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OLD FASHIONED -祖母の記憶 -

母方の祖母は随分と体格の良いひとだった。私自身が小さかったせいもあるかと思ったが、母から聞いた話でもやはり昔の女性の標準としてはダントツに大きかったらしい。早くに亡くなって顔も知らない祖父は小柄なひとだったため、近所では蚤の夫婦と言われていたのだとか。当時としては珍しい恋愛結婚で夫婦仲が良く、手をつないで畑仕事に出かける毎日だったらしい。

祖母自身は体格にはコンプレックスを持っていなかったようで、いつもしゃんと背筋を伸ばし、悠々たる立ち振る舞いをしていた。盆正月に遊びに行くと、私たち姉妹を相手にお抹茶を点ててくれた。祖母の部屋はこじんまりした別棟で、糠袋で磨いたぴかぴかの縁側があり、冬には火鉢にかけた鉄瓶がしゅんしゅん音を立てていた。脇には煙草盆が置かれ、浮世絵の美人画のように煙管をふかしていた。この煙管を掃除するためのこよりを、孫に作らせるのが好きだった。一緒に遊んでくれるお祖母ちゃんではなく、私たちを遊ばせながら時折『いくつになった?』だの『みかんをお食べ』などと思いついたように話しかけてくる。今思うと、物静かで大きな猫のようなひとだった。

祖母は北陸の寒村の農家で生まれたが、農作業を嫌って若くして東京に奉公に出た。ところが都会の水に馴染んだころ、関東大震災にあった。上野駅から、飴のようにぐんにゃり曲がった線路を頼りに、何日も歩き続けて故郷に戻ったそうだ。それでもほとぼりが醒めると、今度は家出同然で名古屋に働きに出た。祖父とは名古屋で知り合い、結婚した。

結局祖父の田舎で農業をすることになったのだが、都会暮らしが性に合っていたようで、野暮を嫌い、子供心にも小粋な(小粋、という言い方は当時は知らなかったが)小物を持ち、野の花を挿し、お茶を点てた。相撲が好きで、名古屋場所になると桟敷で一日中過ごしていたらしい。

こういった話は祖母が亡くなってから少しずつ、母や従妹や伯父たちから伝え聞いた。そういえば祖母はことばに訛りがあまりなかったとか、形見分けのときはみんなして祖母の小紋や大島紬の着物、根付や帯留めを欲しがっていたこととか、小さかった子供相手であっても、お年玉やお小遣いはきれいな千代紙にくるんで手渡してくれたことなどを、今でもふと思い出すことがある。


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