分からないんですか?
早く出ていってください」

先生が立ちはだかったが
男に黒板の方に押しやられ
そのまま床に倒れた。

先生を押しやった男は
ずかずかと歩いて僕たちに近づいてきた。

クラスの全員が僕たちの方を振り向いた。

男が友達の腕をがばっとつかんだ。

「お前だけでも連れてって
父親に金を払ってもらう。
まさか自分の息子を見たら
しらばくれたりはしないだろ」

大人たちは鼻息が荒く
教室の空気はそれ以上ないほど
険悪になっていた。

僕は友達の顔を見た。

震えていた。

がっくりうなだれたまま
ぶるぶる震えているだけだった。

その子は僕の友達だった。

僕は机の下に手を差し出し
友達の手を握った。

友達が振り向き
僕は友達の手を引き寄せて言った。

「逃げよう」

空が少しずつ暗くなった。
もう僕たちを追ってくる人は
いないようだった。

茂みをかき分けながら
散策路の方に出た。

いくつか運動器具が
置かれた空き地が現れた。

僕は鉄棒に寄りかかり
友達は片側のベンチに腰掛けた。

「僕のせいでソクジンまで
怒られたらどうしよう」

心配する友達に僕は大丈夫だと言った。

さっきは友達を教室から
連れ出さなければという思いだけだった。

あの大人たちから
引き離すことしか考えられなかった。

しかし、いざ逃げてみると
行き場がなかった。

「とりあえず、僕の家に行こう」

日が暮れて2時間くらい過ぎたから
21時にはなっていたと思う。

腹が減ってきた。

友達もかなり腹が減っているだろう。

「ソクジンのパパとママがいるから
僕を連れてったら怒られるんじゃないか?」

「こっそり入ればいいよ。
見つかって怒られたらそれまでだ」

山道を抜けた後、家までは
それほど遠くなかった。

少し離れた所に家が見えると

僕は言った。

「門が開いたら
ぴったりくっついて
僕の後から入ってきて
あの木の後ろに隠れてて。
後で窓を開けるから」

母はリビングのソファーに座っていた。

「どこ行ってたの?
学校から電話があったわよ」

僕は答える代わりに

「ごめんなさい」

と、ひと言だけ言った。

ほとんどの場合
そうするのが一番楽だった。

母は

「もうすぐパパ帰ってくるわ」

と言って部屋に入った。

僕の部屋は、リビングを挟んで
奥の部屋の反対側にあった。
急いで部屋に入り、窓を開けた。

門の開く音がしたのは
パンと牛乳で空腹を満たし
ゲームをしている時だった。

友達が驚いた目で僕を見た。

「大丈夫、パパは僕の部屋に入ってこない」

そう言い終わりもしないうちに
部屋のドアが開いた。

僕も友達も驚いて立ち上がった。

「君がチェ社長の息子か?」

父は答えも聞かずに話を続けた。

「来い。 君を連れてく人が来た」

ドアの外に男が1人、立っていた。
初めは友達の父親だと思った。

だが、そうではなかった。
教室に押しかけてきた
大人のうちの1人だった。

僕は父を見上げた。
父は疲れた顔をしていた。

深くしわを寄せた眉間と
小刻みに震える片方のまぶた。

父がそんな顔をしている時は
近づかない方がいい。

父の顔色をうかがっていると
男が部屋に入ってきて友達の肩をつかんだ。

僕は友達の前に立ちはだかった。

「ダメだよ、 パパ。
連れてかないで。
あの人は悪い人だから」

父は僕を見下ろすだけで
動かなかった。

「パパが助けて。 お願い。 僕の友達なんだ」

男が友達を連れ出そうとした。

僕は友達の腕をつかんだが
父がそんな僕の肩をつかんだ。

強くつかんで引っ張った。

そのせいで僕は
友達の腕を放してしまった。

いつの間にか、友達は
ドアの外に連れ出されていた。

僕は父から
離れようとしてもがいたが
父は僕の肩をつかんだ手に
さらに力を入れた。

「痛い」

悲鳴を上げたが
父は放してくれなかった。

むしろ、 肩をつかんだ手に
加えられる力がどんとん強くなった。

涙がぽろぽろこぼれ落ちた。

父を見上げた。

父はまるで巨大な
灰色の壁のようだった。

表情のない顔には
ついさっきまでの
疲労の色さえ消えてなくなっていた。

父は僕を見下ろして
ゆっくり口を開いた。

「ソクジン、いい子にならなきゃな」

父の顔には相変わらず表情がなかった。

僕を見ているまなざしにも
やはり何の感情もこもっていなかった。

でも分かる気がした。

この苦しみから逃げ出すには
どうしたらいいのかを。

「ソクジン」

僕は友達が呼ぶ声に顔を向けた。
男から逃げてきた友達が
僕の部屋の方に走ってきた。

顔は涙にまみれていた。

まだ僕の肩をつかんでいる
父のもう片方の手がドアを閉めた。

パタン

音を立ててドアが閉まった。

僕は謝った。

「ごめんなさい、パパ。
もう、こんなことしないから」

次の日、 僕の隣の席は空いていた。
先生は、 友達が転校したと言った。



……To be continued


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?