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【たそがれサラリーマン】挫折続きのキャリア後半戦を振り返り,10年前の自分に伝えたいこと

イバコーこと茨木幸生(いばらきこうせい)は,48歳でラインからはずれた,部下なし課長。52歳。
化学メーカーの人事で人財育成の仕事に従事している。

現在の主な仕事は,新人を中心とした個別面談。年間に200名ほどの社員ひとり1時間程度の面談をおこなっている。

面談の目的は,2つ。
ひとつは,人事のニーズとして,ひとりひとりの社員のみなさんがどんな気持ちで働き手いるのか?直接,生の声を聞いた上で,人事施策や組織風土の醸成につなげたい。問題意識として,まだまだ,組織ニーズ一辺倒で,多様化する社員のニーズに応え切れていないとがあげられる。

もうひとつは,社員のみなさんにとって,ご自身のキャリアについて立ち止まって考える機会にしてもらいたいこと。かつて,どちらかというと社員のキャリアは会社におまかせするという依存的な状態。それでも,年を追うごとに,係長,課長とあがり,収入も増加してきた。今は,みんなが課長になれるとも限らず,また,社員のみなさんが考えるキャリア観も必ずしもキャリアアップ一辺倒ではない。会社がそういった多様化するキャリア観にあわせたキャリアパスを準備するというのは難し。むしろ,「自分のキャリアは自分でつくる」という自律的キャリア開発を意識して,取り組んでいってもらう必要がある。

イバコーは,このミッションを企業内キャリコンサルタントとして取り組み,生涯の生業としていく覚悟である。実際,キャリアコンサルタントという国家資格を取得後,さらに上,熟練レベルに位置づけられる2級キャリアコンサルティング技能士検定に合格。現在は,指導者レベルである1級検定受検に向けてトレーニングを積むとともに,某大学の養成講座を受講中である。

イバコーは,自分のキャリアの中で大きな挫折をしている。
ひとつは,仕事の上で。もう一つは,家族との関係の中で。
そう,キャリアは,仕事だけではなく,生活面もふくまれる。むしろ,生活があっての仕事ととらまえてもいいだろう。

仕事上の挫折は,事業における失敗。

もともと,この会社への入社を決めた頃に遡る。
イバコーは,いわゆるバブル入社組。90年代初頭における就活というのは,完全に売り手市場で,学生が接待される側にあったほど。イバコーも,ホテルのレストランで取締役を交えて肉を食べさせてもらった。当時は,銀行や証券会社など,金融業界が花形で,理系の学生であってもそういった業界へ就職するのが珍しくなかった。

そんな中で,イバコーがメーカー,しかも大阪本社の会社に就職を決めたのには,いくつか経緯があった。

尊敬する叔父のアドバイス。大阪から,新幹線に乗り,東京駅から地下鉄を乗り継ぎ井の頭線の西永福駅近くにある,当時,叔父家族が暮らしていたのは銀行の社宅に向かった。そこで,イバコーが伝えた希望は,「大阪本社のメーカー」(なんでメーカーなのか?今となっては思い出せない。)大阪本社としたのは,いずれ大阪に戻りたいと思っていたからだ。ずっと大阪を離れたことがなかったことからくる愛着や大阪人としてのプライド,そして,イバコーが家をでた後は,母が実家で一人暮らしになってしまうことに,後ろめたいというか,かわいそうというか,親不孝というか,複雑な思いを感じていた。

母は,イバコーが高校生の頃に離婚していた。「(未成年の子どもがいるから)離婚はできない。自分は我慢しないといけない」といったことに,イバコーはやるせなくて,結局,暴力にうったえて父を家から追い出した。イバコーは,それが,母にとって良いことだと信じていたのだ。

叔父がすすめてくれたその化学メーカーの本業は,なんとも,チンケなものだった。たとえると,靴ひもの先っぽにあるプラスチックの部分を製造販売しているような感じ。メインの靴を陰で支える,一般のユーザーには気にもとめられないような,B2Bの事業を手がけていた。「おれは,そんなものに人生の全てを託すことができるのだろうか?」

「どうせ売るんやったら,夢を売りたい」
大学の同級生に伝えた思いだった。(彼女は,現在,某局のテレビ記者兼キャスターとして活躍している。)

イバコーは,叔父がすすめる化学メーカーについて,会社説明のパンフレットをむさぼり読んだ。その中にあった事業のひとつが,輝きを放っていた。それが,イバコーの迷いを吹っ切ってくれたのだ。

1.環境関連の事業を通して社会に貢献したい
2.世界を舞台に活躍するビジネスマンになりたい
3.まだまだ小さな事業とともに,一緒に自分も大きくなりたい

この3つが,この会社に決めた理由。この会社と言うよりも,この事業部に決めたのだった。

希望通り,この事業部への配属が決まり,希望した滋賀にある工場での経理(原価計算)とは違う,東京での営業部配属が決まった。

「違うと思ったら3年でやめる」と決めていたにもかかわらず,この事業部でできる経験が期待以上で,その後,20年,同じ事業部に属したことになる。就職前に,インターン的にリクルートでの営業経験ができたことも,自分なりの仕事観,キャリア観が醸成されたことも大きい。そして,上司に恵まれた。それで,20年の間に,オランダ・ドイツに2年間,サンディエゴに5年間の駐在を経験することができた。思い描いていた2つのことを現実化することができた。なかでも,家族同伴でサンディエゴに駐在した時には,公私ともに充実していた。お陰で,子どもたちをバイリンガルに育てることもできた。妻とも共通の趣味,サーフィンとヨガを楽しんだ。イバコーのキャリアのなかで,もっとも輝く5年間だった。

しかし,事業を大きく成長することには貢献できなかった。
他の事業部からきた,新たな事業部長との方針に納得がいかず,その人間性にも嫌悪を感じていたこともあり,また,かつての事業部の先輩からの引きがあったことから,イバコーは,事業部を離れ,本社スタッフとして,人事人材育成部門へと異動した。帰国して間もない子どもたちが,やっと,日本の小学校になれた頃でもあったので,単身赴任となった。

それから,今にいたる。生活上の挫折というのは,家族と離ればなれという状況のこと。イバコーは,夫婦げんかの絶えない家庭に育った経験から,自分は,暖かい家庭を作ることを夢見ていた。それが,最も輝いていた家族一緒のサンディエゴ駐在生活から,一転したのだった。

「結局,俺は,オヤジと同じではないか」
理由はともかく,結局は,家族バラバラの状態をつくりだしてしまった自分を責めた。

イバコー,43歳の頃の話。「中年の危機」をもろに食らったわけである。

キャリアは,大きく4つのステージにわけることができるであろう。
1.入社して会社に定着する段階 【新人3年間】
2.一緒に働く仲間や顧客に貢献できるようになる成長期 【6〜12年目くらい】
3.中年になって戸惑う期間 【30代後半〜40代半ば】
4.引退や老後も視野に入れて働く時期【40代後半〜】

イバコーは,ホップ,ステップと順調だったにもかかわらず,ジャンプのところで大きく転けた。

今年,53歳になる。この10年を振り返り,そしてこの先10年の展望を持ちながら,10年前の自分に語りかけたい。

イバコーが,43歳の自分に伝えたいのは,

・今,君の市場価値は高いということ。環境関連事業において20年の経験による業界知識,欧州・北米の駐在経験からのグローバルコミュニケーションスキルとマネジメント力,営業・マーケティング・事業開発・事業企画の経験,そして,MBAを修了して間もない。これだけのビジネス資産を持っているのだから,社内だけではなく社外にも選択肢を探した方がいい。

・転職する際の大きなリスクは,ビジネス資産のなかでも人脈を失うことではある。同じ社内でも,君が属していたのは弱小事業部。それでもかつては,その事業部出身者が会長であり,タテの人脈が形成されていたことがあった。それも昔の話。今となっては,人脈皆無であり,影響力は極めて小さい。

・職場を選ぶには,スキルフィットとカルチャーフィットの2つ。事業部で発揮できたパフォーマンスがそのまま本社人事人材育成スタッフとして発揮できるとは限らない。特に,事業部では売上や顧客が絡むので,経済的合理性が働くが,本社スタッフは,極めて属人的,政治的判断,忖度がまかり通るまったく違うゲーム。そして,一緒に働くメンバーは誰か?引っ張ってくれる先輩は?センター長とはいえ,周囲からの評判はどう?君が見ている人物評とはまったく違う可能性を見落とさないこと。あとあと,それが元凶となる。

過去10年を振り返ると,そうアドバイスしたいとイバコーは思う。

しかし,これからの10年を展望すると,イバコーは,こんなことも伝えたいと思う。

・君にとって,もっとも大切なことはなにか?それは,ワークキャリアの前提となるライフキャリア。その中で,君が大切にしたいのは,自分の家族なんじゃないか?家族が安心して暮らせる環境を提供し続けるのが,君がもっとも果たしたい役割なんじゃないか?

・だとしたら,同じ会社で働き続けるというのは,間違った選択ではない。少なくとも,東京の拠点を持ち続けることができるのだから。

・そして,確かにこれから10年,まったく新しい仕事をするわけだし,同じ会社にいるといえど,それまで積み上げてきた信頼がゼロリセットされるのだから,苦労するし,うまくパフォーマンスが発揮できるかわからない。いや,わかった上で言うと,うまくパフォーマンスが発揮できなくて,ラインから外されることになる。それでも,その10年の経験があるからこそ,相手の痛みや不安,悩みがわかるキャリアコンサルタントになることができるのだし,さらに,この先10年後のことをかえると,その役割を生涯の生業としてたずさわっていくことができる。

・そう考えると,43歳で,ゼロリセットして新しい領域に飛び込むことも,悪くない。

・そして,実家の近くに住むことになる。東京か大阪という二者択一の選択ではなく,東京にも大阪にも拠点を持っているわけで,実家に一人暮らす母親のサポートもできる環境にある。

・妻,子どもたちも,自分で選んだ環境なのだから,納得して過ごすことになる。そして,息子たち二人とも,立派だよ。妻が,ほぼワンオペで育ててくれた。長男は現役東大。次男は,アイビーリーグ目指してカナダに留学。東京を拠点にしたからこそ,できたことだ。君の決断は,間違っていなかった。

司馬遷の話は聴いたことありますか?

「史記」を書いた司馬遷は,李陵をかばったために,時の皇帝によって宮刑という悲惨な刑にかけれられてしまった。宮刑とは,強制的に去勢されることで,これ以上理不尽な仕打ちはない。
司馬遷自身が,「宮刑より大きな恥はない」「郷里の人々に笑われ,先祖の名を汚してしまった。面目がなくて父母の墓参りなどできはしない」と残している。
しかし,彼は「史記」を完成させるために,耐えて生きる道を選んだ。

去勢というのは,男性性器を切り落とされると言うこと。それと比して,部下なし課長くらいは,どうってことない。家族のために得たことと,この先の自分の生き方,生業のことを考えると,いい決断だったんだよ。


■参考図書
サラリーマンは,二度会社を辞める。楠木新著
大人のための読書の全技術 斎藤孝著

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