「アンダー」について

また歌詞の話ですが、今回はネガティブな話です。

18th「逃げ水」のアンダー楽曲「アンダー」について
センターは中元日芽香と北野日奈子

当時のアンダラ九州シリーズについては十分に語るだけの情報をもっておりませんので、とりあえずこの楽曲の許せない点についてだけつらつら書いています。

「アンダー」の許せない点はただ一つ、それは「アンダー」という、アイドル界、とりわけ乃木坂界隈においては半固有名詞と化している言葉を使ってしまっている点です。
要は、歌詞が一般化されていない。
「彼女たち」自身の歌になってしまっているということ。

アイドルの楽曲が嬉しい楽しいかわいいものばかりではないのは当然、全然共感できない歌詞だって山ほどあるし、WowWow言ってるだけの歌もありますが、別にそれはそれでいいです。

「アンダー」が伝えたい内容としては「ゆっくりと咲く花」とほぼ同じだと言ってもいいでしょう。それでも両者から受け取る印象はずいぶん違います。
歌詞への共感のできなさで言えば「〜Do my best〜じゃ意味はない」も結構酷いです。
かといって、じゃあ岩本蓮加さんが結果至上主義者だとは誰も思わないし、
「気づいたら片想い」を歌っているメンバーが片想いをしているとは思っていないし、
「日常」を歌っているメンバーは満員電車に乗るような毎日を送ってはいない。
そんなことは当たり前です。

アーティストが、アイドルが歌う楽曲を「僕たち私たちの歌」「誰かの歌」に置き換えて想像することができるから共感するわけで、「アンダー」にしてしまったら、それはもう「彼女たちの歌」でしかない。
「自分のことを歌っている」状態になって、より強く彼女たちに現実を突きつけることになってしまう。

「美しいのはポジションじゃない」ってメンバー自身に言わせるなよ。
ファンにとってはもちろんそうだし、第三者的に言うのも問題ないけど、本人が言ってしまってはもう…。

唯一メンバーが歌っても問題ないのは、結果論的に歌う場合です。
具体的には、衛藤美彩さんが卒業コンサートで披露したパターンですね。
彼女の場合は、アンダーを経験して、選抜としてのポジションを確立して、卒業しました(これ以上落ちない)。だからこそ歌えるし、説得力がある。

閑話休題
歌詞の一般化という話の中で、例外もあります。
「さゆりんご募集中」のように自ら名乗っている特殊な歌とか。
「三番目の風」「四番目の光」はギリギリのところですね。一般社会で三番目や四番目に置かれる立場の人は少ないので。でもこれらは前向きな曲なので別にいいでしょう。
逆に一般化されているのに、彼女のことを歌っているとしか思えない「ハルジオンが咲く頃」なんかは理想的な歌詞だと思います。

さて、じゃあ「アンダー」は何ならよかったのか。
まぁ楽曲自体無くてもよかったのですが、タイトルや歌詞を変えるとするなら…
例えば、1番サビの「アンダー」の位置には2番で「影」という言葉を置いています。
「影」というタイトルでもよかったかもしれないですね。ダサいですか。

メンバーによってはこの歌詞を前向きに受け止めているコメントもあります。
人それぞれ立場が違うのでそれも当然だと思います。
しかし、17thで選抜だった北野日奈子と、16th選抜のあと休業していた中元日芽香をアンダーに突き落としたタイミングでこの曲のセンターに据えるという非道。下衆の極み。

センターを務める北野日奈子さんを巡る物語の中で、この楽曲に対する向き合い方の変化や克服というトピックがありますが、それは彼女が逆境に打ち克ったという素晴らしい事実を示しているだけであって、この楽曲に対する評価が何ら変わる訳ではありません。
「アンダー」が北野日奈子を強くしたとか、この経験があったから「日常」があれだけの曲になったみたいな論調を目にすることもありますが、それには全く同意できません。そんな訳ないと思う。
こんなたらればに意味はないけど、仮定の話で言わせてもらうと
”「アンダー」があったから成長できた”
のと同じくらいの確率で
”「アンダー」がなかったからもっと成長できた、もっと幸せな生活を送れた”
かもしれない。
それを信じています。

後悔なくやり切った彼女にとってはもはや余計なお世話でしかありませんが、それでもやっぱり悲しい経験なんて無い方がいいに決まっている。そう思っています。

話が逸れたので寝ます。おやすみなさい。

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