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FIPは、薬で治る病気のはずなのに

かつて結核は「発症すれば高確率で死に至る病」だった。1943年にストレプトマイシンという特効薬が発見され、複数の抗結核薬を併用して服薬するプロトコルが確立し、今では発見できさえすれば薬で治療できる病になった。同じ病気にかかっても、昔と今では意味が違う。サナトリウム文学なんてものは現代を舞台にしては成立しない。多くの死に至る病を治療できる病に変えるために、研究者や製薬会社は大金を投じている。

死に至る病があるのは人間以外の動物も同じだ。猫でいえば猫伝染性腹膜炎(FIP)という病気がある。猫腸コロナウィルスという、わりとありふれた、多くの猫が保菌しているウィルスが、ある日突然強毒性に変異して発症するとされているがメカニズムはよくわかっていない。発症後何もしなければほぼ100%が死に至る。かつては治らないものとして、FIPの症状が出たら飼い主は諦めるしかなかった。3歳未満の若い猫、特に子猫に発症することが多い。多くの飼い主やボランティアが悲しみと無力感に苛まれてきた。

2019年、GS-441524という薬効成分が猫のFIPに効くという研究成果が公開された。猫の飼い主たちは期待を寄せたのだが、特許を持っている企業が製品化する気が無いようで、いっこうに薬はできあがらない。製薬会社も私企業だから、猫の薬の市場規模では商売にならないと考えたのかもしれない。そうこうするうちに某国のメーカーが「猫のFIP治療薬」として販売を始めたコピー商品(当該メーカーは別ものと言い張っているが特許侵害を認めるわけにはいかないので当然だろう)が市場を席巻しはじめた。

自分の猫が病気になれば病院に連れて行き、薬で治るものなら飲ませるのが飼い主(と書いて「げぼく」と読む)の性である。初期の頃は体重5kgの猫を治療するのに車1台分ぐらいの費用がかかっており、クラウドファンディングで費用を集める飼い主がニュースになったりもした。そういう方法があることがわかって今度はクラウドファンディングが乱立し、プラットフォーム側でペットの治療費用を集めるクラウドファンディングに関する見解を示すようになったほどだ。

今はブラックマーケットなりの競争原理が働いてかなり安くなってきたが、それでも完治までには数十万円かかる。とはいえ、ここまで下がれば、それぞれの財布には事情はあれど、ひとまず仕事を持って猫を飼える程度の生活をしている多くの大人にとってはそれほど無理せずとも払える金額だ。お金で治るものならと出所には目を瞑って薬を頼る飼い主が続出した。

徐々に飼い主の間では「FIPは薬で治る病気」と常識が変わりつつある。そして困っているのは獣医師だ。飼い主から懇願されても「薬の代金がブラックマーケットに流れている」「コピー品で市場ができてしまうと正規製品が参入できない」という理由で決して手を出さない医師もいれば、「助けられる手段があって飼い主が望むならこたえないわけにいかない」という医師もいる。逆に「FIPは治る病気だから他院で断られた飼い主様ご相談下さい」と積極的に集客する医師もいる。人間の医療と違って獣医は全て自由診療だ。

そんな状況が変わるかもしれないきっかけが、Covid-19のパンデミックだった。「新型コロナウィルス」と言われて薬の開発が急がれ、開発された有効な抗ウィルス薬の一つであるレムデシビルは、猫の体内で代謝されるとGS-441524に変わる。実際にレムデシビルを、FIPを発症した猫に投与することで有意な治療効果があることがわかった。

イギリスではすでにレムデシビルの注射薬とGS-441524の錠剤がFIPの治療薬として認可され、治療プロトコルも確立しつつある。だが日本ではまだその薬を輸入している獣医師の数は少なく、個人輸入で入手したコピー品の薬には「サプリ」「ハーブ」などのラベルがついている。このような薬は、もちろんペット保険の支払い対象にはならない。

薬がなければ「不治の病」と諦めていたものを、諦めない選択肢ができたことは嬉しいことだ。だが、「諦めない」という前向きな選択に後ろめたさがつきまとう現状は、情報共有を堂々としづらい状況はいつ変わるのだろうか。こうしている間にも、FIPを発症したうちの子を前に途方にくれ、必死で検索している飼い主がいるのに。

Photo:ぱくたそ(写真と本文は関係ありません)


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