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◎一夜のナツコ

 奈津子だ、と思ったけどやはり違っていた。こういう時人はどうするだろう。一瞬見開いた眼を慌ててそらして素知らぬ風を装うのか。おれはそうできなかった。彼女の直ぐな視線がおれの目をとらえて放さなかったのだ。そのまま歩いて彼女に近づいたとき我知らず勝手におれの手が伸び、彼女も当たり前のように手をつなぎ返してきた。映画の一シーンのようなその一連の動きは、何のためらいもなくごく自然な流れに乗っていた。
 その出会いの直前までおれはちょっとばかり怒っていた。マイにその夜のデートをドタキャンされたのだ。それもディナー予約したレストランの席に着いた時に掛かってきた電話でだ。言い訳は気にしていない。それよりもマイとのやり取りの中に男の匂いを感じたことだ。マイがあえて匂わせたとも言える。目端の利く賢い女だ。男を手玉にとる鋭さもある。解っていてマイに操られている振りをする。でもこの夜は食後にいつものホテルを想定していたのだ。一人食べ終え、満たされない欲望を抱えて歩いていた。それでまるで火に入る虫のように、通りで出会ったアラサーの見知らぬ女に一瞬で惹かれたのかもしれない。ベージュのロングコート、品よく、清楚で、うるんだ瞳、そして何より奈津子に似ていた。
 一言も交わさぬまま、彼女の手を引くようにして歩き始めた。海岸通りをしばらく行くと、左手に坂道がある。その先はホテル街だ。マイとの一夜のつもりだったホテルもそっちにある。その坂を上り始めても奈津子似の彼女は黙ってついてくる。ネオンのにぎやかなあたりをやり過ごし、やや暗くなった細道に曲がると、黒板塀に囲まれた和風の宿がある。塀に切られた狭い入口は、歩きながら横に一歩動くだけで突然通りから姿が消えて見えるような造りだ。『初音』と筆文字の名だけが書かれた看板も、内からオレンジ色に照らされた地味なものだ。今まで利用したことはなかったけれど、今夜の彼女にはここがふさわしい気がした。玄関脇に小さく料金表が掲げられている。前に立つと、自動の引き戸が静かに開いた。
 裸になった彼女は、まっすぐ背を伸ばし、壁を向いたまま深呼吸したように見えた。白く滑らかな柔肌におれはうずく。ゆっくり向き直ってこっちの顔を見た表情はこわばっている。彼女の手をつかみ自分のほうへ引き寄せてやさしく抱きしめた。しばらくそのまま柔らかい体を包んで固まっていると、すぐに素肌のぬくもりがじんわりとしみてきた。吐く息がなお温かく肩の辺りを漂った。
 約束したかのようにずっとここまでお互い無言だった。湯船に浸かって向き合ったとき、ようやく最初の口を開いた。
「初めて?」
「はい…」
 うつむいての一言だけだったけれど、おれにはやはり奈津子の声に聞こえた。
 初めてのことをなぜおれなんかと…?
 そんな思いが抜けないまま、ひたすら穏やかに優しく接した。可憐な蕾、そんな言葉が浮かんだ。彼女の覚悟のほどがいじらしく、美しい思い出であってほしいと願い、ゆっくりと高みへと昇りつめるのを待った。
 翌朝、食事を断る彼女を駅まで送った。日曜の朝、どこも人はまばらだ。まだ別れたくない。切符を手にして向き合った彼女に言った。
「名前も聞いてないよ」
 彼女はさっぱりと澄み切った表情で見つめ返してきた。そのまましばらく互いの視線が絡み合う。また奈津子の面影が重なる。
「私、来週結婚します」
 きっぱり言うなり彼女は振り向いて、急ぎ改札を抜けていった。
 えっ! 意味をつかむまでに間があいた。ベージュの背中が階段に消えたあともしばらく動けなかった。
 何があったんだ? 本当におれで良かったのか?
 到着予告の駅アナウンスが聞こえ、やがて列車が入ってきて、未だおれが立ち尽くしているうちに、ベルの音と共に出て行った。
 甘美で、夢のような、でもどこか酸っぱく悔いもある、まるで初恋みたいなその想い出の中で、名もない彼女をおれはナツコと呼んでいる。


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