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ブラックバード-「飛べない鳥の旅路」より- 4章

酷い頭痛で目覚めたのは正午を少し過ぎた頃だった。
翌日が休日だからと言って、二日酔いに良い事なんて何一つない。
この瞬間だけは人生で二度と二日酔いなんて誓うのだが、二日酔いが治る頃にはそんな稚拙な誓いは忘却の彼方へと去っている。
この家は自宅兼事務所として使用している2階建ての一軒家。
そして当然、ブラックバードと同居している。
だから、急な仕事が入ると、この自宅兼事務所はたちまち仕事場と化す。
心休まらない、本当に質が悪い環境だ。
普段のブラックバードはというと、作業部屋と化した2階の一室を占拠している。
基本的にブラックバードが1階に降りる時は、食事を採る時だけだ。
そんな流れから、自ずと僕は1階の大きなリビング兼事務所で生活しなければならない。
そりゃあ、プライベートを保つ個室が欲しいと思った時期もあったが、慣れてしまえば特に問題はなかった。
何せ、僕には恋人が居なければ、そんな想い人も存在しない。
逆に、個室が無くて困らない事に困ってしまう。
無限の自虐ループに陥りそうだ。
それよりも、現在の問題は今も絶賛進行中の二日酔いが誘う激しい頭痛だ。
大海原で豪快に漂う難破船のように、全身が左右に揺れているようだ。
昨夜の映画を観ながら、いつの間にか寝ていたようで、物語の結末も分からず仕舞い。
そんなモヤモヤした感情のまま、点けっぱなしのテレビを眺める。
すると、昼のニュースがダライ・ラマ14世の来日と死刑囚の執行を女子アナウンサーが乾いた声で伝えていた。
…あれ?」と体の上の違和感を抱く。
身に覚えの無い白いタオルケットが僕の腹に敷かれていた。
誰が掛けてくれたんだろう?
おはよう
幼さの残る柔らかい女性の声が、僕の意識を徐々に現実へと引き戻す。
目を擦りながら声の聞こえた方に視線を向けると、小さなキッチンでコーヒーを沸かしている女性の姿を捉えた。
肩まで伸びた黒髪を一つに束ね、赤縁メガネを掛けた鈴木千恵子が、いつもの灰色のリクルート・スーツでコーヒーを白いカップに注いでいた。
コーヒーの芳醇な香りと白いカーテンの隙間から零れる白い朝日。
二日酔いが無ければ世界で最も至福な朝になっただろう。。。
もう正午だけど。
今回のツアーも無事に終わったみたいね」と無表情の千恵子は注ぎたてのコーヒーを僕の前にあるテーブルに置く。
そして会話を続けたい訳は無いようで、そそくさと自分のデスクに向かいパソコンの電源を入れた。
その仕草から察するに、急な仕事が入った様子は伺えない。
コンサート直後に笹沖が言ってきた懸念案件である、新曲スケジュールのメールはまだ届いていないようだ。
お陰さまで… それよりもブラックバードは?
さぁ… 見なかったけど
千恵子は肩を少しだけ竦めるが、それ以上は何も言わずにパソコンのキーボードを打ち始める。
2階で作業をしているのかな?
いや、昨日のコンサートはいつも以上に動いていた気がする。
流石に、まだ寝ているだろう。
いやいや、昨日は作詞をしていたか。
随分と苦戦している様子だった。
そうなると、ストイックなブラックバードの性格から察するに、今も出て来るべき言葉たちを追いかけるように藻掻き続けているかもしれない。
そんな事を想いながら、未だに痛む頭を庇いながら起き上がり、千恵子の入れたコーヒーを啜る。
頭痛薬はあったかな?

――ピンポーン――

不意に鳴り響くインターホンが僕の弱っている脳を刺激する。
そんなインターホンが鳴り止む前に、金髪のショートヘアに大きめなサングラスを掛けた小柄な女性が、何の断りも無く、ズカズカと足音を立てながらリビングまで侵入してきた。
右手にはノートパソコン、左手にはルイヴィトンのハンドバッグを持った女性。
彼女こそが、僕以外にブラックバードと会話をする事が出来る貴重な人材である深見涼子だ。
普段から酷い顔なのに、更に酷くなってるわよ
ご丁寧にもサングラスを少し下げて、上目遣いで車に轢かれたカエルを見るような蔑んだ目で僕を見下す涼子。
また今日は一段とサディスティックに磨きが掛かっているようだ。
何か機嫌を損ねるような事でもあったのだろうか?
そんな一抹の不安を抱いていると「それよりもブラックバードは2階?」と僕の不安を他所に涼子は周囲を見渡す。
それに釣られて僕も咄嗟に周囲を見渡すが、1階に居るのはパソコンを打ち続けている千恵子だけ。
多分ね」と僕が言った瞬間、涼子は不機嫌そうな顔を浮かべ、足早に階段へと行ってしまった。
本当に、何か嫌な事でもあったのだろうか?

深見涼子――
元々は東京芸術大学で絵画を専攻していたらしい。
しかし、美術の勉強をしているうちに映像の方にも興味を抱き始めた3年生の夏に大学を中退すると、その時期にブラックバードと出会った。
それからブラックバードのデビュー作品から今に至るまでのミュージックビデオの映像監督を全て涼子が担当している。
そんな涼子が手掛けるミュージックビデオは絵画を専攻していた経験が活かされ、1シーン毎の構図がかなり拘った作品となっている。
故に、今までのミュージックビデオには無かった静と動が際立つ珍しくもスタイリッシュな仕上がりとなった。
デビュー作となった忘却心中のミュージックビデオは、インターネットから話題になると、瞬く間に日本中へと拡散し話題となった。
それを契機にブラックバードと同様、涼子自身も世間に認められ、忘却心中を境に多くのアーティストから仕事の依頼が舞い込むようになった。
しかし、涼子はブラックバード以外の仕事を全て断った――
私の理想を求める作品において、ブラックバードという世界観が必要なだけ
何年か前、僕にだけ教えてくれた。
誰もが知るような有名アーティストの仕事を断るなんて勿体ないとも思うのだが、その反面、ブラックバードの立場からも同じ事が言えるのかもしれない。
ブラックバードの世界観を言葉だけで伝える事は難しい。
寧ろ、感覚で伝えなければならない部分が大半を占めている。
そうなると、ブラックバードの世界観を表現できる者は周囲を見渡しても涼子を置いて他に居ない気がする。
相思相愛。
どちらからともなく惹かれ合い、求め合い、出会うべくして出会ったような…
安っぽい言い方になるが“運命の出会い”なのだと思う。
僕自身も仕事以外で涼子と会った事は無いので、彼女の詳しい性格までは分からないが、ブラックバードと打ち合わせをしている時の涼子は、
直感で物事を決断する芸術肌タイプに映る。
自分が信じた事は、何の根拠や確信が無くても最後まで貫き通す。
それが例え、どんな犠牲を払う事になると知っていても止まらない。
その姿勢はまさにプロフェッショナル。
ブラックバードと重なる部分が多くある。
だからお互いの意見が合う時は、僕が何をしなくてもスムーズに話しが進む。
しかし、少しでもお互いのイメージや思考にズレが生じると、忽ち収拾が付かなくなる程の修羅場と化す――
確か、4作目のミュージックビデオの構想を練っている時だ。
涼子とブラックバードの意見が真っ二つに割れ、ついには堪え切れなくなった涼子の拳が、ブラックバードの顔面に目掛けて飛んできた。
それを止めようと仲介した僕の顔面に見事命中した。
そんな懐かしい場面を思い出しながら、再び眠ろうと目を閉じた所で、その時の涼子の強烈な拳が脳裏に過ると一気に眠気が去り、思わず身体が震えあがった。
これではもう眠れないな。
溜息と共に身体を無理に起き上がらせる。
何より、ブラックバードと深見涼子を二人きりになっている状況が気になって眠れやしない。
やっと起きた?
僕が起きた事に意外そうに目を丸くした千恵子のパソコンを打っていた手が止まる。
うん、ちょっと様子を見て来る
何の?
2階の
何で?
……
明らかに会話が嚙み合っていない。
これから深刻な事態に陥るかもしれないというのに、こういう時の千恵子は楽観的で苦手だ。
そんなことよりも早く2階に向かおう。
うっ!
勢いよく立ち上がった瞬間、鈍器のような物で後頭部を殴られたような… とベタな例えしか出て来ない程の激しい頭痛が襲う。
恐らく、立ち眩み分も上乗せされているのだろう。
再びソファーに倒れ込みたい誘惑を断ち切り、しっかりとした足取りを試みる。
そしてリハビリをする患者のように、近くにあった椅子の背もたれや壁に縋りながら歩き始める。
やっとの思いで階段に辿り着いた頃には、常に鳴り響く頭痛にも随分と慣れてきたようで、手摺りを頼れば何とか2階まで登れそうな位なまでには復活した。
そこまでは良かったのだが、いざ登り始めて2階へと近づくにつれて、二人の声が全く聞こえてこない事実に気付く。
はぁ…
自分の溜息とは思えない程、無意識のうちに長い溜息が漏れていた。
積極的な議論を行っていれば、部屋の外に居ても会話が漏れて聞こえる程に会話が弾んでいるはずだ。
それが、今のように沈黙が支配しているという事は、これ即ち、怒号が飛び交う嵐の前の静けさである可能性が高い。
降水確率で言えば70%か? いや、90%はあるだろう。
どちらにしろ、修羅場と化すのは時間の問題だ。
生憎様、言葉の夕立ちを交わす傘は持ち合わせていない。
このまま何事も無かったかのように1階へと戻ろうか。
いや、ここで逃げた所で、早かれ遅かれ災難は自分に降り注ぐ。
そして何より、2階の扉の前で立ち尽くしていても何の解決もしない。
時間の無駄以外の何物でもない。
きっと、死ぬ瞬間には、こんな嫌な気持ちなど忘れているのだろう。
そう自分を窘めながら、修羅の道に繋がる扉を開ける決意を固める。
これもマネジャーである僕の仕事だ。
そう言い聞かせながら、そっと部屋に入る。

左隅にある茶色いソファーに腰掛けている涼子の表情は普段の端整な顔立ちから、最も遠い冷たく歪んだものとなっていた。
そんな涼子とは対照的にいつもの白いジャージ姿のブラックバードは相変わらず仮面を着けたまま、両手を後頭部に添えて宙を眺めていた。
嵐の前の静けさというよりも、断崖絶壁の瀬戸際でトランプタワーを作っているような、見るからに危うい状態だった。
下手に手を差し伸べると、その一瞬でバランスを崩したトランプタワーは崩壊してしまうだろう。
ただ、僕が手を出さなかった所で、崩壊は時間の問題に思えた。
一歩でも誰かが動けば、その微風で崩壊するだろう。
ならば、一秒でも早く苦痛から脱出する方を選ぼう。
それが僕の性格なのだから。
そう悟りの境地に達した所で「何かあったの?」と手を差し伸べた瞬間だった。
僕が想像するよりも遥かに沸点が高かった涼子の奇声が口火を切った。
だ、か、ら、笹沖から3日以内で、高橋ケンイチみたいな分かり易いキャッチーな曲でお願いしますよ~とか言って来やがったって言ったのよ!
あのチャラい笹沖のモノマネ付きの怒号が部屋中に鳴り響く。
しかし、こんなにもシリアスな場面で涼子の誇張し過ぎた笹沖のモノマネが妙に似ていたものだから、ついつい笑みを溢してしまった。
笑い事じゃないわ! まだ全く方向性も決まっていないのよ。しかも1週間後にはプロモーション・ビデオの撮影に入るとか言うし! バカでしょ?
感情を露わにして僕に同意を求める涼子の狐のような鋭い目には怒り以外の感情は窺えない。
どうやら、笹沖は僕の方ではなく、涼子の方に直接メールを送っていたらしい。
それに悔しくないの? “高橋ケンイチみたいに”なんて言われて!」と腕を組んだ涼子は肩を竦めながらこちらを睨む。
高橋ケンイチとは、ブラックバードがデビューする切欠となったオーディションで最優秀賞を獲った人物だ。
同じオーディション出身という事で、デビュー当時は音楽業界内でよく比較されていた。
しかし、唯一無二で我が道を進むブラックバードとは異なり、業界最大手のガイア・レコードからデビューした高橋ケンイチは女性受けしそうな整った顔の持ち主と、分かり易い歌詞とキャッチーなメロディーを武器に音楽業界の王道を突き進んでいる。
更にガイア・レコードの猛プッシュも手伝い、多くのCMやドラマの主題歌に起用された。
その売上はデビュー当時から好調で今までリリースしたCDは常にオリコン上位に入っている。
そんな高橋ケンイチ自身も、サービス精神が旺盛な性格の持ち主で「僕は生まれながらのスターだからね!」と自分の立場を理解している。
今では音楽業界だけに留まらず、多くのバラエティー番組にも出演し、既に幅広い世代に認知され、高い支持を得る事に成功している。
そんな高橋ケンイチみたいな音楽性に寄せる行為は侮辱以外の何物でも無いと考える涼子は怒りが治まらない様子で激しく貧乏揺すりを始める。
ご機嫌斜めの理由はそういう事だったのか。
笹沖のデリカシーの無さは今に始まった事では無いが、その被害が僕の方に飛び火する事を考慮して欲しいものだ。
しかし、屈辱的な要求をされた当の本人であるブラックバードは冷静を保った様子で口元を緩める。
この業界は誰かに憧れて入る者が殆どだろう。しかし誰かみたいになろう、なんて奴はすぐに消える。
この業界が求めているのは金になるアーティストだ。しかし世間が求めているのは、誰の代わりも務める事が出来ない唯一無二の存在だ。
だから、今回も俺は俺だけの世界を創る。それだけだ
そんなブラックバード語録を黙って聞いていた涼子だった。
しかし、満足気にブラックバードが言い終えたところで間髪入れずに
格好つけるのはいいから、早くその世界観とやらを作って頂戴! 本当に時間が無いんだから!
と苛立ちを爆発させる。
両肩を上下に震わせながら、一向に怒りが治まらない様子の涼子。
今は何を言っても焼け石に水だ。
僕とブラックバードは思わず視線を合わせ、お互いに肩を竦める事しか出来ない。
それにブラックバード自身、作詞はするが、作曲をすることは出来ない。
それはデビュー前からの知人で、作曲家の亀山さんと二人三脚で音楽活動しているからだ。
なんでも、普段から偏った作曲の仕事をしている亀山さんは、ジャンルの幅を広げたいという思惑があったらしい。
当時、歌詞活動をインターネット内で行っていたブラックバードと出会い、利害が一致した二人は、そこから創作活動を始めたらしい。
そんな作曲担当の亀山さんから不定期で次回の作曲候補のデータが添付されたメールで届く。
その中からブラックバードの世界観とイメージが合った曲が次回作に採用されるシステムとなっている。
故に、どんなにブラックバードが一人だけで作品を創作しようとしても、始めから無理なのだ。
だからと言って、このまま何もしなければ、時間がいつまで経っても作品の完成までに辿り着けない……
そんな静寂の中で、僕は不意に昨日まさにこの部屋でブラックバードが作詞している風景を思い出した。
メロディーを聴く限り完成には程遠い気がするが、今から全くゼロの状態から曲を作るよりは幾らかの作業は省けそうな気がする。
ただ、笹沖が望む“高橋ケンイチみたい”かどうかは分からないが。
昨日、作詞していた曲はどう?
ダメだ! このタイミングじゃない。あの曲はいずれ大切な局面で必要になる曲だ
ブラックバードにしては珍しく、語尾を強めて否定した。
そして再び訪れる静寂。
そんな沈黙の長さに、涼子の貧乏揺すりが明らかに激しくなっている。
このまま放置しておくと、大爆発を起こして取り返しが付かない程の甚大な被害を及ぼしそうだ。
そんな危機を察したブラックバードは、深くため息を付きながらパソコンのマウスを手に取る。
仕方ない。あまり気は乗らないが、以前に亀山さんから貰った候補曲のデータが幾つかあるから、その中から選ぼう
溜め息交じりに苦し紛れな提案を出したブラックバードに対し、涼子は顔を顰める。
それで歌詞は書けるの?
…なんとかする
何時間で書けるの?
曲による
相変わらず怒りを隠さない涼子の矢継ぎ早な質問に、ブラックバードも次第に苛立ちを芽生え始めたようで髪を掻き毟り、再び沈黙が部屋を支配して灰色に染め始める。
とりあえず、亀山さんから以前に送って貰ったデモ曲を皆で聴こう。そこから話しが進むかもしれない
沈黙に耐えられなくなった僕が無難な提案を出すと涼子は渋々ながら「分かったわ」と了承した。
先ほどの沈黙の間に冷静を取り戻してくれたのか、自らの感情を抑制するように長い深呼吸をしている。
それを聞いたブラックバードも持っていたマウスを何度かクリックし、パソコンに繋がっているスピーカーのボリュームノブを少し上げる。
この前、届いたデモ曲だ」と説明したブラックバードは再びマウスをクリックする。
しばらくして、ベースラインと電子ピアノだけで演奏された飾り気の無いデモ曲が部屋中に虚しく響く。
何とも素っ気なく味気ない気がするのだが、まだデモの段階なのだから仕方が無い。
仕方が無いのだが…
この音だけで、果たして明確な方向性が定まるのだろうか?
そんな素人の僕が抱く不安を余所に、2人は無言のまま3分程続いたデモ曲を細心の注意を払う様に目を閉じてじっくりと聴き入る。
何の前触れもなく演奏が終わった所で鋭い目を開けた涼子が「どう?」とすぐにブラックバードに感想を求めた。
これも… 今のタイミングじゃない
それじゃあ、次
いつの間にか主導権を握っていた涼子の指示に従い、ブラックバードは素直に次のデモ曲を再生すると再びベースラインと電子ピアノの演奏が始まる。
しかし、今回はドラムパートも加えられていた。
そのおかげで、先ほどよりも随分と演奏に輪郭が付いているように聴こえる。
それでも僕の耳には素っ気なく物足りなさを感じる。
今度は2分弱で終わった短いデモだったが「シックなジャズって感じかしら?」と涼子の脳内では随分と完成された構想が出来上がっていた。
そんな涼子の意見を聞いたブラックバードは顎先に手を添えて何度か頷くと
テーマは楽園だ。それも皆が描くような都合の良い場所じゃない。寧ろ、地獄に近い現実のような楽園
そう言いながら、大きく両手を広げて自分の中で創造する楽園を思い描く。
僕には全く理解できないブラックバードの独特な物言いだったが、涼子は悪戯っぽく微笑む。
そして先ほどの怒りは宇宙の彼方に吹き飛んだ様子で、
活き活きとした表情で持参していたノートパソコンを開いて爽快にタッチペンを器用に走らせながら絵コンテを描き始める。
そんな涼子を見たブラックバードも触発されたようにパソコンの横に立てていた大学ノートを開くとボールペンを豪快に走らせて、
頭の中に湧き出る言葉たちを何一つ漏らすまいと急いで殴り書き始める。
今夜中にできそう?
なんとかする
具体的にどんな楽園なのかしら? 明確な設定が欲しいわ
そんなブラックバードと涼子の会話を聞いていると、名曲が誕生する逸話みたいな物語をテレビ番組で放送していたのを思い出した。
大抵の名曲が生まれる時は、驚くほど短時間で、トントン拍子に事が進むといった内容だ。
それが結果論なのか、或いは精神論なのかは分からないが、現在僕の目の前で広がっているこの光景は名曲が生まれる逸話になり得る可能性を秘めているのだろう。
いや、名曲が誕生する予感など平凡な僕には微塵も感じられないが、どうやら目先の問題である新曲の目途は立ちそうだ。
あり得ない設定で大量の雨が降っているシーンが欲しい。何て言うか… アパルトヘイトを懐かしむ白人のような無情の雨
余りにも漠然としたブラックバードの比喩表現に、涼子はこめかみ部分に人差し指を当てながら少し悩む。
あり得ない設定… 晴天なのに大雨とか? 白人が懐かしむかは分からないけど
いや、もっとあり得ない状況だ。何かないか?
そうね… それじゃあ、ちゃんとした建物の屋内に居るのに大雨が降っている。なんて、どうかしら?
それだ! オフィスビルが良い。その中で色々とあり得ない表現をすれば、全て歪に映って面白そうだ!
そうなると、照明も様々な色を用意した方が良さそうね。後でライネオに確認しておくわ
ライネオとは、ブラックバードのコンサートの証明やプロモーション・ビデオの撮影時に照明を担当している会社だ。
確かにライネオは細かい照明器具を何個も使用して丁寧に仕事をする。
それは素人の僕が見ても分かるのだから間違いないのだろう。
しかし、それ故に好い仕事に伴う料金もかなり好い値段になる。
更に照明以外にも撮影専門のカメラマンや場所の確保など、様々な準備が必要だ。
それも当然ながらサファイア・レコードが決めた予算内に収めなければならない。
そんな撮影予算の管理は本来、僕がしないといけなのだろうが
私が全て把握しているから、あなたは何もしなくて良いわ」という涼子の言葉に甘えて、今まで涼子に任せきりになっている状態だ。
その代わり、あなたはどんな時でもブラックバードの味方で居てあげて
そんな涼子との等価交換で僕たちの関係は成り立っている。
どう見積もっても随分と僕に利益率の高い内容だと思うが、何より涼子本人がそれで良いと言うのだから仕方が無い。
さてさて、これだけ積極的に会話が弾み始めれば僕の出番は無さそうだ。
そろそろこの部屋から御暇しようかな… と腰を上げた瞬間だった。
駄目よ。あなたは最後まで見届ける義務があるわ」と涼子の鋭い視線が容赦なく僕の全身を通り越し、核心にまで突き刺った。
責任感だとか、義務感だとか、道徳心だとか、そんな見えない鎖が何重にも交わって僕の身体を縛り付けているようで一歩も動けなくなっていた。
足掻けば足掻くほど身体に食い込みそうで、無駄な抵抗は止めた方が得策だと脳が素早く理解した…
仕方がない。多少の退屈もまた僕の仕事なのだろう。
観念して天を仰いでも灰桜色をした細かな花弁が散りばめられた天井が僕を見下すだけだった。
それから僕は借りてきた猫のように終始黙ったまま、
唯一無二のアーティストと独創的な世界観を持つクリエイターが発する日本語なのに半分以上理解できない会話を聞き続ける羽目になった――

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