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原稿その7:ゴンドアの谷の歌。

 大切に長く使う、地球環境に配慮したゼロウェイストな生き方は、お金に換算してさまざまな交換を行う資本主義の成長戦略と反します。豊かさを極め、人口減に転じた我々に、たくさんの新しいものは必要ありません。テレビも車も食事もスマホも住居も、ほとんど全てのものが「限界費用ゼロ」になりました。限界費用がゼロに近づくというのは、その製品を作るコストがとても低くなったということで、一部の金持ちしか持てなかった物が貧困層にまで行き渡ることを指します。スマホもTVも車も家屋も、質を問わなければ手にすることができます。これは当たり前のように享受していますが、大変なことです。少なくとも60年前には考えられないような便利で健康的で平等な世界に僕らは生きているのです。そして、そのような豊かさは天井に達しました。これまでのようにたくさんの物を売る時代は終わります。

しかし、馬と車の話ではないですが、人類は便利さや一元的な価値だけを選ぶわけではありません。どれだけ便利になってうしわれないものがあります。僕はこのことについて考えるとき、いつもナウシカのセリフを思い出します。ナウシカの育ったゴンドアの谷の歌です。

土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう

風の谷のナウシカ

どれだけ豊かで便利な暮らしを手にしても、多くの人が田舎に憧れたり、あえて不便なメディアを選んだりします。レコードが売れたり、いまだにレトロカーに乗る人がいます。(僕自身もそうです)それは単なる懐古主義ではなく、早すぎる速度に疲れ、ゆっくりとした流れに身を置くことで、濁流の中からでは気がつけない問題や最適化を俯瞰して考えるための一時対比なのです。ここにもインタラクティブな思考が求められます。成長と脱成長・デジタルとアナログ・都会と田舎。ここに優劣はなく、どちらも相互補完的に必要なのです。

 高度なテクノロジーは自然と区別がつかなくなります。僕らの生活は現時点でかななりデジタルとアナログの区別がつかないものへと変わっています。ライフラインはその影響が顕著です。例えば水道水を24時間安安全に飲めるシステムの運用方法や、電気やネット環境がどこでも大差なく使用できる仕組みを、普段特に意識せず利用しています。それは、もはやそれらがどのように永続的に機能しているのか理解していないの、その存在を疑わない物=「自然なもの」へとなっている証です。

ネイチャーとしての自然=水・日光のような自然物と、デジタルネイチャーとしての自然=人間の関与の上に安定供給されている仕組みを、分けることは困難ですし、日本には昔から「里山」のように人の手が加わった自然というものが多くあります。よく考えてみると、それは、すべてコントロールされた均一的な世界ではなく、むしろ、多様でアンコントロールな人間性が関与することで維持されている自然と名の「名もなき他者」と共生をしてきました。意識無意識に関わらず、僕らはあらゆる自分の外の環境と、相関的に関わりつづけることでしか生きられないのです。この、思い通りにいかない関係の中で最適化を行い続ける。という生き方は、これからのスタンダードになると思います。

そのような世界では、民藝も残り続けます。もちろん今日のように消費的な売買を前提とした在り方とは異なります。時代に適した最適なサイズとしてです。ちなみに買いものと言う行動は、自由になりすぎた末にむしろ狭くなっていっている僕は考えています。サブスクは、自分好みの情報や物品が自動で届く仕組みですが、これは、僕が「選ぶストレス」を抱えていることの裏返しです。そして、これは何も最新の発想でもなんでもありません。

便利なAmazonで偽物や詐欺商品が売られるようになった結果、リアル店舗を有する家電量販店の売り上げが戻っているという話がありますが、買い物に安心ができず、信頼できるお店からサブスク的に物を買うと言うのは、実は「生協」が生まれた時代背景と同じプロセスです。セレクトされていない玉石金剛な世界で「なんでも選べる」は、すでにストレスなのです。

地域通貨のように消費を地域で循環させる試みも増えています。グローバルになると言うことは、広くなると同時に、実は世界を狭くしているのです。そこで起こる問題は、集落の人間関係で起こる問題と大きくは異りません。今日のお話を聞いて、スケールの大きな話だと感じた人もいらっしゃると思いますが、これは非常に身近な問題なのです。家庭の中にこれまでもこれからもある問題なのです。全ては身近な問題と通じています。

そして、世界を変えると息巻くことよりも、家族と仲良く過ごすことは非常に困難であり、最も重要な問題なことだと思います。民藝は世界を変えません、民藝は僕らの変わりない日常をそのまま容認してくれます。その意味で、どんな時代にも日常があり続け、加えて祝祭があったのと同じように、僕らのに日常はどこまでも続くのです。

その8「多様性の民藝」に続く。

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