見出し画像

美しい横顔 #2

12月27日に亡くなった母はクリスチャンだったので、
12月25日のクリスマスまでは命を永らえようと頑張っていた。

12月26日の夜、危篤を告げられた家族が集まって、
母親と皆がそれぞれに最後の言葉を交わした。

母は私に言った。

「あーちゃん、もういいよね」

五年半もの時間を生きようと必死で病と闘ってきたというのに、
私はなんと答えればよかったのだろう。
今もこれが正しかったのかはわからないけれど、私は言った。

「うん、もういいよ」

そのあと母がどんな表情をしたかは覚えていない。

母を亡くして丸十年が経った。
正確に言えば十年も経ってしまった。

壮絶で、そして美しすぎる命の終わりの瞬間に立ち会えたことは、
私が生まれた証と生きる誇りになったけれど、
私はまだ母への歌を作ることができずにいる。

子供の頃からマザコンで、母に気に入られようとしながら、
そうできないことが辛かった。
私は私にしかなれないし、私がなりたい私を
母が受け止めてくれないことが悲しかった。
そして多くの衝突があり、私は最後まで、
母を喜ばせることができないダメな娘だった。

それでも病状が進み、立ち上がれなくなって病院へ移ってから、
母は少しずつ私を理解するようになってくれたと思う。

三十分

家を出て左折
坂を登って右折
信号を右折
紅葉が赤や黄金に
輝く公園を抜ける

夕焼けに染まる
車通りの少ない新しい道で
必ず赤信号につかまる

落葉した樹に
冬の美しい空が透ける

もうすぐあなたの部屋へ着く
そこまでの時間
いつもきっかり三十分

扉1

ドアを開けると

あなたは眠っている
薄暗い部屋で遠くへ意識を追いやって
こんこんと降り積もる
眠りの時を旅している

静かな眠り
恐ろしい夢
つじつまの合わないフェアリーテイル
もうこの世界にいない人たち

その手を握りしめても
見えることのない
あなただけの世界を旅している

扉2

ドアを開けると

あなたは目を覚ましている
ドアが開くその瞬間に、
こちらを斜めに見つめ言う

「遅いわね」

白い蛍光灯の下で
あなたは何を眺めていたでしょう
一人、何を見ていたでしょう

何事もなかったように私は言う

「ごはん食べる?」

ほら、日常を始めましょう

密かな楽しみ

「お弁当見せて」
食べもしないのにあなたはいつも
お弁当を見たがる

楕円のお弁当箱の小さな箱庭
玄米
梅干し
厚揚げの酢豚風
青菜炒め
ガボチャサラダ
プチトマト

「おいしそう~」
食べもしないのにあなたが見るから
こちらはどうにも食べづらい

やさしい子

お金を貯めなさい
時間を守りなさい
自分に厳しく生きなさい

何があってもあなたのいいところを伸ばしなさい
やさしい、いい子
やさしい、いい子

そう言ってあなたが
もうすっかり古く大人になった
私の頭をなでた

やさしい、いい子
やさしい、いい子

お水

帰ろうとすると
お水を欲しがる

吸い口で
お水を飲む

帰ろうとする
お水を欲しがる

吸い口で
さっき飲んだばかりの
お水をまた飲む

帰ろうとする
あなたがお水を欲しがる

いたずらっこの笑みで
おねだりをする

大嫌い

亡くなる一週間ほど前だったろうか。
母は私に聞いた。

「ママのこと好き?」

私は答えた。

「大嫌い」

「やらしいわね」

言ってやったけど、本当は違っていた。
母のパーソナリティーを私はどうしても好きになることができなかった。
多分友だちだったらけっこう嫌いな相手だったと思う。

思っていることはズケズケと言う。
相手の気持ちは忖度しない毒舌家。
ヒステリックであちこちで口論ばかりして恥ずかしかった。

それでも母といた時間の最後の最後で、
自分の体に流れる血が感情や意識を通り越したところで
「ママを愛してる!」と叫んでいた。

それぞれの親子にそれぞれの死別があるように、
私には私の、母との死別があった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?