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明日から通し稽古なのである

【舞台の作り方】

 2021年の4月はたっぷりと蛇ノ目企画の舞台『さくらば』二本立てにかかりっきりだった。昼の12時から夜の21時まできっかり9時間、ぶっ通しで2本の作品を演出していく。

 まず、自分の脚本ではない作品ということで懸念はあった。読解力の鬼を自負するぼくも、全ての作品を完璧に読み解けるというほど自惚れてはいない。特に蛇ノ目規格に求められているのはエンタメ、作品の魅力と役者の魅力を両立させることだ。だから、普段はあまりしないことではあるが、今回はクレジットに「脚色」の肩書きを入れさせてもらった。結果的にはより作品の魅力を届けられる形に「脚色」できたのではないかと思っている。

 喜ばしいことに、稽古場ではぼくの脚色を受け入れてもらい、腕のある役者たちとたっぷり時間をかけて作品作りに取り組むことになった……といっても長時間じっくりと繰り返し、いうわけにはいかない。途中で換気を挟み、なんなら殺陣の時間にはドアを開け放ってあまり大きな声を出さない、なんてことも行われた。

 作品作りにおいては、段取りで済ませられるところは先に済ませておくに越したことはない。特に今回はさまざまな場面を限られた空間で表現する必要がある。場面転換の時になる音、場面を表す音、役者の動き、出入りする場所と、裏を歩き通り抜ける時の順番、それらを全体像を想定しながら決めていく。

 繰り返しているうちに、役者に台詞が入っていく、すると台詞に気持ちが乗り始め、やがて芝居の稽古になっていく。芝居の稽古とは、簡単に言えば「いつ」「どこで」「だれが」「なにをした」というだけの話を、観客が見て面白くするための研鑽のための時間だ。脚本が面白いのは前提として、それを読んだ観客が想像できるレベルのことをするのであれば、稽古も本番も演出も必要ない。

 大きなビジョンをもって、役者の演じるべき方向性を導き、台詞と台詞のやり取りによって役者の内から生まれる感情を汲み取り、それを動きや反応にフィードバックしていく。これらの作業が、芝居の稽古における演出の役割だ。

 演出家のビジョンが浅ければ役者は動けない。演出家が利己的になりすぎれば役者を活かせない。読み取った機微を的確にフィードバックしなければビジョンは形にならない。いくつものハードルを越えて、作品は形作られていく。

 卑近な例でいうと、ガンプラを組み立てているときの興奮に似た気持ちだ。腕、脚、胴体、首、武器、それらを別々に作り、いよいよ全身を組み立てる。するとそれまでプラスチックの塊だったものたちが、一つの作品を背負った「作品」になる。通し稽古はそれを目撃する事件のような時間だ。

 あと1週間半、とにかく何事もなければ舞台で、配信で、皆様へ完成した姿をお見せすることができる。どうか目撃してもらえますように、今はもうどこにもいない、あの日々を生きた人々の姿を。

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