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愛について語ろう

愛してますか?
私は愛してない
そろそろ愛について語りましょう。

私はエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本が好きです。愛にはいくつかの種類があり、親子愛とか師弟愛とか男女間の愛とか、それぞれの愛の形が掘り下げて書かれていて、最終的に「愛とは技術である。愛は自然に湧いてくるものなどではなく相応の愛する技術を身につける必要がある」と。え、マジか。愛って自然に溢れてきてしまうものじゃないのか。

愛って何?

過保護・過干渉の問題も同じなのだと思いますが、もしあなたが「私は息子を愛している。これは無条件の愛だ」と主張しても、「私は彼を愛している。彼を誰よりも愛しているのは私よ」と言ったとしても、たとえ「海よりもまだ深く、空よりもまだ高くあの人を愛してる」と熱唱しても、そんなのはただの一方的で身勝手な思いなので、それだけならストーカーの皆さんと大して変わらないのである。そんなことは誰にでも言える。たとえあなたが、愛するもののためにその命投げ出せるくらい愛しているのだとしても、その思いは相手にとって苦痛にしかならないことなどよくある。本当の愛というものは、一方的な押し付けなどではなく、相手の健康と成長を願い、そっと見守ることなのに、そこをわかっていない人結構多い。

思い続ければきっと叶うとか、いつかきっと私の思いに気づいてくれるとか、そういうの、ないですから。就職もオーディションも恋愛も結婚もマッチングアプリもすべてがご縁。ニーズとニーズが合うかどうかに尽きる、なのである。画像1

尊敬について

 人は自分が尊敬されているか尊敬されていないかについてはとても敏感ですが、自分が相手を尊敬しているかしていないかには鈍感です。だから意識して、この人を尊敬できるのか、できないのか、できないのだとしたら一緒にいるべきではないのではないかって常に思いを巡らせます。一緒にいるべきではないは言い過ぎか、距離を置こうぐらいか。
 よくある「尊敬しあえる関係」がどういうことなのか、それは目指せば手に入れられる関係なのかどうか、よくわからないけれど、相手が自分をそれなりに尊敬というか尊重してくれているかどうかはよくわかりますし、尊重されれば、相手のその行為に対して尊敬の念が沸いてくることが多いです。相手を尊重せずに一方的に過保護な愛とか世話焼きをしても、世話焼きされている側からすれば、ちっとも尊重されている感じはしないから、そこで関係性は断絶してしまう。尊重は愛と同じ

世話を焼かれている、それをよしとしてしまうと、自分も相手のことは尊敬できずに思考停止に陥りますよね。それはある意味、とても楽で良いのですけれども、それは愛とか尊敬とはまったく別モノだなと思うわけですよ。

尊敬って仕事に対してなの?

 ある人が私に言いました「今している仕事やこれまでしてきた仕事に対する尊敬なのかな」。例えば職場で、尊敬できる上司とか、同僚でもこの人尊敬できるって思う人何人かいます。それは私の場合「こういう風になりたい」とか「私にはこれはできない。すごいな」って思う場合。それって、部長やってるからとか、すごい技術者だからとかではなく、その人の他人への接し方だったり、仕事への対峙の仕方だったり、人間性を見ている場合が多い。
 つまり、相手の方がどういう仕事をしているから尊敬する/しないという感覚はあまりわかないです。医療従事者はすごいと思うし、ゴミ収集している方も大変だろうなと思うけれど、私がもしその仕事についていたとしたら、同じように真摯にやるだろうし、それはやはり尊敬というのとは違う。
例えば自分にできない水商売(キャバ嬢)でそれなりの成果を上げている人はスゴイなーと尊敬みたいな気持ちはあるし、子育てだって尊敬に値するとは思いますよね。だからといって、それになりたいわけじゃない。自分にはできない。だからやらない。ただ、なんかそれと「尊敬しあえる関係」って違う気がします。尊敬や尊重がなければどんな関係でも破綻すると思うので。

愛の力って、例えば許すこと

 誰も愛されたいのに、愛されていないと思い込んでいる人が多くて、そういう思いに触れると何故か疲れちゃう。私は自分を愛するのに精いっぱいで他人を愛そうと努力している暇などないのだ。私に「ママの愛」を求めないで欲しい。ママの愛はママからもらうか、自分で自分に与えるしかできないのだから。他の人から奪おうとなど決してしないがよろしい。
 許すことや与えることが愛することだとすると、そこも勘違いして相手が何をしても、例えばあなたの尊厳を奪ったり、あなたの身体や心を傷つけるようなことをしても許すのが愛だと言い張って、ダメな男と一緒に居続ける人もいる。私もたぶん昔はそれに近かった。でも許すってそういうことじゃない。

 「数学する身体」の森田真生先生の言葉で「猥雑なメッシュに編み込まれた私たちは決して「純粋」ではない。自分だけが「清潔」で「正しく」あれる安全圏はどこを探してもない。だからこそ、まずは他をよく聴(ゆる)すということ。たがいに弱く、不完全なものとして、聴し合い、ためらい、そして深く迷いながら言葉と行為を紡いでいくのだ。」というのがありまして、私はそれを座右の銘としてるのですが、ゆるす(聴す)というのは、自分以外の存在がそこにあることを許し、つまり尊重し、その存在のことをよく聴くということなのだと。相手の話を心からよく聴くって結構難しいことだよ。嘘だと思うなら気にしてやってみて。しばらくするとそれが愛する技術なんだってわかってくるから。で、私はここに居ることをちゃんと聴されている。

LOVE

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