いつの間にかトップとバトルさせられているし、なぜか自分は受け入れている

クリーニング屋に行って店員さんと世間話をしていた中で私の名前について

「良い名前だね。名前負けしてない?(笑)」

と言われた。その場では何も返せなかったが、後から後から、こういえば良かったんじゃないかと考えてしまう。


返答①自分の良さをアピールする

「良い名前だね。名前負けしてない?」

「いやぁ、ここでは私の得意な〇〇を披露する機会がありませんでしたが、それを見れば名前負けしているなんて言えなくなりますよ。」


返答②正論

「良い名前だね。名前負けしてない?」

「どういう場合であれ、名前負けしているという言葉は言わない方がいいと思いますよ。私もいい気分になりませんし、特に客商売されているのであれば避けた方が良いです。」


返答③嘘

「良い名前だね。名前負けしてない?」

「本当の名前は唾に鬼と書いて唾鬼(つばき)なんですよ。全国唾飛ばし大会の選手だった母が、鬼の如き唾飛ばしの名手になって欲しいという願いを込めて唾鬼と名付けたんですが、私は全然唾飛ばしが上手くできず、名前負けしているんですよね。だから恥ずかしくて椿って名前を使っているんですよ。でもやっぱり名前負けしないように頑張りたいです!ぺっぺっ(唾を飛ばす)」


色々考えた挙句、そもそもこのクリーニング屋を今後使わなければいいのかという結論に至った。しかし使わないと決めた後も考えは止まらない。


椿と人間を比べることなど、元よりできるわけないのだが、一般的に椿という名前の女性が

「良い名前だね。名前負けしてない?」

と言われた場合、何と何を比べた上でその発言に至ったのかを考えると、椿の花の優雅さ、美しさ、愛らしさと、人間の容姿や佇まいを比べたと推測するのが妥当であろう。

私も自分のことを絶世の美女と思っているわけでもないため、多分そういうことだろう。

そもそも人の容姿をとやかく言うのは失礼であると言ってしまえば、そこで話が終わってしまうが、もう少し考えていく。

ここで多くの人が想像する椿というのは、咲いている椿である。しかし、椿は永遠に咲き続けているわけではなく、1年の間の一定の時期だけ咲いている花であり、蕾ができて、花が咲いて、散る。花が咲いていない状態も、蕾も、花が咲いている状態も、散った後も、全て椿である。

つまり、椿(咲き誇った美しい理想の姿)V.S.普通の人間のバトルを勝手にさせられているのだ。


1年を通して椿と美しさバトルを繰り広げたのであれば、12カ月のうち11カ月くらいは勝てる。(特に椿の花が落ちて茶色になっている時期のバトルは、観客から「もうやめて~!椿が可哀想!」と悲鳴が上がるレベルの圧勝)

椿と12戦中11勝した私を、誰が負けたと言えるのか?どう考えても圧勝である。そうか、私は美しさ勝負で椿に12戦中11勝しているのか。美しいな私。楽しくなってきた。

問題は、圧倒的勝利をしているにも関わらず、私も負けたと思ってしまっていたということだ。

いつの間にかトップ(咲き誇った美しい理想的な椿)とバトルさせられているし、なぜか自分は受け入れている。(ここでタイトル回収)

誰しもトップと戦って勝てるわけがないのに、みんなが勝てないからトップなのに、トップと勝手に比較されて、負け認定されている。

きっと名前以外のところでも、いつの間にかトップと比較されて、勝手に負けと決めつけられていることはあるんだろう。そして、なぜかそれを自分は受け入れてしまっているんだろう。


今後は人から負けだと言われても、比較対象がトップではないかということを確認しよう。トップではなくても、比較対象として適切なのか、比較対象に勝つ必要があるのか?を考えていきたい。

人から言われなくても、勝手に自分の中でトップ(すごい人)と自分を比べて、不要な劣等感を持つのはやめにしたい。

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