「日常」について
こんばんは。
「日常」
・22ndシングル「帰り道は遠回りしたくなる」のアンダー曲
・センターは北野日奈子
・作曲はAkira Sunsetさん、野口大志さん
「日常」が北野日奈子の代名詞となり、アンダーの代名詞のような存在になり、ライブの盛り上げどころとしての定位置を確保して久しいです。ざっと調べた感じでも、もう10人以上がこの曲のセンターを経験しているみたいですね。
■青い炎
「日常」のサイリウムは青で、という話があります。
北野日奈子さんの言葉を一部引用しますが(ぜひのぎ動画をご覧ください)。
他にもモバメ等で発言されていたかもしれませんが、とりあえず上記から導かれる事実としては以下の内容だけです。
・久保史緒里と中田花奈と渡辺みり愛は青色の熱さで踊る
・(卒業生や選抜メンバーなど)今は一緒にパフォーマンスすることができない、青色の熱さで踊る人たちの存在感をサイリウムによって表現したい
とのことですが、実は未だに真意を掴みきれていません。
北野さん自身が赤色の熱さで踊るというのは明らかだと思います。単純に区別するなら、赤色は情熱的・フィジカル重視のダンスで、見るからに熱い。青色はしなやか・テクニック重視のダンスで、見えない熱さがある。そこは分かるとして、青色の熱さで踊る人たちの色を見せたいということは、逆に今いる(撮影時のアンダー)メンバーには青色の熱さで踊る人が少ないということなのか? じゃあ、今いない赤色の熱さで踊る人たちのことは放っておいていいのか? 例えば久保史緒里さんがセンターでやるときは、センターが青いからサイリウムは青でなくてもいい? いや、でも久保史緒里さんの「日常」を観て、青に決めたって言ってるしな…
乃木坂46というグループのキャラクター的にも、ほとんどのメンバーが青色の熱さで踊っているような気がするので、客席まで青くしてしまっては、逆に赤く踊る人たちの存在感がゼロになってしまうのではないか? 究極的なことを言えば、赤色の熱さで踊れる人って北野日奈子さんだけなのではないか? と思ったりもします。あの身体能力と、ストレートに感情を表現する力は他にはない強みですね。
最も情熱をもって赤く踊る北野日奈子さんがいなくなった今、サイリウムの色は青くするべきなのか、しなくてもいいのか? という謎が自分の中には残ったままです。
■その顔は何を表現しているのか
つい先日の35thのアンダーライブでは筒井あやめさんセンターで「日常」が披露されていましたが、大サビ前でニヤリとして、曲終わりも笑顔に近い「やりきった」というような表情でした。筒井さんは9thバスラの4期生ライブでも「日常」のセンターに立ったことがありますが、その時はニヤリとしていなかったので、どのような心境の変化があったのか……などという考察の意図はありません。
「日常」にはいわゆるキメの場面が2回あります(下の②と③の箇所)。
①は、だいたい皆共通で、苦悩する表情で頭を抱えたり手を振り払ったりします
②は、決意を固める真剣な表情をする人と、たまにニヤリとする人がいます
③は、②と同様の真剣な表情、目バキバキの怒りに近い表情、笑顔など様々です
・②の表情の例
左上:真夏の全国ツアー2019 北野日奈子
右上:3・4期生ライブ 久保史緒里
左下:9th YEAR BIRTHDAY LIVE 筒井あやめ
右下:10th YEAR BIRTHDAY LIVE 久保史緒里
・③の表情の例
左上:真夏の全国ツアー2019 北野日奈子
右上:アンダーライブ2019 at 幕張メッセ 岩本蓮加
左下:9th YEAR BIRTHDAY LIVE 筒井あやめ
右下:10th YEAR BIRTHDAY LIVE 久保史緒里
別に何か結論づけたい訳ではなくて、一つの楽曲に対しても様々な解釈、様々な表現があるものだなあという人並みの感想です。映像化されている中に、映りの良いニヤリの例が少なかったので残念です。
「日常」のパフォーマンスは2019年の全国ツアーが一つの完成形だと思っています。オリジナルの北野さんを除けば、10thバスラの久保さんが一番好きです。北野さん卒業直後くらいのタイミングかつ10周年という大舞台で、ほとんどアレンジせずとにかく真っ直ぐに向き合ったパフォーマンスと受け止めました。
そんな久保さんが初めてセンターに立ったのは2019年に行われた3・4期生ライブですが、大サビ前にニヤリとした笑顔を見せていて、オリジナルとは違う新たな表現を見せていました。
・ニヤリについて
歌詞を読み込んでみても、②の場面で笑みを浮かべるという解釈がなかなか見つかりません。もちろん自分の思考力が不足しているだけかもしれないのですが、少し穿った捉え方をするならば、決心や怒りを十分に表現しきれない人が模索した結果、辿り着いたベターな選択肢がニヤリなのではないかと思います。とはいえオリジナルの北野さん自身も、キャリア終盤には笑顔を見せることが増えたように感じますし、いろいろアレンジしたくなるものなのかもしれません。ただ、誰がパフォーマンスをしても、希望を感じるような笑顔ではなく、サイコパス的な笑顔に映ってしまうのも曲の持つ力なのかもしれません。
一つ考えられるのは、楽曲の世界観とは全く関係なく、単なるライブパフォーマンスとしての表現であるという解釈でしょうか。必ずフォーカスを独占できる場面において、いかに観衆を沸かせるかという点で使用されたテクニックが、サイコパス感溢れるニヤリであると。これが最終的に行き着いた先が、「僕の衝動」のラストの伊藤理々杏さんなのではないかと思います。
近い将来、「日常」の大サビ前に投げキッスする人が出てくるかもしれませんね。それはそれでサイコパスですが。
ちょっと長くなりすぎました。さようなら。
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