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自死した父に言った最後の言葉は、まっすぐな「ありがとう」ではなかったけれど

12年前の今日、2011年12月26日。


父が死んだ。自死だった。一般的には自殺と表現することが多い。


世界中から惜しまれ、スティーブ・ジョブズが亡くなった年も2011年。


父の死を惜しむ人はおそらく片手の指で足りるであろう。そのコントラストを鮮明に覚えている。



私には、兄が2人いる。


12年前の12月27日、2番目の兄から電話があった。普段電話などかかってこないので、身内の誰かに何かがあったのかなと不安な気持ちになったことを覚えている。その不安な気持ちを上回る出来事が起きていたのだけど。


私「もしもし。どうしたん」

兄「あー・・・・・あさみ・・・・・おとんがなぁ・・・・・・・死んだわ。」

私「え・・・・・・・・・・・・・・・びょ、病気やったの?」

兄「んーーー・・・・・・・・・。はぁ・・・・・・・・自分で逝きはった。」

私「・・・・・・」


兄の声が、自分の心臓の音で聞こえなくなっていた。


「◯◯しはった」は、大阪では(私の周囲では)敬語のようにも使う。逝きはった、と言った兄は、どうにかして父の死を尊重しようとしていたのだろう。後に私も読むことになる遺書には、周囲に迷惑をかけないように自死を選んだことがわかる内容だった。


遺書は2通あり、1通には、子どもである私達きょうだい3人に宛てた内容だった。死を心に決めた時に書いたのだろうか。しっかりとした字だった。遺体の横に置かれていたらしい。


もう1通は、おそらく死んだ当日に書かれた手紙。いちばん上の兄宅に速達で送られてきたもので「29日までに月額を振り込めば、200万円の保険金が出る。それを弟(父の弟)に返済してほしい」という内容だった。


1つ目の遺書と違い、弱々しい字だった。死への恐怖か、もしかしたら睡眠薬か何か、薬を服用していたのかもしれない。それぐらい、明らかにいつもと違う字がそこにあった。


200万円。


そんな微々たる額のために、わたしの父は死んだのだ。そう思うたびに、とても虚しくなる。


数々のところに借金があったらしい父は、子どもには言わなかった。少なくとも私にはお金を貸してと言うことは生涯なかった。貸してくれと言われたら、私は貸してたんだろうか?


もし依頼されても貸さなかった後、自死を選ばれたら自分を責め続けたんだろうか。


遺書の日付は12月26日。クリスマスを避けたのは、当時孫が5人いた彼なりの優しさだったのかもしれない。


父はクリスマスをどんな気持ちで過ごしたのだろう。


きっと誰からも「メリークリスマス!」と笑顔で言われることはなく、最期をむかえたのだろう。




クリスマスの2週間前、父から贈り物が届いた。私の旧姓の家紋(父の苗字)が額に入ったもので、明らかに新品ではなく、昔作ったものだった。


その年の7月に産まれた私の長男、父にとっては5人目の孫へのお祝いだと言う。それを見た私は「なにこれ・・・これがお祝い!?うちの子この苗字でもないしおかしいやろ」と不満を持ち、お礼の電話もしなかった。


数日後に父から、荷物が届いたかという確認の電話があった。


私は「これがわたしの初めての子への出産祝いなの?もっとちゃんとしたお祝いがいいんだけど。」と言いたいのを抑え、


「届いたよ。◯◯か◻︎◻︎(私のふたりの兄)に渡したほうがいいんじゃないかなとは思ったけど」という、少し柔らかい表現で伝えた。


すると父は少しバツが悪そうに「あぁ、うん。まぁええやん」と言う。「なにがええねん」と腹が立ちつつ、「子育てがんばって」と言う父に


うん。ありがとう…」と、気持ちとは裏腹な言葉を絞り出し、電話を切った。


この絞り出したありがとうが、父へ伝えた最後の言葉となる。





父の自死について、インターネットに書くことはないだろうとずっと思っていた。だけど最近、無性にこのことを思い出す。


LGBTQのアイコンのような有名な方が自ら死を選んだ日あたりからだろうか。


あの人の存在によって、どこかの誰かは生きやすくなったと思う。残した功績は数しれないだろう。


私の父は、何も残さずに逝った。


それでも私は毎年クリスマス前には父を思い出し、26日にはちょっとだけ泣く。


そして毎年、「最後の言葉がありがとうでよかった」と思うのだ。


心からのありがとうではなかったけれど。



私はあの日から、人に対して「この人と会うのが最期であってもいいように」と、とても意識するようになった。好きな人には好きを伝え、苦手な人にも温かくありたい。


ある意味では呪縛。


でも、嫌いではない呪縛。


父は生きているときも、最期のときも自分勝手だった。


もちろん自死を賛美することは決してないけど、最期の選択くらいは尊重してあげようと考えていた12年だった。


お祝いが送られてきた当時、父はもうお金が全然なくて、お祝いどころじゃなかったのだろう。それでも何か出産祝いをしたいと思ってくれたのだろう。


昔はお金がたくさんあって、大丸に行けば支店長が挨拶に出てくるような買い物をしていた父。高級なものを常に身に着けていた父。


お古の出産祝いを自分で梱包しながら何を思っていたのだろう。


自分から私に電話してきたとき、何を考えていたんだろう。その時はもう、死ぬことを決めていたのだろうか。


できれば心からの言葉を伝えたかった。


おとうさん、ありがとう

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