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『海の底から見上げると』

【短編小説】

 宅急便は、平べったくて大きな封筒だった。

 ずいぶんと大きな封筒だな、と思った。A3?よりもずっと大きい。普通の書類を入れる縦長の封筒がイワシなら、この封筒はサメだ。獰猛な牙のあるやつじゃなくて、大きな口をポカーンと開けてプランクトンを飲み込むやつ。眠そうな目のサメ。ジンベエザメだ。

 眠そうな目をしたジンベエザメが、天井の辺りをゆっくりと泳いでいる。私は宅急便で届いたその巨大な封筒を抱えて、ベッドに寝転がったまま、あの子のことを思い出していた。

 あの子が住んでいたアパートは駅の近くにあって、昼間はずっと電車の走る音が聞こえた。私はアルバイト先で知り合ったあの子の話を聞くのが面白くて、バイトの帰りに最寄りの駅前で飲んだ流れであの子の家まで遊びに行って、話して、泊まって、翌朝眠ったあの子を放ったまま、自分の家に帰った。

 あの子の部屋はいつも油絵具のにおいがしていて、ときどき描きかけの絵が置いてあって、使い方のわからない不思議なものが部屋のどこかに転がっていた。たまに私の知らないあの子の同級生が寝ていたり、終電を逃した得体の知れない楽器を持ったあの子の知り合いたちが転がり込んだりしてきたけど、その数年間、基本的にあの子のそばにいたのは、いつも私だった。

「人間てね、生まれたときから二つに分かれるの、不安に勝てる人と、勝てない人」

 お酒を飲んで、ふわふわした話をしながら泣いてる私に、あの子は言った。将来とか、明日とか、あと一歩を踏み出せなかったときのこと。大事なものを人にとられて、返してもらえなかったときのこと。

「勝てない人は、不安から目をそらすけど、逃げられない。最後には不安に飲み込まれる」
「勝てる人は?」
「不安の存在に気づけないから、どこかで足をとられて死ぬ」
「どっちにしろ、死ぬんでしょ」
「だから」

 あの子は、私の口をふさいで言った。

「一緒にいなきゃいけない。私みたいに不安を知らない人は、あんたみたいに不安だらけの人と一緒にいると、道を踏み外さないで歩いていける」

 目が合うと、あの子は照れたのか、私の頭をくしゃくしゃにした。私は酔っ払っていたから、なんかいい話を聞いたな、くらいの気持ちで、このでっかい封筒が来るまで、話の内容も忘れていたくらいだった。

 二年くらい続いた付き合いの中で、一度だけ、喧嘩をしたことがある。理由は忘れたけど、私がなにかひどいことをあの子に言ったのだ。たぶん才能があるとかないとか、そういうことで愚痴を言うあの子が嫌だったんだと思う。私にとってあの子は最高だったし、最高だったあの子が誰か他の人に嫉妬する姿なんて、見たくなかった。

 あの子はお酒の入ったコップをつかんで私をにらんだ。私はコップの中のお酒をかけられると思って目をつぶる。でも、私の顔は一向に濡れたりしない。目を開けると、あの子はぺしゃぺしゃと頭からお酒をかぶっていた。

「なにしてんの」
「頭、冷やしてる」
「私にかけるんじゃないの」
「かけたって、すっきりしないから」

 あの子はカッサカサの金髪で、会うたびに緑や赤が増えたり減ったり、たまにミルクティーみたいな色になったりしていた。あの子のアパートで飲む時はいつもあの子が窓側で、夜になると曲がり角を通る車のヘッドライトが窓から入ってきて、あの子のナイロンみたいな髪の毛をキラキラと光らせた。その日はお酒で濡れた髪がガラスみたいに光ってて、私は笑いがずっと止まらなかった。

 二人で笑って、笑って、泣きながら笑って、布団に潜り込んでサメの話をした。

「ジンベエザメって、世界最大のサメなのに、プランクトンを食べてるんだって。海面を漂う小さなエビとか、海藻のかけらとか、口をこうやってポカーンって開けて、海の中をユラーって漂ってる」
 あの子は昔、家族で沖縄に行ったとき、そのサメを見たと言った。
「ジンベエザメみたいになりたい、ちっちゃな魚が周りで泳いでて、なーんにも気にしないの。私、ジンベエザメみたいになりたいんだ」
 なれるよ、と言ったのか、なれよ、と言ったのか、覚えてない。その日はぐっすりと眠った。出会って二年ほどで、あの子はちょっとだけ有名になって、忙しくなって私とあまり会えなくなった。私もだんだん自分の生活に慣れていって、それからも連絡は取っていたけど、どちらかと言えば街に飾ってあるポスターで、あの子の描いた絵を見ることの方が多かった。

 ちょっとした誇らしさと、少しの嫉妬が浮かぶけど、それも微笑みで収まる程度。いつかまたなんとなく会ってばかな話をできたらいいな、とたまに思い出す程度。だからその月の終わりまで、あの子の母親から電話をもらうまで、あの子がその月の初めに、もう帰れないところに行ってしまったってことも、私は知らなかった。

 すっかり暗くなった部屋を、街灯が青く染めていた。私は封筒を開いて、中のものを出す。それは、海面のすぐ下を泳ぐ、とても大きなサメの絵だった。

 小豆色の肌に、海面を通して差し込む光が模様を描いている。あの子が描いていた絵、そのポスターが、額装してある。同封された手紙には、あの子の母親からの感謝の言葉と、あの子の最後の言葉が書いてあった。それはとてもありきたりで、特別なことは何もなくて、二人だけの思い出なんて何にも関係なくて、そこら辺の本屋で売ってる別れの言葉集にでも載っていそうな感じで、私はその手紙を本棚の隙間に挟んで、たぶんもう二度と開かない。

 海面のあたりを、あの子がゆっくりと泳いでいる。

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